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01.おぞましい記憶

──婚約が破談になった。


 理由は婚約者の不貞。


 発覚した原因も、聞いた限りこれまた一番嫌な感じだった。嫌がらせにしか思えないほど完璧なタイミングで。もしかしたら、図られていたのかもしれない。

 そうだとしたら本当に性格が悪いと思う。

 まあ、何故こんなことをしたのか今となっては分からないし、理解したいとも思わないけれど。


 だって私──アンジェリカ・ディ・ウォーレンは彼に対する感情を含めた、一部の記憶を無くしてしまったのだから。



◇◇◇



 人生で一番最悪な日になったあの日。アンジェリカは婚約者の邸を訪れた。そして彼の部屋に案内され、そこで繰り広げられていた光景に、彼女は目を見張ったのだ。


 最初、何が起こっているのか。頭に入ってこなかった。寝台に男と女がいることが分かる。女の長く揺蕩う金の髪が陽光と共に光り輝いているのがここからでも見える。


「…………な……に、こ、れ」


 持っていたバスケットが腕からすり抜けて床に落とす。おおきく、おおきく、鳴った。その音でようやくアンジェリカが来たことを知ったのか、寝台にいた青年────アンジェリカの婚約者が振り向いた。


「アン……ジェリカ? 何故ここに」


 瞳に浮かぶのは驚きと焦りと。少し怒りもあっただろうか。

 ショックで動けないアンジェリカは固まったままで、口が利けない。声を出そうにもヒュッと空気を切るような呼吸しか出ない。


 けれど、足元から何かが崩れていく感覚はあった。


「アンジェリカって、あのアンジェリカ?」


 柔らかな澄み切った────見知った声。


 ビクリと肩が震える。嘘だ、うそだ、まさか相手の女は──


 裏切りに次ぐ裏切りを知ってしまいそうで見るのが怖い。でも、確認しない方が無理だった。

 震える足を踏み出して、一歩、また一歩と寝台に向かう。


「そ、フィア」


 彼の下にいる彼女は──アンジェリカの友人だったのだ。


 そこでもうダメだった。ダメになってしまった。


 艷めかしさと甘ったるい匂い。彼らの顔に浮かぶ汗。全てが、視覚が、聴覚が、嗅覚が、身体が、この場の出来事を、今見たものを、拒絶する。


 気持ち悪い。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ吐き気がする。二人を見るにこれが初めてだとは思えなかった。アンジェリカには今、ここで何が行われていたのか、知識として頭には入っていた。


 それは何だか神聖なものに思えていたのに、今のでおぞましく、汚い行為だと蹴落とした。


 ふらりとよろけ、その場にしゃがみこんでしまう。


(む……り)


 体の内から熱いものが迫り上がってきて、口元を覆った。ここで吐いてはいけない。分かっているのに、嫌なのに、それは意志とは反して、我慢をゆうに飛び越え、その場で嘔吐く。


 手の間から胃の中にあったものが伝い落ち、床を、手を、着飾ってきたお気に入りのドレスを、冷や汗と瞳から溢れてくる冷たいものを伴って汚していく。


 ポタリ、ポタリと零れていく涙でようやく自分の気持ちを自覚した。


 心が、とても痛い。軋む。


(私は──少しずつ彼のことを好きになっていた。そしてとても好きだった。優しくて、いつも笑いかけてくれた彼のことを。何が……悪かったの?)


 これは親が取り決めた政略的な婚約で、自分が望んだものではなかった。それでも何年も婚約者として隣にいたら多少の情は移るし、恋情も生まれるだろう。アンジェリカも例に洩れず、そうだったのだ。

 ただ、気付かなかっただけで。


 こんな、不貞を働く婚約者であるのに。


 だからこんなに悲しい。見たくない。嫌だ、無理だ、嘘であって欲しいと願っている。現実なんてそれほど優しい訳では無いのに。目の前の光景が現実なのに。受け止めきれない。


 それなのに何という裏切り行為だろうか。


 慌てるように上半身裸の彼が伸ばしてくる手。

 優しく手を繋いで微笑んだ記憶が蘇り、黒く塗りつぶされる。

 アンジェリカは反射的に思いっきり叩き落とした。


「触ら……ないでッ! 気持ち悪い」


 ようやく出た声は冷ややかで、それは明らかな拒絶だった。

 あの手で触れて欲しくなかった。大切だった思い出をこれ以上、汚く、上書きされたくなかった。


 初めて彼を睨みつけたかもしれない。アンジェリカがこのような反応をするとは思っていなかったのだろう。叩き落とされた手を宙に浮かせた状態で固まっている。


──穢れもの。裏切り者。おぞましい。


 もう全て吐いてしまったのに、胃酸がまた喉元まで出かかるのを無理やり嚥下する。


「答えてください。どうして、ソフィアと…………」

「──貴女だとつまらないからよ」

「え?」


 見せつけるように、友人であるソフィアはアンジェリカの婚約者に撓垂れ掛かった。


「違っ! アンジェリカ! 誤解なんだ」

「きゃっ、ちょっと何するのよ! 誤解なわけないでしょう?!」


 彼が友人を寝台にはじき飛ばした。


 廊下が騒がしくなってきた。多分アンジェリカを案内した侍女がこの部屋の惨状を見て、ほかの者を連れてきたのだろう。


「…………最低だわ」


 ぐしゃぐしゃの顔でそれだけ言うと、よろめきながら立ち上がって部屋から出る。

 廊下には心配そうにこちらを窺っていた者や好奇心を隠そうともせずに、汚れたアンジェリカのドレスを見てヒソヒソと囁く者もいた。


「アンジェリカお嬢さまっ!」


 一緒に来ていた侍女が曲がり角から姿を現す。彼女は吐瀉物で汚れたアンジェリカを見て、大慌てで駆け寄ってくる。


 彼女がアンジェリカを抱きしめると、安堵から気を失ってしまったのだった。


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