白い息が空に溶けたら
冬の掌編。短いです。
待ち合わせ場所に着いて、はぁっと大きく息をはいた。
途端にその息が白く染まって、ふわりと広がり消えていく。
そんな、ほんの一瞬の光景が、やけに目の奥に残った。
何度も浮かび上がるそれに、今日この待ち合わせに来るまでに思考を支配していた思いが重なっていく。
息が白く染まっている間くらい、短い時間、ほんの一瞬のこと、それで良かったのだ。そうなんだろうと思っていた。むしろ、そうであることを望んですらいた。
なのに今、この場所にこうして弁明のようなことをしに来ているということは、私の思い違いであったということらしい。
いつの間にかうつむけていた視線の先、アスファルトの上に、靴が映り込む。
ゆっくりと視線を上にずらせば、その靴の持ち主が、普段と変わらぬ無表情でこちらを見ていた。
「……ちょっと遅れた、ごめん」
目を合わせまいと口元ばかりを見つめていたら、そう言い終えてふと吐かれた息が一瞬、白く染まるのが見えた。
季節は二年前の秋、私が高校二年生だった頃に遡る。
所属していた演劇部の地区大会でのことだった。
同じブロックのとある高校に、彼はいた。
目立つ役どころというわけでもないのに、なぜかふと目が追っている。幕が下りた後も、ふわっとした印象が残る。そんな役者。
もっと見ていたい、と素直な感想が胸に残った。
その後……今年の春先に、再び彼を目にすることが無ければ、素敵な役者だったなという感慨だけで終わっていたのだろう。
同学年で、同じ大学に進学しているとは、思いもしなかったのだ。
なんとなくの惰性で演劇サークルに入った私は、新入生歓迎会で彼を発見し、自分の選択に拍手喝采を送ることとなる。
普段のあまりのローテンションぶりに、演じているときとは別人かと本気で疑ったり、出身高校の地区が同じだったこと、私が彼の高校の演目を憶えていたことなどをきっかけにそこそこ会話をするようになったり……とそれなりに充実したサークル活動を送っていくうちに、私の中で看過できない思いが大きくなっていった。
思いという漠然としたものではなかったかもしれない。もはやそれは目標といってもよかった。
同じ舞台に、立ってみたい。
この役者を、同じ舞台から見たら、いったいどんな風に見えるんだろうか。役者を多少かじった者としての立場とも、一ファンとしての立場とも言い切れないこの曖昧な願望から生まれた目標は、私をとらえて離さなかった。
そしてこの秋、学園祭公演で、それはあっけなく叶ってしまった。
無事に終わって一月ほど経ってからも、私は処理しきれない感情を持て余し、次の公演準備が始まる前に、サークルを辞めた。
「…………どうして辞めたのか、聞いてもいい」
とりあえず目についたコーヒーショップに入って、席に落ち着いた途端これである。
質問というよりほとんど断定の口調で問われたそれは、答えないという選択肢は与えてくれなさそうだった。
「それを聞くために、わざわざ?」
仕方なく口を開いたものの、内容は言い逃れだ。
「休日にごめん。でも急だったし、気になった」
「暇だったから平気」
一言返し、まだ口をつけていなかったラテを一口飲む。少し苦い。
「……確かに急だったかもしれないけど……時期は選んだつもりだよ」
往生際の悪さを自覚しながら目線を上げると、珍しく強い瞳に見据えられる。
普段から機嫌がいいようには見えない彼だが、今日はわかりやすいほどに不機嫌であったのだと、この時初めて気がついた。
「……私こそごめん。ちゃんと説明する。……理解してもらえるかは、わからないけど」
全部を正直に話す必要はない。一番簡潔に伝わる言葉を探して、またラテを一口飲む。少し落ち着きを取り戻し、私は息を吸った。
「自分が本当に望んでいたものが何だったのか、やっとちゃんとわかった。……それが役者じゃなかったから、辞めることにした」
私の言葉の意味を考えていたのだろうか。少しの沈黙のあと、彼は実に痛いところをついてきた。
「……役者をやりたくなくなった、とは言わないんだな」
あれだけではだめだったのだろう。詳しい説明を求められている。
言いたくないところだけ上手く隠して、説明することはできるだろうか。……きっとできない。目の前の人は妙に聡いから、隠したところをつつかれてしまうだろう。
私が言い出すのをじっと待たれてしまっているので、観念して話すことにした。
「すごく、……失礼な話だと思うんだけど。役者をやりたいとか、やりたくないとか、そういうのを持てるほどの関心がなかった」
「……関心」
「演劇自体はすごく好きだよ。でも、私にとっての役者っていう立場は、数あるツールのうちの一つでしかなかったみたいで。そんなの、失礼にも程があるでしょ」
話すうち、考えもまとまってくる。口を挟まれないのをいいことに、私は止まらなくなっていった。
「この前の公演のとき、私が考えてたことは一つだけだった。客席からあんな風に見えていた役者は、同じ舞台にいたらどう見えるんだろう。……それだけ」
言いながら、考えの読めない目の前の瞳を見つめる。言わんとすることを察したのか、その瞳がわずかに揺れる。
「…………その役者って、俺?」
諦めとヤケで、私は大きく頷いた。何かを言われる前に、言葉を繋ぐ。
「高校のときの地区大会で、妙に印象に残ってたの。たぶん、そのときからファンなんだ」
「………………ファン」
半ば茫然としたような声音で、彼は呟いた。そして、眉根がギュッと寄せられる。
「不快に感じたなら、ごめん」
「そういうわけじゃない。……けど、それと辞めるのとどう繋がるの」
わからない、というよりは、理解したくないといった口調だった。続きを話すのに、罪悪感が邪魔をする。
「公演を通して残ったものが、私はただのファンでしかなかった、って自覚だったから、続けていられなかった。私一人の、ものすごく個人的な我儘でしかないから、できれば、気にしないでほしい」
本人にファンであることを告げるのは避けたかったけれど、もう言ってしまったものはしかたない。
ただただ、観客として眺めていたいという最初に感じた思いだけが残って、役者を続けることも、同じサークルで同じ演劇を作ることも、とてもやれないと思ってしまった。
私としては、辞めた今はすっきりしている。同じ舞台から見るのも貴重な体験であったと思うけれど、それはあの一回で十分だったのだ。結局私は観客でしかなかった。
「……全部わかることはできなかったけど……、なんとなくは」
「……うん」
「これからは、観には来てくれるのかな」
「もちろんそれは」
「よかった」
ふ、と緩められた表情に、こちらもやっと肩の力が抜ける。
今まで通りに気楽に接することはできなくなるかもしれないけれど、ファンであることを否定されなくてよかった。
きっとこれからも、私はこの役者のことを、応援し続けるのだろう。そんな風に思った。