第一章7 カウンセラー田原
今回から毎日一話更新します。
「ここは?」
目を醒ますと、タクミはベッドに横たわっていた。
「やっと起きたか」
ベッドの脇には学年主任の教師がタクミの顔を覗いていた。
「先生…… これは一体?」
「病院だ。お前は数か所の骨折をしていて、入院中だ。早くて一週間後の退院だそうだ」
「そうですか」
タクミは力なく、返事をして、ギブスで巻かれた両腕を見た。
「この状況になっている理由は、分かっているか?」
「…… だいたいは」
「分かっているのなら、それで良い。今はゆっくり休んでくれ。話はそれからだ」
それからの三日間、ぼんやりとした日々をタクミは送った。その間に、見舞いに来た両親の言葉から、自分の身に起きた事の大半を聞かされた。
「全くあんたって子は。凶器を同級生に向けるなんて。おまけに骨が折れてまで、刃物を向けるって…… どれだけ恨みを持っていたの?」
「ごめん」
タクミは謝るのだが、母は高ぶった感情を抑えられず、次から次へとマシンガンのように言葉が出てきた。
「まあ、その激痛のおかげで、同級生を傷つける前に失神したと聞いたから、まだ良かったけれどね。あんたのそういう小心者っぷりがここであんたの身を助けたわけだよ。もし、傷つけた場合は、ただ事では済まなかったのよ。それ、分かってる? 下手したら、刑務所行きだったのよ。一応、相手方の親御さんには謝罪したけれど、お母さん、頭が痛くて……」
母の言葉はタクミからしても正論だった。正論だからこそ、胸に突き刺さる。
「こういう時こそ、お父さんにいて欲しいんだけれど、運が悪いことに出張でしばらく家を空けてしまうし、連絡も取れるような場所でも無いし。ああ、お父さんがいれば……」
ガミガミと、まくしたてるように話している母の声を、タクミは意識的に遠ざけていった。
この先の事など、考えたくも無かった。病床に伏している方がマシだと思える自分があったのだ。
「それじゃあ、変な気を起こさず、安静にしているのよ。話はそれからだから」
母、仁美は言いたいことだけ言って、病院を後にした。すでにタクミの中で、気力が失われていた。
(もうどうでもいい)
枕に頭を深く沈めて、タクミは瞳を閉じた。様々な事が頭によぎるが、それら全てをテレビの電源でも落としていくかの如く、意識的にプツリと消し去っていく。だが、その最中で、一つの事が引っかかった。
新崎達を傷つける前に失神したと母は言っていたのだが、タクミの中では違っていたことだ。
(あの時、明らかに誰かが自分を止めてくれたのに、なぜ、誰もそれに気づかないのだろう? それに、ユウキと名乗る男の人も一体……)
だが、いくら考えても分からなかった。
(もしかしたら、夢なのかもしれないな)
思考するのにも疲れたタクミは寝ることにした。もしかしたら、これですべてが帳消しになるかもしれない。それに期待するように布団に顔をうずめて、目を瞑る。
しかし、寝ようと思ったその矢先にそれを邪魔するかのように、ドアの方でコンコンと叩く音が聞こえた。
「今度はなんだよ」
タクミは起き上がり、扉を睨みつけた。再びノックする音が聞こえる。
「今はもうたくさんなんだ…… 後にしてくれ」
タクミはノックする音を無視して、横になる。そして、イヤホンを取り出して、耳に取り付け、音楽を流し始めた。だんまりを決めこむことにしたのだ。
(しばらくすれば、諦めるだろう)
その後、何度かノックする音がかすかに聞こえたが、流れてくる音楽でかき消した。一向に入ってくる気配も無く、完全に物音が聞こえなくなったのを見計らって、イヤホンを外した。
(やっと帰ったか)
一息ついたタクミは、イヤホンをベッド脇に置く。
「なんだ。起きているじゃん。いるなら、ちゃんと返事してよ」
突如、扉の方から女性の声が聞こえた。タクミは慌てて、入り口を振り返った。入り口ではかすかに開いた扉から、女性らしき人物が頬を膨らませてこちらを見ていた。
「なんなんですか? 普通、無断で開けませんよ。誰ですか?」
かすかに開いた扉の隙間から見える人物を、ベッドの位置にいるタクミからでは、顔の詳細や、全体像が把握できない。タクミは不信感を募らせた。
「ひっどいなあ。前に会ったじゃない。君の学校のスクールカウンセラーだって」
女は扉を一気に開いて、姿を現した。ショートパーマに白い肌の、大きな瞳。
そこで、タクミは思い出した。
「確かスクールカウンセラーの田原さん…… でしたっけ?」
「やっと思い出した感じだね」
田原は入室して、ベッドの脇に置いてあるパイプ椅子に腰を掛けた。
「何のようですか?」
「君の話が聞きたいんだよね」
田原は視線を落として、カバンからメモ帳とペンを取り出した。
「主任とか、武田先生から聞けばいいじゃないですか?」
「そういう話は先生たちから聞いている。でも、私が知りたいのは、君という人間なの」
田原はメモ帳を開いて、ペンを右手に持つと、左の前髪を耳に掛けた。
「俺の話? 聞いてどうするんですか?」
「別に悪いことをしようってわけじゃないの。話をすることが私の仕事だから」
「まあ、仕事ですもんね」
タクミはどこか遠くを見ながら答えた。それを田原はじっと見ていた。タクミが言い終えてからも、見つめてくる田原に、さすがのタクミも、田原の方に顔を向けた。
田原は心配そうな顔をしながら、艶のある唇を動かした。
「そんなやさぐれないで。何もしなければ、私、給料泥棒とかなんとかって言われているんだから。ここは私の手助けだと思って、何か話そう!」
(心配していたのは自分のことかよ)
タクミは思っていた答えと違ったせいで、リズムが狂った。話を受け流すつもりであったが、受け流せなかった。
「子供にせがむなんて、大人としてどうなんですかね?」
だから、タクミは思わず、口走ってしまった。
「残念な大人かもね」
「え?」
田原の答えはさらにタクミを困惑させた。無意識に聞き返してしまったのだ。
「それでも、私は別にそれでいいと思っているの。他人と比較することじゃないから。私は、私の信じたことをするだけ」
「おかしな大人ですね」
「そう。おかしな大人なの。ふふ、やっと表情が和らいだね」
スクールカウンセラーの田原に指摘されて、タクミは横に置いてある鏡を見た。目元の歪みが和らいでいた。
「私ね、どうせ人と話すなら、明るく話したいの。『コトダマ』 って言葉は知っている?」
田原は手元にあったペンでサラサラと言霊と書いた。
(また、コトダマか)
タクミはユウキと交わした際の会話を思い出した。あの時に聞いた言葉は言葉の魂と書いて言魂だったはず。
だが、ここで求められているのはそういうものでは無いだろう。
タクミは世間一般にある答えを田原に伝えた。
「声に出した言葉が実際の何かに影響する、みたいことですよね?」
「そう。良い言葉を言えば、良いことが。悪い言葉を言えば、悪い事が。どんよりするような話をしていれば、暗くなる。楽しい話をしていれば、楽しい気分になる。暗くなってまで、何かをしたいと思える?」
タクミはゆっくりと首を振った。そんなタクミに田原は微笑みながら、言葉を続ける。
「だから、君にとって楽しい事がなんなのか、教えてよ。最近の君はおそらく、君にとって胸が痛む話ばかりさせられているだろうから」
ふとタクミは考えた。本当に楽しいことなんて、話したこともないし、考えることも無かった。そして、あまりにも遠い、昔話のレベルにまでなっていたのだとタクミは気付いた。
「でも、それでは……」
「やってしまったことはしょうがない。君のはまだ、取返しが付くものだし、ちゃんと反省すればいいだけ。何度も何度も悔やんでいるでしょう? だったら、この時間ぐらい、君の楽しい話をしてみようよ」
「楽しい話か。なんだろう? 何かあるかな……」
タクミは上を見上げながら、想像を巡らせた。無数の空っぽの引き出しを一つ一つ開けて、確認するように。二、三分経っても何も思いつかない。気持ちが後ろの方に転がりそうになった時、田原はまた声をかける。
「じゃあ、何をしている時が楽しかった?」
タクミは記憶を過去にさかのぼる。まだ、純粋だったころの自分をだ。
すると、幼き頃の自分の姿が眼前に現れた。
「漫画を読んでいる時とか……」
幼き頃の自分が興奮しながら、ページをめくっている。
「へえ、どんな漫画が好きなの? 私も漫画、読むんだよねえ」
「バトルもので……」
「いいねえ! 私も読むよ。バトルものなら、少年漫画は外せない」
田原の予想外の食いつきに少し困惑しながらも、話をした。
そこから二人は漫画の話で盛り上がった。時に頷き、時に二人である一コマについて考察しあったりした。
他愛の無い会話だった。
だが、沈んでいたタクミの心が軽くなっていくことをタクミは実感していた。ふとした時に時計を見て、タクミは驚く。
「もう二時間も話していたのか……」
そこで、田原も時間を見て驚いた。
「ありゃりゃ。もうこんなに時間が経っていたのね。さすがに帰らないとまずいかなあ」
田原は立ち上がり、帰り支度の準備に取り掛かった。それを見て、タクミは少し戸惑った。
「良いんですか?」
「良いって何が?」
田原は荷物をまとめつつ、タクミに聞き返した。
「本当はあの事件のことについていろいろと聞きたかったんじゃないですか? この二時間ずっとただの雑談しかしていなくて、どうなんだろうと思って」
「君は話したかったの?」
「いや、そんな気分には……」
「だったら、話さなくて良いよ。話したくなったときに話せばいいから。それじゃあ、また来るから」
それから二日に一回の頻度で、彼女は病院に現れた。
「やっほー。元気にしてる?」
彼女はいつも入室するたびに、タクミにそう挨拶した。そして、学校とは関係ない雑談をする。特に多かったのは、始めて見舞いに来た時に話した漫画の話。二人で好きなキャラクターの話をしたり、好きな展開を話し合ったりした。また、タクミが挙げた漫画で、彼女がその漫画を読んでいなければ、彼女はその日のうちに漫画本をレンタルし、読んできて、次にタクミと会うときにはその話をするという凝り性っぷりで、さすがのタクミも舌を巻いた。
そんな日々を過ごしているうちに、タクミは少しずつ田原に心を開いていく。鬱屈としていた入院の日々のささやかな楽しみになっていた。その楽しみのおかげで、時が過ぎるのは早く、一週間が過ぎていた。すでに退院まで残り一日となっていた。
「じゃあ、次、会えるとしたら、退院後の学校かなあ」
いつも通り、帰り支度をしている田原がそう言ったとき、タクミはうつむき、黙ってしまった。そんなタクミの様子を見て、田原は帰り支度をしている手を止めた。
「学校、行きたくない?」
「…… まあ」
タクミは煮え切れない返事をした。
「学校は楽しい?」
「こんな状況で楽しいように見えますか?」
タクミは陰りのある表情を田原に見せた。
「学校、行きたくないかあ。そうだよねえ」
腕を組んで、頭を傾けながら、考える田原。
「じゃあ、学校で話す必要ないな」
「えっ?!」
「別な場所で私と話すか。せっかくだし、遊びにでも行く?」
「いや、でも……」
予想外の返しにタクミは何と言っていいのか、分からず、うろたえた。
「そうだ! 映画館とかも行ってみない? 話すだけじゃもったいないでしょ?」