>死刑は人殺しだから、それを存続させようというのは人でなしだと思う
2020 4/4
初稿を公開
2020 4/15
五日 永遠さん、クロスオーバーさん、の感想を受けて補筆
2020年 05月22日
メールボックス/ぞんび さんの感想を受けて補筆
>死刑は人殺しだから、それを存続させようというのは人でなしだと思う
それはかなりの極論に思えますね。
確かに死刑とは国家という利権集団による基本的人権の侵害ではあるのですが、だからといって、それを支持する者すべてが人でなしだというのは言い過ぎでしょう。
客観的に考えるなら
死刑は、恐怖による民衆の統治という権威主義的手法で、だからこそ多くの近代民主主義国家では廃止されつつあります。
けれど日本という国では死刑による恐怖統治が効率的で有効とされて続けられています。
死刑は、民主主義の法治という意味では問題であるので違憲なので法律改正をというのなら論理的なのですが
「死刑は人殺しだから、それを存続させようというのは人でなしだ」というのは、「被害者家族の無念を思えば死刑はあるべき」というのと同じ公私混同の感情論で、私刑を禁じる法治の精神にも反します。
この国には平等を否定し効率的という理由で階級社会を目指す者や、様々な権威による社会的差別容認する者達も多くいて、特に前科を持つ者は、それで「人生が終わった」などといわれ差別されがちです。
ハラスメントやイジメなどを行う者が非難されにくい権威主義社会が残っていて、だからこそ民主主義に反する世襲議員などが権力の中枢にいて占領統治時代のように米国の軍隊を国内に置き、実質的にはUSA権威の一部として国家が運営されています。
民主主義を根幹とする憲法を掲げながら、法治の基本となる憲法が連合国軍に国家の主権を奪われていた占領統治時代に創られた事を理由に、表や裏で民主主義の法治を否定する権威主義者達もいます。
そして、感情論で公的制度や他者を語る事が、悪意だと考えず、正義だと考える者も少なくありません。
そういった感情論を除いて死刑を語る場合
恐怖統治を容認する死刑存置派の人達の多くは権威主義者で、死刑を「必要悪」だと認識しているのでしょう
必要悪とは何か?
●1
それは 善とは何か?
悪とは何か? を同時に問い定義する質問なのでしょう
客観的、科学的に考えて
全ての宗教のいう神=フィクションとするなら
必要悪とは、「人間」が創った概念であり「言葉」です
そして
善や悪という概念が必要性があって創られた概念なので、単純な悪と区別する言葉として生まれたのでしょう
●2
では、何時創られた「言葉」でしょう?
兵器という概念より先にミサイルという概念がないように
概念は積み重ねられていくものです
「人間」が必要とした概念なので
それを何時必要としたか考える事は
論理的に道筋を立てて考えるのなら重要です
●3
また「人間」にとって必要なものであり
他の生物種にとって必要なものではないので
「人間」と他の動物の違いについて考えねばなりません
進化の道筋と太古の生活環境からして
当初の
「哺乳動物の一種である霊長目ヒト科ヒト属という動物」は
キツネザル類、オナガザル類、類人猿と同じような生存戦略をとっていました
けれど「人間」と同じ肉体構造を持っていても
この段階の「ヒト」は生存戦略でいえば
「人間」ではなく「毛無猿」といっていい存在です
現在の「人間」の生物種の生存戦略は
「自然淘汰に従わず獣としては生きずに、自然環境を集団連携で改造して生きる」
というものです
この生存戦略は
大脳新皮質と呼ばれる部分の発達と言語による経験則の共有化により
「生物種として当初から存在した本能的欲求を制御すること」で可能になりました
つまり
「自然淘汰に従わず獣としては生きない」生き方を生存戦略
として選んだ存在が「人」である
と定義されます
これは「文明」という概念に集約される生き方だといえるでしょう
●4
3で定義されたのが「人」なら
PCに例えるなら
人とは 肉体 ( ハード ) と 精神 ( ソフト ) と 知識と経験則 ( ダウンロード ) で動いている存在です
肉体のみでは「人」と定義されず
社会から知識と経験則をダウンロード する事で
精神 ( ソフト ) を拡張して「人」になるということです
ソフトもなく、ネットにも繋がってないPCは唯の箱
人の社会で人に育てられないなら
数万年前と変わらない「毛無し猿」という例えですね
●5
1~4を前提として
善と悪という概念について考えて見ると
この概念が「人」の定義と深く関る基本的な概念で
「人間という種全体の生存戦略に関る最重要の概念」である事が解ります
つまり「人間」が必要とする概念として考えるなら
善とは「自然環境に従わず獣としては生きない」生存戦略の理性による肯定で
悪とは「生物種として当初から存在した本能的欲求を制御すること」の理性による否定です
●6
「本能的欲求を制御」した「文明」の肯定と「必要性」いう観点で見るなら
善悪が必要となったのは
現代の文明の基盤となる「文明」が誕生した
「原始共産制」ともいう「共存」の時代で
「狩猟文明」で生まれた「規律」といった概念を
「群れの統率という本能」と区別する必要が生じた時代
古代の神話に残る「原初の楽園」という概念で語られる社会を「人間」が構築していった
「農業文明」の初期であったと考えられます
●7
この時点でいうなら
善 = 共存する意志、「人間」の生存戦略を肯定する生き方
悪 = 自分や自分達さえ得をすればいい「損得を第一に考える獣の生き方」
邪悪 = 愚かさと悪の結合、「生物の自滅本能である“ 共食い ”や“ 同種の殺害 ”」を肯定する獣
必要悪= 「権力という悪」による邪悪の排除システム
だったのでしょう
しかし、「文明」の進歩と同時に社会の支配者層は
「悪人」が「善人」を排除していくことになります
それは「文明」の進歩で生まれた「余裕」を
自分が得をするために使う人間と
皆のためにと使う人間の差だったのでしょう
「本音と建前」で「善悪を誤魔化す」という方法で
それは現在でも続いています
「権力という悪」は誤魔化しで
「神という正義の代弁者」に変えられていき
「支配」は、皆の生活を「支」え、公平に「配」るという意味から
「暴力による強制システム」により
抑圧と従属を強制する征服の意味に変わっていきます
権力者の邪悪化によって
自らを必要悪と定義した権力者の「誤魔化し」で「他の社会の否定」をして
「戦争」が生まれ
前史の時代は終わり、「歴史」が始まります
「血統主義による富の収奪」という「悪」で階級化社会が生まれ
社会は「建前」で「悪」を否定しながらも「本音」で権力者のみに「悪」を肯定する矛盾したものとなります
善が否定する「自然淘汰システムの否定」を誤魔化した「人為的淘汰システムの肯定」
という「悪」の時代の到来です
そこで
善 = 共存する意志、「人間」の生存戦略を肯定する生き方
必要悪= 人為的淘汰システムを正当化する概念、悪による邪悪の排除システム
悪 = 自分や自分達さえ得をすればいい「損得を第一に考える獣の生き方」
邪悪 = 他者の不幸が自らの幸せ、「人為的淘汰システムの狂信者」愚かさと悪の結合
へと概念は変化し
「善」は人の本質とは遠い「形骸化された理想」という印象を
権力が意図的にふりまく「誤魔化し」を行い続け
悪と必要悪と邪悪は混同されて
「血統主義による財産の相続」という「資本主義の公平性」を損なうような「必要悪」などのように
「必要悪」は
嘘や誤魔化しという「必要悪」を使って
権力者達の都合で拡大解釈されていったのでしょう
「殺人の禁忌の必要性」
「正当防衛と呼ばれる殺人の必要性」
「緊急避難による殺人の必要性」
「死刑システムによる殺人抑止の必要性」
「戦争という殺人の必要性」
殺人というものを考えるときに何処までを「必要悪」とするかのボーダーラインの違い
それが死刑存置派と死刑否定派の違いなのでしょう
あるいは権力者達の都合で拡大解釈された「王権神授説の神」を利用する権威集団のように
神≠フィクションと考えて、「神という絶対的権威が存在する」と考える非科学的な立場で
「必要悪」など認めないと「絶対的正義」を主張するという選択もありますが
十字軍や聖戦という「集団同士の殺し合い」を否定するならばその立場で「殺人否定」を語るのは大きな矛盾を抱えることになります
西欧や中東の聖書宗教の文化圏では
そういった「神の絶対正義」を信じる人間が多く
古神道の精神文化を多く残す日本の人間は「神の絶対正義」を信じない
という文化的背景もあり、和洋混交した現在の日本では思想的対立も生まれるので、死刑存置派と死刑否定派の議論は感情論になりがちですが、「理不尽」を否定するなら感情論で公的制度を語るのは「公私混同」でしょう
「公私混同」の害悪は、「私刑による殺人」と「公的制度の死刑」を混同させる事からも判るように最悪の立場であり、だからこそ感情論は公的な議論では口にするべきではなく死刑に対する主張からも感情論は排除すべきです
感情論を抜きで語るなら
「人の命の価値」とは「全て等価」と考えるべきという主張と
「毛無し猿」同然の「人間」と呼べない獣と「人間」の命を同等と考えるなという主張
精神は見えないものなので、どちらの主張が現在の日本に必要かというのは正確には判断できません
だから、冤罪も生まれるし、権力者が故意に冤罪で他者を陥れる危険もあります
死刑について主張をするのなら、自分が冤罪で裁かれる危険性と犯罪によって殺される危険性という二つのリスクを「どちらも自分の身に起こり得る現実」という認識が必要でしょう
そういう実務的問題であると同時に「断罪」は「人間」という存在の定義をどう行うかという問題でもあります
「イデア論」
「グノーシス主義」
「三位一体論」
「唯心論」
「唯物論」
「実在論」
「実証論」
「神の奴隷」
「進化論」
宗教か信仰か哲学か権力か科学か
貴方の「命の価値」を導くのは何ですか?
善 = 「共存する意志」 それとも「神」?
善 = 「共存する意志」と貴方が考えるのならば
「対話と理解を求める」という道を望んでください
そして、よく自分自身と相手について考え、互いの立場を明確にしたうえで議論すべきです
「察しと思いやり」を幻想としないためには対話が不可欠で、議論とは対話の延長であり、暴力的に相手を捻じ伏せる討論とは本来は別の共存原理です
「殺人」というものは、究極の暴力による「他者の否定」です
物理的にも精神的にもその個人を否定する「死刑」も「その個人の究極の否定」です
本当に「死刑」を望まないのであれば「人でなしだ」と相手を決め付けて否定せずに理解のための一歩を踏み出して欲しいですね
本文終了
補筆部分
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五日 永遠さん感想への返信を推敲して補筆
たぶん、私と五日 永遠さんは、 言葉の意味を違ってとらえていますね。
>善悪を立場で変わる曖昧なものと認識してます。
個人や組織の立場で変わる曖昧なものというのは主観的判断で、このエッセイでは「神の絶対正義」と表現して、客観的な人類の生存戦略に沿う考え方の共存原理を「善」で、生存戦略を否定する考え方を「悪」と表現して、その変遷を俯瞰的に書きました。
>善悪で人を裁かない為に、法律があるのです。
この考え方は、このエッセイでは「私刑」として、個人や組織の立場で人を裁くのは公私混同による害悪と表現しています。
つまり、国家の創った法律というのは、国家という利権組織が掲げる正義という「立場で変わる曖昧なもの」という論です。
>それを善悪で判断してる事が、おかしい
私的な正義観で法の是非を判断しているのではなく、法が生まれるのに人類の生存戦略に沿った善悪という考え方が関与してると書いたつもりです。
つまりは、法制度が妥当で必要かどうかの判断をするなら、法律は絶対に全てが必要という視点ではなく、創られた制度や法律は必要かという視点を以って議論するべきだという話です。
文化人類学的に近代社会維持のために必要なものとして法を考える視点を持つべきだと、このエッセイは語っているんですね。
要は、正義は人の立場だけでなく、組織や国家の力関係によって変わる絶対ではないもので、それは国家が掲げた正義に基づく法律でも同じだと、五日 永遠さんと同じ考え方を人類全体というレベルで展開しているだけなんですよ^^
まあ、人類が統一されて、人類の自由と平等と平和を一つの法律体系で実現しても、常にその正当性はチェックされつづけないと形骸化します。
どんな場でもヒューマンエラーは常にあり続けるから、法律を国家権力が正しく運用するとは限らないし、公私混同も現在の日本の官僚組織や司法組織でも行われ続け、違憲審査が形骸化されて、法治主義が歪められているという法学者も多くいます。
裏表があるのは政治だけでなく法律を運営する司法警察官僚もだという話ですね。
近代史を紐解けば、日本は民主主義国家ではなく、議会選挙制の権威主義国家でしかないと語る海外の政治家も多くあり、死刑制度の話に絡めて批判された事もあります。
そういうのは全て国家の語る正義の違いで、国家の創る法律は国家正義であって、人類全体の生存戦略である善悪とは別で、「アメリカの正義」で多くの戦争が起こされている。
それは正義と呼ばれるものが「必要悪」であり、常に必要かどうかを考えねばならないということだと語っていますが、死刑の是非を善悪で語ってはいません。
>私は、死刑に賛成してます。
>何故なら、人は真面目に社会で生きても、犯罪を行なっても、最後は必ず死ぬからです。
>そこに、不公平が生まれる以上、それに対しての代償行為が必要なのです。
これは刑罰の必要性について語り、刑罰が必要だから死刑も必要という論理の飛躍がありますので、間を埋める論を展開すべきでしょうね。
間を埋めるなら「目には目を命には命を」でしょうか。
次にはそれが必要な理由を展開していけば論理の飛躍はなくなると思います。
ちなみに、私のエッセイはタイトルを否定するエッセイですが、死刑の是非について語ってはいなかったりします。
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クロスオーバーさん感想より
>死刑は、恐怖による民衆の統治という権威主義的手法
違います。法治の基本は、罪に対する刑の妥当性においてあります。これは古代におけるハムラビ法典の頃からある原則です。
罪に対する刑の妥当性が公平でない場合、人は法に従うことに抵抗します。人々が法に従わなくなれば社会秩序が崩壊します。法治において、刑罰の公平性は重要なのです。
よって、ヨーロッパにおいて死刑が廃止されたのは、リベラリズムの根底にある人権思想において、死刑がどのような罪に対しても妥当なものではない、と(ヨーロッパのインテリどもが)判断したからです。
しかし、それが建前である事は、ヨーロッパで横行する現場射殺を鑑みればわかる事です。
なぜ、現場射殺にたいして民衆は「野蛮だ。警官による権威的な恐怖統治だ」なんて言わないのでしょうか? 簡単です。それによって、罪に対する清算が行われていると、人々が信じるからです。
>日本という国では死刑による恐怖統治が効率的で有効とされて続けられています。
つまり、これも間違いです。罪に対する罰として、死刑に妥当性があると国民の大多数が考えているからにすぎません。『そうした法治』を求めているにすぎないのです。
>善とは「自然環境に従わず獣としては生きない」生存戦略の理性による肯定で
>悪とは「生物種として当初から存在した本能的欲求を制御すること」の理性による否定です
違います。根本的に間違っています。
あなたの言っていることは、『ギリシャ哲学の理性主義』に相当しますが、それは文明が誕生してそれなりの後になって作られた思想にすぎません。
善悪の本質は、人間のおける感情において形作られたのが原初です。
端的に言えば『快・不快』これが、根源的な善悪です。
そもそも哲学もしくは思想が発生する前の、原始的な文明において、その世界観はアミニズム(精霊信仰)が支配していました。これを別の形で言い直すと多神教となります。
アミニズムにおいては、人間も自然の一部だと考え、そして人は強力な力をもつ獣を畏怖し、時に神として崇めました。人間が最上位にあると、人は考えていなかったのです。
その世界観における善というのは、『強さ』です。
ここにおける『強さ』というのは、暴力的な意味だけではなく、賢さも含まれます。つまり生き抜くことそのものが『強さ』であり、それは善だったわけです。
そして、生き抜くために団結することも善でした。その団結する為に、公平に差配する存在も善となり、これがいわゆる権威的存在となりました。
権威というのは悪ではなく、人々が必要とする求心力をもって権威としたのです。
権威的存在(皆が認めている存在)が公平に差配できれば、良い人治となりますが、感情によって中々に難しい。よって、法によって治めようと考えた(法治)。すなわち法治とは、人々が納得できる公平性に権威を与えたモノです。
あなたの主張する人類の歴史にそって善悪を規定するならば、こういう事になります。
しかし、善悪というのはそもそも価値意識でしかないので、端的にいえば、各々の価値基準によって幾らでも『個にとって善悪』が規定可能です。
◆
死刑についての善悪を問うならば、社会的な価値意識としての善悪と問うべきであり、更にいうならば刑罰における認識として、死刑の妥当性を考えなければなりません。
当然、死刑と対になる『罪』について考える必要があります。
◆
ちなみに、基本的人権の根源である自然権は、単なるギリシャ人の宗教観からくる身体性の肯定にすぎません。
わかりやすくいえば、「人は生きようとする」「人は欲望をもっている」、それを肯定するべきだろう? という話にすぎません。
ここにおいて『公共の福祉の問題』とぶつかります。つまり、「社会において、誰かに迷惑をかけてまで、個人の好き勝手が許されるわけでない」という当たり前の道理です。
つまり、社会において、自然権は基本的に制限されます。この自然権を人権に代えれば、単純な話になります。
つまり、社会において人権は制限されるんです。
ちなみに日本において、語られる『基本的人権』というのは、実際には、『憲法が保障する基本権のうちの人権にあたる部分』にすぎません。この基本権というのは、『国民の権利』という意味です。
基本的人権は、いわゆる極左がいうような「人間には生まれながらに持っている権利として『人権』があるんだ」という所に根拠があるのではなく、憲法が保障している基本権の中に規定されているものにすぎません。
クロスオーバーさん、感想への返信を推敲して補筆
「クロスオーバーさん」の異論A
死刑は、恐怖による民衆の統治という権威主義的手法
↓
>違います。法治の基本は、罪に対する刑の妥当性においてあります。
「恐怖による民衆の統治という権威主義的手法」という一面は、「死刑という刑罰の一種のみの効用に関する政治的方法論」について書いた文章なのですが、それへの異論ですね。
「クロスオーバーさん」、死刑という刑罰の一種のみの効用と、法治主義全体を混同して論を展開していませんか?
私は権威的統治手法について語り、「クロスオーバーさん」は「形式的法治主義」について語るというすれ違いが生じているようです。
もし、私の文意が誤解されてないのなら、「法治=死刑」として論を展開するのは「死刑賛成=人でなし」として論を展開するのと方向性や論点は違っても、混同による誤謬を生むという意味では同じだと思いますよ。
つまり、異論Aは、筋が通っていない詭弁になっています。
○「クロスオーバーさん」の異論Aに対する論拠部分
○1
>ヨーロッパにおいて死刑が廃止されたのは、リベラリズムの根底にある人権思想において、死刑がどのような罪に対しても妥当なものではない、と(ヨーロッパのインテリどもが)判断したからです。
↓
視点を変えるなら、ヨーロッパにおいての死刑廃止は、「法の支配」と「実質的法治主義」による「形式的法治主義」の否定で死刑が廃止されたという法学的解釈の話でもありますね。
多義的な解釈のうちの一つではありますが、「建前を護るのが法治でない」という権威主義的な法解釈で過去に国家権力の暴走が起きている事実を踏まえ、権力の濫用を抑えるためという法学的論拠はあるので「財閥などの民間権威」によって政治的主流となったのでしょう。
○2
>しかし、それが建前である事は、ヨーロッパで横行する現場射殺を鑑みればわかる事です。
>なぜ、現場射殺にたいして民衆は「野蛮だ。警官による権威的な恐怖統治だ」なんて言わないのでしょうか?
↓
世界的視野で考えるなら、国によっては少なくない数で「国家権力による恐怖統治だ」と言う人々もいますね。
とくに第三世界の人権が極度に制限された国家では。国内で大声でいえなくてもそう考えていると国を捨てた者達は語っています。
そういった問題を言論の自由が保障された国々では世界的な視点で取り上げ、その意見に対して「警察官の命は、どうなってもいいのか?」という反論や「国家組織の構成員による粛清は実際にあった」という擁護論で、「法治の外の状況に対する討論」もされてたりしますよ。
「民間権威が国家権威を制限している国家」の場合は、現場射殺どころか逮捕すらできない立場と現場射殺が安易に許される階級があるという「法治の外の本音」についても討論されています。
大日本帝國統治や占領統治の「恐怖による統治の記憶」が鮮明だった冷戦時代以来、日本で「警官による現場射殺」が最後の手段とされたのは、そういう過去の事実があったからでもあります。
あまり知られていないですが、終戦後に米軍警察のMPに射殺された日本人の話などもありますし、悪名高い特高警察の幹部が終戦後に公安や警察の官僚として組み込まれて戦前と同じ手法で学生運動を過激化させたという風説も昔はよく聞きました。
今の日本では、そんな事は起こらないという者もいますが、汚職事件や原発利権にからんだ事故や自殺の不審死について警察が動かないという者もいます。
例えば50年後、日本が「人権が極度に制限された国家」にならないようにするには?
法制度を考えるときには、そういう超長期の影響を考える事も必要になります。
何故そういった必要が在るかというと、日本などの「本来してはならない憲法の法解釈による変更」で、法改正の手続きなしに実質的法運用を変えるという事をしてしまった政府が裁かれずに政権を持ち続けられるような国家。
そういう長期に渡って一つの勢力が権力を持ち続ける国家。
つまり、権威主義化して民主主義が形骸化された国家では、権力の公私混同による法の私物化が横行する危険性が高いからです。
また、日本の死刑問題で語られる事柄に限定するなら、「外患誘致罪は固定量刑で死刑なので権力が公私混同した法解釈をするなら現法上でも国民を粛清できる」というものなどの法治の外の問題が関連してくるという話でもあります。
更に、死刑も現場射殺も同じと公私混同して考えるなら、「政府に逆らえば外患誘致罪だから射殺してもかまわない」という屁理屈で虐殺が起こります。
実際に日本の過去や現代の「人権が極度に制限された国家」で起こった事実として、それを無視してはいけない問題です。
「クロスオーバーさん」の言葉を借りるなら「建前でない部分」を考慮に入れた話ですね。
だから、「今の日本」はという社会観も、「未来の日本」はという展望も、一つではないでしょう。
自分に関係ないから深く考えていない人もいるでしょう。
人類全体で見るなら、世の中には色々な国があり、色々な世代があり、色々な人がいますので。
だからこそ、主張をする場合はダブルスタンダードで誤魔化さず、論理を展開しなければ詭弁になってしまいます。
「形式的法治主義」によって「良法も悪法も法である」と語るなら「法の支配」による法解釈を「建前にすぎない」と切り捨てるのは、自分に都合のいい「法」以外を無視する「法治主義全体の否定」になってしまいますので、「クロスオーバーさん」が論拠としている事柄は矛盾があり、論拠になっていないことになります。
ですから、死刑という刑罰の一種のみの効用と、法治主義全体を混同して論を展開してはいけないのです。
権力機構が法を私物化してしまえば、次に待つのは法の私物化と濫用で、その果ては人権を完全に無視した全面的な恐怖統治によるディストピア国家化でしょう。
ブラック企業の社蓄化ならぬブラック国家の国蓄化ですね。
本エッセイ冒頭部より抜粋
※
日本という国では死刑による恐怖統治が効率的で有効とされて続けられています。
※
↓
○3
>つまり、これも間違いです。罪に対する罰として、死刑に妥当性があると国民の大多数が考えているからにすぎません。『そうした法治』を求めているにすぎないのです。
前述で「クロスオーバーさん」が論拠としている事柄は矛盾があり、論拠になっていないため、この部分にも、当然ながら論拠はありません。
更に、この見解には別の見方もあります。
たぶん、「大多数が考えているから」というのは、内閣府の世論調査の結果を受けての論でしょうが、別の意見もあります。
「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」という問いに対する、「どんな場合でも死刑は廃止すべきではない」という項目がないのと、「場合によっては死刑もやむを得ない」に対する「場合によっては死刑は行うべきではない」という項目がないという理由で
この世論調査では曖昧な見識を持つ場合は、「死刑は廃止すべきではないという結果」がでるように恣意的な統計操作が行われているという見解です。
つまり、「大多数が真剣にそう考えているという論拠にはなりにくい統計」を内閣が行わせているという意見を持つ人がいるという事です。
そして、そういう意見から、国民全体で死刑に対する活発な議論がされていたわけでもないので‘ 『そうした権威主義の法治』を求めている ’とは一概にいえないという意見に繋がる場合もあります。
それは、日本の国家権威が世襲制で継承される利権権力のせいで、民間権威と癒着した大日本帝國時代の権威主義議会選挙制度国家に法の抜け穴を使って近づいているという観点です。
その観点では、格差社会と呼ばれる金権権威主義カーストの是非を民意に問わず、法解釈と権力や独占された議会による強行採決や大規模収賄事件を責任逃れのトカゲのしっぽ切りや、プライバシーを名分とした法改定による収賄の立件起訴の困難化で決定し続けた結果が今の社会という意見になります。
そういう「クロスオーバーさん」と反対の意見を持つ人々の視点では、「国家権威が死刑に妥当性があると考えて、権力機構が『そうした法治』を求めているから国民に問題提起していないという事になります。
また、自分に関係ないから深く考えていない人も当然いるでしょうね。
世の中には色々な国や地方の常識やルールがあり、色々な世代の色々な人がいますので
要は、近代民主主義の「法の支配」と権威主義議会選挙制度の「形式的法治主義」を区別して、「形式的法治主義」を支持するのが「クロスオーバーさん」の見解なのでしょう。
その意見を個人の見解でなく、「日本の‘ 政治的大勢によって作られた国家体制 ’という権威」を背景として語っているので、「必要悪」について語るに相応しい論だとは思います。
ただ、それは多義的解釈の一つだとも、私は思っています。
要は国家を「無謬の神のごとき存在」として扱わないというのなら「悪法もまた法」という観点も実質的に暴力原理で運営される国際社会にとっての「必要悪」として許される場合もあるが、必要性は審議されるべきという話ですね。
「クロスオーバーさん」の異論B
本エッセイ●5より
※
「人間」が必要とする概念として考えるなら
善とは「自然環境に従わず獣としては生きない」生存戦略の理性による肯定で
悪とは「生物種として当初から存在した本能的欲求を制御すること」の理性による否定です
※
↓
>違います。根本的に間違っています。
あなたの言っていることは、『ギリシャ哲学の理性主義』に相当しますが、それは文明が誕生してそれなりの後になって作られた思想にすぎません。
>善悪の本質は、人間のおける感情において形作られたのが原初です。
端的に言えば『快・不快』これが、根源的な善悪です。
>原始的な文明において、その世界観はアミニズム(精霊信仰)が支配していました。これを別の形で言い直すと多神教となります。
>その世界観における善というのは、『強さ』です。
>公平に差配する存在も善となり、これがいわゆる権威的存在
私の論は、論理として語っているだけで、古代の『ギリシャ哲学の理性主義』ではなく、脳科学と社会学や進化論と社会生物学という近代の学問を使って人類を科学的に解釈する文化人類学観点になりますね。
つまり、人類を特別な「万物の霊長」ではなく、ホモ・サピエンスという動物の一種とした観点です。
ですから、これは、私と「クロスオーバーさん」の「観点の違い」や「言葉の使い方の違い」による認識の擦れ違いでしょうね。
特に「権威」という概念の解釈は根本的に違うようです。
私は「支配」と「権威」と「善」を別の概念としていますが、「クロスオーバーさん」は、「権威=支配」「権威=善」で「権威=支配=善」とした論理を超越した宗教的解釈で、「権力で威す事という私的に行うならただの悪事」が権威の本質とは考えていないようですね。
しかし、私の語る権威は字義の通りの辞書的な意味での権威です。
本エッセイでは、概念の積み重ねで「必要悪」という概念が生まれる過程として論理によって暴力原理と共存原理で科学的に善悪観を語っています。
対して、「クロスオーバーさん」は、祖霊や精霊信仰という論理抜きの宗教的観点で一義的に「『強さ』=精霊=神=正義=善」を語っていますが、私の論では、それぞれが別の概念で、善と正義は違うという考えで多義的な「必要悪」定義の一つを語っています。
この混同は、共存原理で権威を擁護する論ですが、その論拠が「力を持つ組織が正しい」という暴力原理なので論理として矛盾し、その矛盾を認めて統治組織による殺戮も正義であり善だという誤魔化しに繋がります。
それが、反民主主義である権威主義の本音で、利権に属さない者から奪う事も正義であり善だという混同を引き起こします。
そういった混同を避けるために、私の論では、多神教神話の神々が対立するように「神とは争い合う利権機構の象徴」であり、「神」という概念が生まれる前の狩猟文化の精霊信仰には社会的規範としての善悪観との繋がりはないので、「精霊は自然的脅威という強さの象徴」で、だから区別されて、現在では「神」と「精霊」という二種の言葉が使われているという歴史観で語っています。
つまり「精霊信仰は多神教信仰とは別物」という分類をしたわけです。
強い者に弱い者が従うという狩猟文化での「規律」といった概念が精霊信仰の時代に生まれ、それは善悪という「群れの統率という動物的本能と区別された公私を分かつ概念」とは違い、「公私混同された概念」であると、これも分類しています。
次に「公平」という概念が生まれて、その次に「善悪」という概念が生まれ、「権威や利権機構の象徴としての神という概念」はそれより後に生まれたという歴史観です。
現代の議論で使われる言葉にあわせて「狩猟文化の規律」を言い換えるのなら「掟」でしょうか。
要は、「法律」と「掟」は別物という分類をしたわけです。
詳しく語るのなら以下■1のような話です
■1
本エッセイ●6より抜粋
※
「原始共産制」ともいう「共存」の時代で
「規律」といった概念を「群れの統率という本能」と区別する必要が生じた時代
※
「公平」を無視した狩猟文化の「規律」といった概念と一線を画する「原始共産制の農業文化社会」で必要な「公平」という概念が生まれたことで、「強い者に弱い者が従う暴力の規律」と「公平に支配する共存」との対比で「暴力の規律」を否定した「共存の善悪」という概念が生まれ
先ず社会規範としての「平等や善悪という価値基準」が生まれ、「公平に差配する存在」として「原始共産制」の皆を‘支’え富を再分‘配’する「支配者」という役割の概念が生まれ、富の偏重により、公平性を損なった権力が、「権力」で「威す」という「権威という概念」を生み、神の代行者としての「王」を生み、やがて支配者とは力による服従の強制としてという歴史観です。
「共存原理で動く諮政者である支配者」と「暴力原理で動く統治者である王」を別物に分類したわけです。
小さな郷の支配者は、「法治の外の暴力」に屈して、王は封建統治を造っていき、歴史という概念が生まれたのでしょう。
つまり、有史以前の権威者である教祖や王族によって「利権機構の象徴としての神」という概念が創られ公平性が損なわれた組織が生まれたという観点で、それは現代の新興宗教の権威と変わらない類の話です。
古代の「神の権威=国家権威」という新興宗教を信仰する教典の「正義=善=権威」を拠り所にする「クロスオーバーさん」の観点とは人間観が違うわけです。
本エッセイ●5は、●1~●4を前提としての論ですので、その人間観が違えば、見解が違うのは当然ですね。
先ず●3で定義された人を前提としての
‘ 「人間」が必要とする概念として考えるなら ’という本エッセイの文に注目してみてください。
本エッセイ●5より
※
●1~●4を前提として
善と悪という概念について考えて見ると
※
という前文に基づくなら
これは言葉の使い方の違いでしかありませんので、『快・不快』という概念が『善・悪』という言葉より前に創られたという話ですね。
これは「よい」という言葉では、「好い」という字が当てられるもので、拙劣に対する「良い」でも、邪悪や横暴に対する「善い」でもないという話です。
概念の積み重ねとして、『快・不快』は個人の主観でしかなく●3で定義された「人」ではない動物でも持つ感情で、社会的客観にはなり得ない概念なので、「原始的狩猟文化の規律」とは別の社会的客観による個人の行為の是非として意味を持つ新しい概念として、『善・悪』が●3で定義された「人」によって創造されたのでしょう。
つまり、私の書いた「本エッセイ●5の善悪」は
本エッセイ●5より
※
「人間が必要とする概念」として考えるなら
※
という前提での理性による多義的な「必要悪」定義の一種で、「力こそが正義で勝った者が正しい」という一義的な善悪解釈ではありません。
■1終わり
別に個別に変遷する言葉として、定義「善α」とか定義「悪β」と書いて「必要悪」という概念の創造過程について語っても良かったのですが、論文ではないし、エッセイ本文では逆に返信相手に解り難そうなので省略しています。
◆部分の「クロスオーバーさん」の死刑に対する見解
◆1
>死刑についての善悪を問うならば、社会的な価値意識としての善悪と問うべきであり、更にいうならば刑罰における認識として、死刑の妥当性を考えなければなりません。
私も●7部分で「権力が必要とする必要悪という概念」を通じて「社会的な価値意識としての善悪」を語ったのですが、意が通じなかったようです。
「権威=必要悪」として考えるというのは、盲目的に成らず権威が創る法が本当に必要かどうかを常に考えて、法が拡大解釈されて人権を侵害しないか監視する必要性があるという考え方ですので、権威が定める刑罰の妥当性を考えるという事に通じるという話ですね。
そういう観点で言えば、この見解は「前述のクロスオーバーさんの人間観や意見」と矛盾しているので、ダブルスタンダードになりますね。
◆2
>基本的人権の根源である自然権は、単なるギリシャ人の宗教観からくる身体性の肯定にすぎません。
>ここにおいて『公共の福祉の問題』とぶつかります
これは「近代の基本的人権」=「古代ギリシャの宗教観」を同じものと混同する誤謬がありますね。
近代の人権は、単に人間であるということに基づく普遍的権利で、同時に「抗国家権力」や「革命権」などに由来している考え方です。
要は、この部分は概念の積み重ねの無視による「論理のすりかえ」になります。
「自由」という公的な概念は、「自侭」という私的な概念とは別物なので論拠には成り得ないので論理の展開に無理があるわけです。
「公共の福祉」と「欲望肯定の自侭」はぶつかりますが、「自由」という公的な概念は権力の強制の制限を基にした考え方で、民主主義社会では「公共の福祉」という考え方は基本的人権を護るという事から派生した考え方になります。
つまり、この論は『公共の福祉の問題』と「治安上の問題」を混同させた詭弁になっています。
◆3
>社会において人権は制限されるんです。
そうですね。それが暴力原理で動く社会の現状です。
けれど、それを盲目的に肯定していいわけではありません。
前述した権力機構の暴走があるからです。
だから、私も「必要悪」という考え方で●7部分で「善」と「悪」と「邪悪」と「必要悪」として、「人権制限の考え方」の基本が生まれたのだろうという事を語っていますが、根本的な権威に対する言葉の使い方が違うので、意が通じなかったようです。
>日本において、語られる『基本的人権』
これは「憲法が保障している基本権」は刑法で定める死刑制度より上位の法なので、「人権保障の限界」に生命権を入れるかどうかの話で、「立法権を持つ権力」による人権侵害と冤罪の可能性をどう考えるかの問題でしょうね。
現実問題として日本の民主主義は形骸化してますので、危険性は当然あると考えるべきでしょうね。
極左だから極右だからという類の政治的立場を抜きにした話。
「人間には生まれながらに持っている権利として『人権』があるから死刑は否定されるべき」という生命権の考え方は、封建制血統主義の領主権力と革命側の資本主義の権力との対立で、互いに否定し合う両権威による「形式的法治主義」を正義とした殺戮を否定するために、民衆を護るべく掲げられた「理想」なので
現代資本主義権威の文化圏では「大量虐殺を行うような国家権威を否定した民主主義の理想として護るべき」という考え方が主流です。
けれど、世襲政治を行う血統権威主義勢力が議会を寡占し続ける昨今の日本では「権力が人間の価値を定めると権力者が考えている」せいなのか、冤罪の脅威より統治に必要な必要悪としての機能を優先させる考え方が主流で「国家権威の悪意という考え方」は認められにくいようです。
ちなみに、このエッセイの私の論は日本という一つの国の制度に限定した論でもないし、だから日本における死刑賛成論でも死刑反対論でもありませんが、「死刑反対を絶対視する人へ向けて解りやすいように書いた返信」なので、権威主義支持の立場で形式的法治主義派の「クロスオーバーさん」には死刑反対論や法治の否定に見えたのかもしれません。
あるいは、「クロスオーバーさん」が一義的に考えていて、私が多義的に考えているので、意が通じなかったのかもしれませんね。
何れにしろ「クロスオーバーさん」の見解は、先に「暴力原理は絶対正しく、だから権威に従うのが善」という結論があるものなので、論理として矛盾した「歪んだ貴族」の理屈といわれる考え方や朱子学的権威信仰に類似しています。
論理を否定して理不尽を通すならそれは、悪です。
あとは、必要悪かどうかが問題ですので、必要悪である事を誤魔化したりしては必要かどうかが検証されず責任は無視され社会は腐敗します。
その結果が、原発利権のために無理な運用コスト低下で運営された「民営化してはいけない原発」が起こした事故であり、効率のために命を削らせ切り捨てる「国家が支配を略奪に変えた‘ 富の再分配をしない金権差別カースト社会 ’」のような不公平であり、新型コロナウィルス対策の利権化などの社会問題なのではないでしょうか?
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「メールボックス/ぞんび 」さん感想より抜粋
大まかに: 猿から人になったので集団生活で繁栄することで快適に生活をしていくことに決めた、なので社会を維持していくのが善である(繁栄できれば社会の形は問わない)。
一方で社会の秩序を乱すのは悪である(社会の形そのものへのアプローチは悪ではない)、同じ社会の参加者ではあるが個々人の行為において悪と判断されるものは、何れかの手段で排除したい、しかし排除する側は個人ではいられない。
そこで宗教や行政体といったルールと組織を社会の中に作り出し、必要悪という役割を与え、個人を罰するという悪を行わせる(罰すること自体が社会において善とみなされる場合が多い)。
ここで死刑という制度の是非を問いたい、そういった話だと思ったのです。
「メールボックス/ぞんび 」さんの誤解に対する補筆
>社会を維持していくのが善である
共存を求める理想が「善という概念」であって社会を維持するという実務面の話は全て必要悪に分類されるというエッセイなので、少し違います
理想は「努力目標」であって現状で実現される社会は存在しないという話で、自然に存在するホモ・サピエンスの本能に由来する欲望のうちで他者を害する全ての行いが「悪という概念」なので「初めに悪がある」という科学的観点から「悪を否定する理性的な概念として善は生まれた」という話ですね。
そのために、誤魔化し、騙すという暴力で権威社会は、「法の精神」や「人の在り方」をゆがめるので、人間社会が「権威という必要悪に依存する構造」ならば、理想は常に阻害されます。
だから、権威を否定した民主主義社会が実現することで初めて「理想を極める準備」ができるという事です。
中世の喩え話によると「天上の神に近づく善」と「天の光が届かぬ地の底の地獄に堕ちる悪」という二元論的に語られる善悪ですが、その喩え話を使うなら、「全ての物質的精神的暴力である悪」が地球の中心という一点に収束する重力であるとしたら「宇宙へ向かうベクトルが善」で、それは「地表での立ち居地によっては互いに他者の理想が悪に見える」という事、そして水は低きに流れるから自らを絶対の正義と思い込んだところから悪へと成っていくという喩え話です。
あるいは、「大脳新皮質」の発達により「大脳辺縁系」の獣欲を制御する方法論によって生まれた「倫理教育」という社会システムの中に純粋なデータとしてあって、個人に一番最初に教えなければならないのが「善意」であるという喩えのほうが判り易いかもしれません。
それを子供に語るのなら以下のコピペのようなことでしょう
※コピペ
誤魔化すな
騙すな奪うな
害するな
傷つけ盗るな
脅し殺すな
どんな社会でも社会維持に必要になる基本事項です。
慈しみ救いあい
思いやり援けあい
敬い信じあい
愛して育みあう
どんな社会でも目指さなければいけない人の和です。
差別なし
人に上下
意味は無し
人の和を保つために必要な関係性で「自由と平等」の話です。
奪う争い
和すが人道
「自由と平等」で和を保つ事がヒューマニズムです。
和によって
人を為すこと
人の道
ヒューマニズムは、動物の一種でしかない「裸の毛無猿=ホモ・サピエンス」が社会的動物である「人」になるための手段です。
※コピペ終わり
それを歳を経て「子供騙し」と感じるか「子供に伝えなければいけない大切な伝承」と考えるか?
「社会を維持していくのが善である」と子供に語ってしまえば、それは「子供騙し」としてしか「善」を伝えられないという類の「微妙な違いが本質を歪める話」ですので、補足説明させてもらいますね。
肉体を情報端末のハードに喩えるなら、精神という目に見えないものの本質はソフトでありアプリであり、それなしには「人が人足り得ないもの」です。
社会制度と社会構造という目に見えるシステムを「情報端末画面に映る映像」に喩えるなら、目に見えない部分にあるのが精神です。
けれど、それは確かに実在して、それによって人間社会は動いています。
「必要であるという嘘」で、唯の悪を必要悪と偽る事をする者に騙されずに物事を判断しないと、「正義で他者を傷つけるモラハラという暴力」を行うようになってしまいます。
権力を握った者達の権威集団が、そういう行為を行った歴史がそれを証明しています。
だから、「制度や法律を実施するという必要悪」が本当に必要かを精査して、「制度や法律を実施する者達が間違えていないかを監視する民主主義が機能しているかをチェック」して、そこで初めて「法律の妥当性」が生まれるというのが、現状では近代国家の法運用の理念になっています。
「社会を維持していくのが善である」という考え方と「共存を求める理想が善という概念」という考え方のニュアンスの違いの話でした。