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昭和四十八年の秋

作者: 若松ユウ

 今度は、私がお話しするんですか?

 こんなおばあさんの昔話なんて、今どきの若い人には面白いかしら。

 忘れてることや覚え間違いなんかも多いでしょうけど、思い出に残ってるエピソードを中心に、お話ししましょう。


  *


 式を挙げたのは、辰彦さんと団地を見学に行ってから何ヶ月か経ったあと、十月吉日のことでした。

 ちょうど私の誕生日が大安で日曜だったので、都合が良かったんです。

 その年は、結納のことやら席次やら、衣装のことやらを考えているうちに、春から秋まであっという間に過ぎました。


 式は神前式で、三三九度はあっても、指輪交換はしませんでした。

 今なら、神前式であってもするんでしょうけどね。

 結婚指輪は給料三ヶ月分が目安です、なんてコマーシャルが流れるようになって、チャペルウェディングが主流になるのは、もう少し後の時代だったんじゃないかしら。

 洋食と椅子の生活に慣れてきた今どきの若い人なら、タキシードやドレスがお似合いでしょうけど、畳に正座してお魚やお豆をいただいて育った私たち世代には、紋付きと白無垢の方が、まだ様になりますから。


 式のあとのお食事では、ケーキこそありませんでしたけど、鯛や海老の縁起物が並ぶ御膳が出て、華やかで賑やか宴でした。

 ただ私は、隣に辰彦さんがいるというだけで胸がいっぱいで、とても喉を通りませんでした。

 あんまりにも食欲が無いものだから、辰彦さんに、熱でもあるんじゃないかと心配されたのを覚えてます。


 そうそう。式の前に、新居への引っ越しをしました。

 新しいお家は、東京郊外に建つ小さな一戸建てで、辰彦さんは、勤続四十年で退職する日まで、毎日二時間かけて職場まで通ってました。

 そのお家は、今では長男夫婦が暮らしています。

 洗面所が狭いだの、収納スペースが少ないだのと文句を言ってますけど、都内に家が持てるだけありがたいと思ってもらわなくちゃ。


 そんな新居へ引っ越す前は、瓦屋根で障子と襖で仕切られた和室が続く、ごく普通の日本家屋に住んでいました。

 土間の奥のお勝手には水屋や竃があって、裏へ出る木戸では、氷屋さんやお酒屋さん、反物を背負った行商さんから押し売りのおじさんまで、様々な人が往来してました。

 日中は必ず誰か大人が留守番してましたから、閂を掛けるのはお休み前だけでした。


 今では考えられないでしょうけど、あの頃は、お隣さんとお醤油なんかを貸し借りしたり、ご近所さんで子守や留守番を頼んだりすることが平気だったんです。

 コンビニもありませんし、オートロック式の鍵もありませんでしたから。

 井戸端会議で、盥と洗濯板でワイシャツなんかを洗いながら、夏場だと井戸水でスイカやトマトを冷やしてました。


 家の裏庭では、私がやっとハイハイが出来る頃まで、祖父が菊を育てていました。

 菊子という名前の由来は、そんな祖父の趣味からきています。

 私が生まれたときは、ちょうど手塩にかけて育てた秋菊が、見頃を迎えた季節だったそうです。


 菊の栽培に凝る祖父を、祖母は浪費だ道楽だと毛嫌いしていました。

 戦後に接収されましたが、船成金で一山築いた祖父とは、どこか金銭感覚が違ったのかもしれません。

 贅沢は出来ませんでしたけど、それでも当時としては、暮らし向きは同級生の中で豊かな方だったと思います。


 祖父が亡くなった後、物心ついたばかりの私に、祖母は目立ってキツく接するようになったそうです。

 嫁である母に対しても意地悪だったそうで、陰口を吹聴されて不愉快だったと、のちに母がこぼしていました。

 箸の上げ下げから言葉遣いまで厳しく躾けられたことは、幼い私も覚えています。

 スパルタ教育が良いとは言いません。ただ、お国訛りのない話し方は、上京してから役に立ちました。


 祖母の死後、私はピアノを習い始めました。

 和室に似合わないアップライトピアノは、横須賀の親戚宅から譲り受けたものでした。

 子供用に買ったものの、親戚宅はヤンチャ坊主ばかりなので、持て余していたところだったんですって。

 なんでも進駐軍の払下げ品で、ハイツで使われていた代物だったそう。ヘッドフォンが無い古いタイプでした。


 小学校入学から卒業までは、音楽の女性先生のご好意で、放課後にレッスンを受けていました。

 その先生は音大のピアノ科卒だったんですけど、ピアノ一本では食べていけないので音楽教師になられたそうです。

 中学生になりコーラスクラブに入っても、個人的に練習を続けていました。


 調律も毎年欠かさず、愛着があったのですが、結婚で実家に置いていかなければならない事態になりました。

 三輪トラックに乗らない訳ではなかったのですが、新居は部屋が狭いから、出来れば置いてきてほしいと頼まれたんです。

 他に箪笥や鏡台なんかもありましたから、なくなくピアノは諦めました。


 引っ越し作業中、力仕事の出来ない自分は足手まといになりますから、父と束の間の東京見物をしました。

 新居の前で分かれるとき、父には「あとは辰彦くんに連れて行ってもらいなさい」と言われました。

 今は亡き父と親子で過ごした最後の時間は、とても貴重な思い出です。


 ちょっとセンチメンタルになりながら新居の扉を開けると、私は驚いてしまいました。

 居間の引き戸を開けると、実家でお別れしたはずのピアノが鎮座していたのですから。

 涙が出るほど嬉しかったのを、今でも鮮明に記憶しています。

 

 辰彦さんったら、私に内緒でアレコレ下準備していたんです。

 蔵書を譲って本棚を解体し、レコードとプレイヤーは質に入れてスペース確保したんですって。

 本は貸本屋でも図書館でも読めるし、菊子が演奏してくれるならレコードは必要ない、なんて言われて……

 

  *


 菊子。惚気話は、それくらいにしてくれないか。

 あら、辰彦さん。聞き耳を立ててらっしゃったの?

 まったく。君が僕の話をすると、ろくなことがない。

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[良い点] 丁寧な文章の歩みがこころよく、そしてそれがまた作品の品を支えています。 特に序盤の語りは読んでいるだけで落ち着きました。 [気になる点] いくつか誤字があったように思いました。 [一言] …
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