表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

当たり前の人が当たり前のことを「当たり前」と言う行為は当たり前ではない

作者: 秋野三郭

どうでもいい話だが、なぜこのエッセイを書くことになったか語ろう。今投稿しているショートストーリーの『その日、……が消えた』の元々のタイトルは『その日、当たり前が消えた』だった。なんの障害も持っていない人がいきなり聴覚と視覚を失ったらどうなんだろうと考えて、そういうタイトルにしていた。が、いろいろ再考して、当たり前とはなんだという自分の問いに答えきれなくなって、今のタイトルになった。


当たり前とは何なのか、君たちは考えたことがあるか? 多分外国に滞在したことがある人は考えたことはあると思う。かく言う僕も帰国子女で、五年ほどベトナムに住んでいた。五年も住んでいるとベトナムのありとあらゆることが「当たり前」に見えてくるのだが、いきなり日本から来た人はそう思うまい。


どこの世界でも、車社会は赤信号で止まって、青信号で進む。なんと単純明快で誰でも守れる簡単なルールだと思うだろう? ところがどっこい、ベトナムではお構いなしで、バイクや車がビュンビュンと走る。あまりにも大通りだったり、警察がうろうろしている地域では自粛していたが、細い路地にある信号なんてまるで見えないかのように無視する。信じられないかもしれないが、これが「当たり前」なのだ。ついでに言っておくと、二輪や一般免許は賄賂でカンニングシートがもらえる。ベトナム人からすれば「賄賂」は「当たり前」のことにすぎないのだ。


別に常識が違うことは国と国の話ではない。関西では正月に丸い餅を食べるが、関東は四角だ。ニュースのインタビューで一時期話題になった鹿児島弁だって、あの地域からすれば当たり前。そんなわけで、当たり前であることは国や地域によって全く異なることはわかるだろう。つまり、当たり前とは社会的常識であるように思われるが、実際は個人の経験と主観によって形成された観点である。だから自分の当たり前をあたかも「当たり前」のように言うことは間違いなのだ。僕が「赤信号は無視するのが当たり前でしょ」とか「え、賄賂? 普通じゃない?」と言って誰が納得するって話だ。


日本がほとんど単一民族で形成された国家だからこそ、自分の常識が社会の常識と思っているのかもしれない。同じ民族なのだから、みな同じ「当たり前」を持っているという誤った先入観を持っている可能性がある。その「当たり前」を知らないと、周りからは変な目で見られたり、恥をかいたりする。ちょっと笑い話になるが、僕は日本に帰ってきて早々に、男女共同トイレに置いてある小さい四角い箱は尻を拭き終わったトイレットペーパーを捨てるゴミ箱だと思っていた。東南アジアの多くの国ではトイレットペーパーは水溶性じゃないので、配水管が詰まるから流してはいけないと言われるのだ。そうして「ご丁寧に」と思って捨てていたゴミ箱が、実は生理用品を捨てるためのものと知ったときは、首元に冷汗をダラダラ掻いた。結局何が言いたいかというと、自分の常識が必ず通じるという先入観は捨てたほうがいいという話だ。自分の「当たり前」の価値観はほかの人に通じるわけではないのだ。だからオタクの友達に「え、○○見てないの!? あれはアニメの一般教養だよ!」とか言われても一般人からすれば「知らんがな」ということになる。


話が少し逸れるが、ツイッターで話題になったコンビニの本棚にエロ本が置いてある状況についてに触れておきたい。特定の状況を当たり前と認識することは危険だなと、僕が感じたことだ。日本のコンビニでは18禁な本が本棚に他の雑誌と一緒においてある。つまり、小学生や中学生の手が届くところに置いてあるのだ。こういう環境の中で育つと、コンビニにエロ本が「当たり前」になっていく。よくこれが子供の性教育にどうのこうのという議論が生まれているが、僕としては「当たり前」を作り出している社会体制のほうが問題だと思う。こんな感じに「当たり前」が生成されていくと、社会に対しての不信が減っていくと思う。これを良いことと言う人もいると思うが、僕は社会への不信がある限り、その社会には改善点があるという風に考えるから、ネガティブなことと捉えている。少なくても僕は、人間は何が正しくて何が間違っているのか自分で考えられるようでなければならない、と考えている


最後に、発達障害や知的障害者が苦しむ原因も多くは「当たり前」の価値観にさらされているからと僕は信じている。「なぜ、こんな当たり前のことができないのか」と周りの大人に指を指されるのも、彼らが自分の「当たり前」の世界に生きているからだ。当たり前が当たり前ではないという認識がしっかりあれば、そのような状態は減っていくはずだ。「わからないから仕方がない」という答えには理解をしようという態度が一切見えない。どうしたらいいかなんて明確で「わからないからいろんな仕方を試してみる」しかないのだ。自分の価値観や倫理観に囚われずに、様々なアプローチを試みて、一番その子に合った方法を探すしかない。「わかり合える」「同じ」という感覚を捨てて「わかり合えない」「違う」という認識をしっかり持つべきだ。伝わらないからといって頭ごなしに叱るのは、虐待のような理不尽な暴力であると思う。


この世に当たり前なことなんてない。それはグローバル化が進む今だからこそ、しっかり持つべき信念だと思う。今後、君の当たり前は、みんなの非常識になる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
「普通に〜」や「普通は〜」が当事者としての私はよく言われましたね。 幼い頃は「普通ってなんやねん!」と憤っていましたが、早々に諦めました。 ありがとうございます。
[良い点] 当たり前を疑う、外国人・帰国子女として生活した経験 が、生きている文章だと思いました。 [気になる点] エロ本問題・・・。確かに。 [一言] コンビニで働いていた頃の話。モンゴル人の夜勤の…
2018/09/20 13:13 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ