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58話 わたしの、英雄

※この話は、残酷描写や…………えっと、何だっけ。

あ、そうだ、胸糞要素がありますので、注意してください!

 わたしは元々、少し内気な子供だった。

 小学校の時もよく人見知りをしていたし、本を読むのが大好きだった。

 …………そしていつもわたしの隣には、優しい一人の女の子がいてくれていた。

 ……彼女はまるで、太陽のようだった。

 彼女はわたしと違って明るく、純粋で、キラキラと輝いて見えた。

 彼女がいつもそばにいてくれたお陰で、小学生の頃は平和だった。

 ……きっと彼女は、わたしを守ってくれていたのだろう。

 中学校にあがり、そのありがたみが痛いほどにわかった。



 小学校を卒業するのと同時に、彼女はわたしの前からいなくなってしまった。

 …………というより、わたしが彼女の目の前から消えた、という方が正しいだろうか。

 両親の転勤により、よっぽどのことがないと会えないくらい遠くに引っ越すことになったわたし。

 新幹線の扉の前で、二人で泣きながら抱き合って、また会おうねと約束したことは、今でも鮮明に記憶に残っている。

 そんな過程を経て、わたしは現地の中学校に入学することとなった。


 わたしは、強くあろうと思った。

 彼女のいない学校でも、ちゃんと一人で友達を作って、楽しい学校生活を送ろうと。

 不安も、勿論あった。

 でもわたしは、一人でも頑張ろうと、そう決めたのだ。


 ……でも、彼女がいないことによる代償は、予想以上に大きかった。


 新しい環境についていけなかったわたしは、休み時間はいつも一人で本を読んでいるような生活を過ごしていた。

 時折男の子が話しかけてくれるけれど、緊張からなのか何なのか少しどもってしまう。

 そんな例外はあれど、概ね一人で自分の席に座り続けていた。


 前とそこまで変わらない生活だが、そこには彼女がいなかった。

 わたしを守ってくれていた人が、そこにはいなかった。


 例えるなら、若い頃は痩せていた人間が、大人になると太ってしまうのと似ている気がする。

 若い頃日常的に食べていたものが実は体に悪く、新陳代謝が良かったから何とかなっていたということを知らずに、大人になっても食べ続け、結果不健康になってしまう。

 それに少し、似ている気がした。


 要するに、わたしは無知だったのだ。

 今まで大丈夫だったのだから、これからも大丈夫。

 そう、根拠もないのに信じ切っていた。

 今まで通りならば、何も起きないって。


 違った。

 違ったのだ。

 悪意や害意というものは、時に『なんか気に入らない』という、理不尽な理由で生まれるものだということを。

 その悪意から今まで、守られていただけなのだということを。

 状況が、変化していることを。

 わたしは、身をもって知ったのだ。


 背が高く、いつも一人の無口な少女。

 そんな、周りと少し違うだけの少女がいじめられるのに、そこまで時間はかからなかった。



 ────



「アンタさぁ、なんか気取ってない?」

「少しスタイルが良いくらいで、調子乗らないでほしいんだけど」

「こんな女の、どこが良いのかねぇ、彼は」


 最初は、そんな些細な言葉からだった。

 いきなり数人の同性に棘のある言葉を投げかけられ、勿論心当たりのなかったわたしは当たり障りのない返事を返そうとした。

 しかし、あまりに突然の罵倒に動揺した部分もあり、少しどもってしまった。

 わたしのしどろもどろな態度に嗜虐心が刺激されたのか、それとも元々そのつもりだったのかはわからなかったが、その日からわたしはいじめられるようになった。


 初期は別に、普通に耐えられるくらいの軽いものだった。

 わたしに聞こえるくらいの小声で悪口を言ったり、無視されたり。

 今までも無視されているのと同じような状況だったので、無視自体は気にならなかった。

 でも、常日頃から自分の悪口を聞いているのは、どうしたって気分のいいものにはならない。

 そこまで好きではなかった学校が、もっと嫌いになった、その程度だろうか。


 表面上は無反応、というより表面に出せなかったわたしを見て、彼女らは痺れを切らしたのだろう。

 そこから徐々に、日常生活にも影響が出て来るようになった。

 具体例を言えば、物を隠されたり、その物に落書きがしてあったり、とか。

 わたしは、懸命に耐えた。

 いつか、終わると信じて。

 ……でもこれは、ほんの序章でしかなかったのだ。


 いじめというのは、日に日にエスカレートしていくものなのだと、わたしは絶望とともに知った。

 根も葉もない、とても屈辱的な噂を流されたし、そしてそれを理由にお金を貸してくれと言われたこともあった。

 親には迷惑をかけたくなかったから、それだけはとなんとか断れたのはいいものの。

 待っていたのは、日に日に酷くなるいじめの日々だった。


 具体的なことを言うと、たぶん誰も得しないから言わないでおく。

 でも、わたしはとても辛かった。

 それは、確かだ。


 …………でも、それだけじゃなかった。

 わたしが必死に耐えていると、時折何かの視線を感じるのだ。

 あの視線は……そう、一人でいる時に視線を感じて、慌てて振り返ってみると人形だった、という感覚に近いと思う。

 ただ傍観するような、無機質な視線。

 その視線も、わたしにとっては怖かった。

 いやむしろ、そっちの方が辛かったといっても過言じゃないかもしれない。


 まるで自分の人権を、否定されているような気がして。

 助ける価値や意味もない、そんな風に言われている気がして。

 わたしは余計に、その心を擦り減らしていった。


 そんな地獄の中で、わたしはどうにか耐えてきた。

 救いだったのはやはり、彼女や家族の存在だろう。

 心配をかけたくないからこのことについては言えていないが、それでも彼らは、わたしの救いだった。

 痛くも苦しくも、辛くもない。

 それだけで、わたしにとっては嬉しかった。



 ────



 そんな生活が始まって、もうすぐ半年が過ぎようとしていた。

 尚もエスカレートするいじめに、最早ぼろ雑巾のようになっていたわたしに届いたのは、主犯格による校外への呼び出し。

 それはいつものことだったけれど、少し違和感を感じた。

 その原因が何なのかはわからなかったけど、なぜか行ってはいけないと感じた。


 ……でも行かなかったら、もっといじめられる。

 そう考えたわたしは、その場所へと律義に向かってしまうのだった。




「あ、夕木、これから帰りなのか?」


 下駄箱で画鋲に顔を顰めていると、一人の青年が話しかけてきた。


 わたしと同じくらいの背丈に、快活そうな表情は、太陽のような彼女をどこか思い起こさせる。

 豪放で爽やかな彼は、わたしのような万年ボッチとは、とても縁遠い存在。

 そんな彼の名前は、戦場秋人。

 わたしに唯一、友好的に話しかけてくれるクラスメイト。

 そんな純粋な彼がどこか、『あの子』に似ている気がして、わたしは彼とは自然に話せていた。


 わたしは慌てて靴と手を背中に隠しながら、返答する。


「あ、うん。戦場くんは……部活だよね?」

「んや、今日は部活休みでな。だから悠莉の家に行こうと思ってるんだ」

「へぇ……そう言えば戦場くんって、結構半井くんと一緒にいるよね」

「…………ああ、アイツとは幼馴染だからな」

「そうなんだ……」


 半井、悠莉。

 戦場くんの隣で、いつも気怠そうな表情を浮かべている彼は、どちらかと言うとわたし側の人間のような気がする。

 わたしがいつも戦場くんを見ているからなのかわからないけれど、わたしから見れば彼としか話しているようには見えないし、わたしと同じように一人の時も多い。

 いじめられている風ではないけれど、わたしと一緒で、孤立しているのは確か。

 …………クラスで孤立した二人がどちらも、秋人くんによってクラスに繋ぎ止められている、というのもどこか不思議な話だ。

 と言っても、直接話したことはないのだけれど。


「…………」


 そんなことを考えていると、戦場くんがわたしの顔を覗き込むようにして見ていた。

 端正な顔つきが、息のかかるくらいの距離に。


 驚きと恥ずかしさで咄嗟に後ろにバックステップ。


「な、ななななななに?」

「……いや、少し浮かない顔をしてるように見えたからさ」

「…………!」


 戦場くんの言葉に、わたしは呼び出しを思い出す。

 少しでも遅れたら、何をされるかわからない。

 彼ともう少し話していたい気持ちも勿論あったが、彼女らに植え付けられた恐怖の方が、数段上だった。


「ご、ごめん! わたし今日用事あるからもう行くね!」

「そうか、引き留めちゃってごめんな」

「ううん、大丈夫! じゃあ、また明日ね」

「ああ、またな!」



 また、明日。

 この時のわたしは、その約束が果たされないということを、知らなかった。



 ────



「来たわね」


 呼び出された場所は、人気のない公園の女子トイレの中だった。

 そこで待っていたのは、リーダー格の女子と、またも謎の視線。

 間違いない、今日もアイツが見ている。

 無機質な視線を浴びながら、わたしは気持ちを引き締める。


 どうせソイツは、助けてなんかくれない。

 自分一人で、何とかするしかないんだ。


 わたしは自分としては強気に、低い声で呟いた。


「……今日は、何をするつもり?」

「まぁまぁ、そんなに身構えないで。今日のは多分、慣れてるでしょ」


 慣れる……?

 そんな訳が、ない。

 わたしはただ、必死に耐えているだけだ。

 …………崖っぷちで、踏みとどまっている、だけなのだ。


 慣れるなんて、とんでもない。

 わたしはもう、殆ど限界なのだ。

 ……もう、疲れてしまったのだ。


 だがどうやら、彼女の言う『慣れてる』という言葉は、わたしの考えるそれとは違っていたらしい。


 彼女に、ぶっきらぼうに告げられた言葉。

 その言葉に、わたしは戦慄せざるを得なかった。



「服を脱げ」



 わたしは数秒間の間、何を言われているのか理解することができなかった。


「そ、そんなことッ」


 できるわけが。

 その言葉は、唾とともに飲み込まれた。


 彼女が、きらりと光る何かを取り出したのだ。

 その瞬間、空気が一変した。

 ……勿論、良い方向にではない。

 そんな訳が、ない。



「……へぇ、断るんだ」



 彼女が取り出したのは、一振りのナイフ。

 それは紛れもない凶器であり、その威容は、わたしの言葉や思考を止めるのに十分なまでの破壊力を秘めていた。

 ……使い方を間違えれば、わたしの命までも奪ってしまえるほどの凶器が、そこにはあった。


「良いじゃん、普段から男の前で、恥ずかしげもなく見せてるんでしょ?」

「そ、それは貴方達が勝手に…………!」

「うるさーい。それは拒否と見なす」


 死の象徴とも言えるそれを持って、ゆっくりと近づいてくる彼女。

 彼女の顔には、言葉にならないほどの狂気が滲み出ていた。

 固まった思考の中、後退りするわたし。


「……ぇ……じょ、冗談、だよね?」

「冗談な訳ないじゃぁん。……アンタが、ごみの癖に言うことを聞かないのが悪いんだからね」


 背後、つまりこの空間唯一の出口は既に、待ち伏せしていたであろう数人の女子が道を塞いでいた。

 どこかに、逃げ場は。

 このままじゃ、殺されちゃう。


 目を見開いて必死に、辺りを見回すうち、とあることに気が付いた。

 ……個室の鍵が、全部閉まっている。

 勿論それが打開に繋がるという訳じゃないが、少し気になった。


 流石に、他人の目がある場所でこんなことするわけがない。

 だったら、なぜ……?


 その答えが見えないまま、状況は更に悪化する。


「みんな、そのアバズレを押さえつけて」

『りょーかい』


 後ろの女子たちが、わたしを取り押さえようとする。

 流石に数の力には敵わず、わたしはすぐに拘束されてしまった。


 動けないわたしを見下ろし、彼女はわたしの襟を掴む。

 恐怖で、おかしくなりそうだった。

 わたしは、ヒステリックに喚き散らした。


「お願い、止めて! 止めてよ!」

「…………じゃあ、罰ゲーム開始ー」


 勿論、その叫びが誰かに聞き入れられることはなく。

 銀色の鈍い光が徐々に首元に近づいていき。


 わたしは、目を閉じた。





 びりびり。

 そんな陳腐な音とともに、わたしの制服は見るも無残な姿を描いた。


 あられもない姿を晒すわたしに、彼女は嗤う。



「…………あは、刺すとでも思った? ざーんねん、服を切るためでしたぁ~!」


「刺すわけないじゃん、血で汚れちゃうし、何よりアタシらが犯人だってバレるし」


「…………まぁ、正直殺したいほど嫌いだけど」


「でもまぁ、そんなごみのアンタでも役に立てる、そんなことをしようと思ったの」


「みんなのことを思って行動する、そんなわたしってなんて優しいのかしら!」



 彼女の言葉に、次々と首肯する女子達。

 それはまるで、何かの新興宗教にしか見えなかった。



「……とまぁ、そんなわけで。もう出て来ていいわよ~」


 彼女がそういうと、今までロックされていた個室全ての鍵が、一斉に開いた。

 そこから出てきたのは、男子だった。

 普通に、どこにでもいるような、男子たち。

 それが個室の数、四人現れたのだ。


 ここまでくれば、いくら間抜けなわたしだって、彼女が、そして彼らが何をしようとしているのか容易に理解できた。

 制服を切ったこと、彼女の言動、そして、男子四人。


「まさか……!」

「やっと理解できた? 何の役にも立てないアンタでも、男子たちの捌け口くらいにはなれるでしょう」

「……!!!」


 嫌だ。

 いやだいやだいやだいやだ!!

 わたしは、半狂乱になって暴れた。

 どうにかして外に出ようと、無我夢中でもがいた。

 …………でも、どうにもならなかった。

 ……ただ、彼女らの笑みが深くなるだけだった。


 涙が、溢れた。


「じゃあ、男子ども。好きなようにやっていいわよ」

「ほ、本当にいいのか?」

「勿論。あ、もしアタシ達を襲ったらどうなるか……」

「わかってるよ。流石に俺達もそんな命知らずじゃない」

「ならいいわ」


 ケダモノ共の、手が伸びてくる。


 ……強く、なりたい。

 この人たちを纏めてぶっ飛ばして、金輪際いじめられないくらいの、力がほしい。

 ……そしたら、いじめられることもなかったのかな。


 わたしは、内気な自分を呪った。

 もっと自分の思ったことをはっきり言って、もっと戦えば良かった。

 たとえ弱くても、戦えば良かった。

 最初からあきらめていないで、もっと抗えばよかった。

 もっと…………。



 わたしの肌に、その手が触れる瞬間。




「……寄ってたかって、何してんだお前ら」




 五人目の男子が、出口から現れた。



 ────



「戦場……くん!?」


 彼はずかずかと歩みを進め、わたしの進路を塞いでいた女子をことも無げに退かした。

 そしてわたしの前に来て、そのどこか安心できる声で呟く。


「もう大丈夫だ。遅くなってすまなかった」


 わたしが状況に混乱して、何も言えないでいると。


「ほら、これでも羽織っててくれ」


 彼は、着ていたブレザーをわたしにかけ、白いシャツ姿で前に向き直り、呟く。



「もう、辛い思いはさせないから」



 ────



 思わぬ乱入者に、女子達も動揺しているらしい。

 秋人くんを指さしながら、男子たちに命令する。


「……や、やっちゃって男子達!」

「はいはい」


 手をひらひらと振り、彼を取り囲む男子四人。

 その中の一人が、威圧を込めた視線で問いかける。


「おまえさ、運動部四人に勝てると思っているのか? 今なら見て見ぬふりすれば、仲間に加えてやるが」


 彼はその言葉を鼻で笑い、皮肉交じりに答える。


「俺も運動部だからな。……まぁ、お前ら如きと一緒にされたくはねーが」

「そうかい。別に俺達も、おまえみたいなヒーロー気取りと一緒にされたくはないな」

「そうか、それならよかった」



「お前らのこと、安心してぶん殴れるからな」



 そう言って彼は腰を落とし、どこか様になった構えを取る。


「ほら、早くかかって来いよ。それとも、たかが一人にビビってんのか?」


 彼の挑発的な言葉に触発されたのか、男子どもが怒りを顔に表す。


「ビビってる訳ないだろうが! やるぞおまえら!」

『おう!』


 そう言って男子どもは一斉に彼に飛び掛かる。

 一連の状況の転遷を、わたしはただ見ていることしかできなかった。


「戦場……くん……!」


 傍観、するしかなかったのだ。




 それは明らかに、『喧嘩』と一つ呼びできるようなものではなかった。


 死闘。

 この場を表現するのに、それ以上の言葉があるだろうか。

 そう思わせるほど、わたしの目の前で起きたことは凄絶だった。


 倒れ伏した、名前も知らぬ四人の男子。

 彼らより傷ついているようにも見える彼はただ一人、そこに立っていた。



 その結果を前に、呆然と立ち尽くす女子達の方へと、彼はゆっくりと歩み寄る。

 見下ろす視線を前に、顔を青くした女子達は口々に声を漏らす。


「……あ、アタシ達も殴るつもり? 言っておくけど先生にこのことを言ったら、どうなるのかわかってる?」

「戦場くんがいきなり暴力を振るって来ましたって言えば、悪は戦場くんの方になるのよ」

「そ、そうよ。だから、迂闊なことは止めといた方がいいわよ」

「無駄なことは止めて、アタシ達の前から立ち去りなさい。それと、いじめてることをチクっても無駄よ」

「先生もこのことは知っているし、クラスの雰囲気が悪くなることを嫌って、そして大事になることを嫌って、できるだけ穏便な方法でけじめをつけようとする」

「それが、そこの女の犠牲、という訳」

「アンタがたとえ、その女を今助けたところで、アタシ達を殴ったところで、結局は変わらないのよ」

「学校はアタシ達を守るように動くし、そのしわ寄せはアンタとソイツ、そしてアンタ等に協力する人間にくる」


「諦めなさい。学校は、アタシ達の味方なのよ」

「……ああ、だから俺は」



「絶対にお前らを、殴らない」

「……」

「……まぁ、かっこ悪い答えだというのは自覚してるが、どうせ殴ったところで意味もないしな」

「…………」

「……そのことで、俺が何か言っても、どうにもならないことはわかっているからな」


 彼は、少し大きめな上着を羽織ったわたしを、横になった姿勢のまま持ち上げる。

 自分のことを客観視できないわたしには、それがどのような行為なのか、まだ理解できていなかった。


 でも、戦場くんの体は、服の上から見るよりも、意外とがっしりしていて。

 温かくて、どこか優しくて、まるで────。

 どくり、と胸の辺りが熱く揺れた。



「でも、これだけは覚えておいてくれ」



「今お前らがやっていることは、紛れもない犯罪、罪だということを」

「…………」

「……夕木、行こう」

「……う、うん」



 何が起きているのか、未だに思考がしどろもどろなわたしは。

 戦場くんに抱えられたまま、その女子トイレから出たのだった。



 ────






「…………ねえ、戦場くん」

「どうした?」

「……なんで、わたしを助けてくれたの?」

「なんでって……」


 質問の意図がわからないような顔をする戦場くんに、わたしは説明する。

 ……紛れもない、事実を。



「……わたしがいじめの標的になることで、曲がりなりにもクラス全員が団結して、先生も雰囲気の良いクラスとして見ていた。わたしがいじめられるまではそこまでって訳でもなかったし、多分先生もわたしがいじめられていることに薄々気づいていたんだと思う。……だけど、先生は全く助けてくれなかった。クラスの良い雰囲気が、壊されることを嫌ったから」

「…………」

「……クラス全体の雰囲気を壊してまで、先生の意向を崩してまで、戦場くん自身も巻き込まれることは確実なのに、どうして」


 続きの言葉を言うのが、少し怖かった。

 もしかしたら、これは儚い夢で、それを聞いてしまったら、すぐに醒めてしまうかもしれない。

 もしかしたら、彼はわたしを助けるためではなく、わたしを陥れるためにこうしているのかもしれない。

 これも、いじめの一環なのかもしれない。

 ここから地獄に突き落として、愉悦に浸るためにやっているのかもしれない。

 彼も他の人間と同じく、わたしをごみとして見ているかもしれない。


 わからない。

 わからないのだ。


 …………でも。

 残り数パーセントの可能性に、懸けて。


 これが現実であり、彼に裏が本当になくて、いじめにも関係がなくて、このまま幸せが続いて、そして何より……。



 わたしを、人として、『夕木茜』として見てくれている。

 その、限りなく低く思える確率に懸けて。

 わたしは、言葉を紡いだ。



「……どうして、わたしを、助けてくれたの?」

「…………そんなの」




「夕木が、苦しんでいたから。それ以外の理由が必要なのか?」


 溢れそうになる涙を必死に堪えて、彼の顔を見据えた。

 …………でも、何をどう言えばいいのかわからなくて、しどろもどろで。

 そんなわたしの目元に、彼は指を添えた。



「今まで、気づけなくてごめん」



「ずっと、一人で辛かったんだろ……?」



「俺には、そんな辛い過去を消すことはできない」



「でも」



「こんな俺でも、夕木の今を、そして未来を。少しでも良い方向に向けることができるかもしれない」



「もし、夕木が嫌でないのなら」




「これからは俺に、護らせてくれないか」

「……戦場くん」


 目をごしごしと擦り、少し濡れた袖を見やりながら、わたしは呟く。


「……一つ、条件があるの」

「なんだ?」




「……わたしも、頑張るから。これから一緒に、戦ってほしいな、なんて」



 わたしがそう言うと、彼は一瞬ぽかんとした後、


「ああ! 喜んで手伝わせてくれ!」


 と、まるで子供のような無邪気な笑顔を見せてくれた。


「…………そっか」



「…………」



「……あのな」



「もう我慢しなくて、いいんだぞ」



「…………思いっきり、泣いてもいいんだぞ」



「…………」




「…………うぇぇえええええええん」



「辛かった。痛かった。苦しかった。泣きたかった。もう何度も、諦めようと思った。でも、誰にも相談できなくて……心配させたくないし、巻き込みたくないし……それで…………」



 色々な感情が溢れ、彼の真っ白なワイシャツの胸元を濡らす。

 そんな、みっともないわたしの頭に手を触れ、彼は言う。


「夕木……いや、茜。大変だったな」

「…………ありがとう…………ありがとね、秋人くん……」


 これが、秋人くんへの思いが、いじめへの恐怖を上回った、その瞬間だった。




 その件があってから、わたしをいじめてた奴らはわたしに近づかなくなった。

 そしてその日から、秋人くんのことを、どうしようもないほどに好きになってしまったのだ。

 何か彼のために、わたしにできることはないか。

 そして迷惑じゃなければ、一生彼の隣で生きたい。

 そう、思えるほどに。



 一生忘れない、なんて言葉は、絶対に使わない。

 そんな言葉は、わたし自身の奥深くにだけ、閉まっておけばいいから。

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