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レインコートの立会人


 空は青かった。

 彼には雨が見えていた。降っていないはずの雨滴は感じられない。八月の空は酷く鈍い蒼で覆われていた。いつもより粘度を含んだ青の塊は手を伸ばせば掴み取れそうだ。

 骨が折れた腕を持ち上げる。もう痛みなんて感じない。太陽光を吸収して、フライパンのようなアスファルトにも、もう熱は感じられない。


 少し遅い朝の通学途中。

 別に寝坊したつもりはなかった。吸収しきれなかったアルコールの処理を終わらせて、下宿に止めてある愛車のジョルノでゆっくりと大学へ向かう。

 もう受ける講義はない。友人と学食で遅い朝食をとる予定だった。


 信号機が青になった。

 鼻歌まじりに発進して、トラックに轢かれた。

 そして、地面に投げ出された。


 最初はジョルノが心配で倒れている場所に一目散に立ち上がる――つもりだった。身体が指一本動かせないことに気付く。

 さらに、体中の骨があるはずなのに痛みは全くなかった。

 

 無味な雨に打ち付けられる。空の青が鈍くなる。

 その明度が低くなって、薄く、暗くなっていく。背中のアスファルトが急激に冷えていき、骨髄が凍るほどの悪寒に身体が包まれる。


――ああ、これが死ぬっていうことなのか。


 ぽっかりと心の中に穴が開いた。

 死に際になっても何も考えつかない。どうしたら良いのかわからない。余りにも唐突に死がやって来た。ちゃんと準備が出来ていないのに。


 結局、空は掴めなかった。諦めたように眼をつむる。

 心臓から強烈な寒さが広がって、掲げた右手の先まで侵される。

 腕の力なくなり、崩れ落ちるはずだった。


 指先にカイロのような微熱が当たる。不思議に思って眼を開けると、黄色いレインコートを着た少女だった。檸檬色の袖口から小さな手が突き出て、掲げていた手を握っていた。


「誰にも平等に訪れる。それはみんな一緒」


 この寒空の下で彼女はとても温かい。


「怖がらなくて良い、一番幸せだった時のことを思い出して」


 見えない水滴が頬をつたって、。


 彼は死んだ。二十歳になる前の八月の昼の十一時だった。


 少年は誰の事を思い浮かべただろう。どの思い出を思い浮かべただろう。

 思い出したのは家族の団欒だろうか。恋人のことだろうか。それとも昨日の夜の飲み会の事かもしれない。


 死神、天使、人は好き勝手名前を付ける。

 檸檬色のレインコートの少女はこの世界のシステムの一つの駒だった。


 この役割が好きかと聞かれたら、彼女は正直言ってわからない。

 人の死に際は楽しいものではないし、ずっと見ていたいわけじゃない。いきなりやって来た『死』を受け入れられない。大半の人間はそうだった。


 それに、投げかけた一言で死が覆るわけじゃない。第一、業務上必要がない行動だった。

 偽善なのかもしれない。自分のエゴなのかもしれない。


 彼が完全に息を引き取って、雨が止んだ。 

 檸檬色のレインコートは自らの役割を終えて、夏の交差点から姿を消した。


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