スバイン村
スバイン村はオータリア公国領北部の草原にある小さな田舎村である。
オータリア公国は大陸の覇者であるバークリル大聖国の従属国として独立した小さな国なので、領土の中には公都が一つと村が二つだけと人里は少ない。
スバイン村は牧畜を主産業とする、二つある村のうちの一つであった。
「動物が多いな、この村は」
村の大通りで、アイハは目の前を我が物顔で通り過ぎていく牛の群れを眺めながら言った。
「この村で育てた家畜は、公都に運ばれて食料にしたり、労働力に使ったりしてるらしいよ」
同じく隣で牛が通り過ぎるのを待っていたアルドネウスが答えた。
アルドネウスの今の姿は、布製の軽装にローブを被った冴えない格好。本人いわく大陸を放浪している標準的な旅人の服装らしい。
しかし色々と記憶を失っているアイハにとっては、もともと冴えなかったアルドネウスの雰囲気が、更に増して冴えなくなったようにしか見えない。
「ところでアルドネウス。わたし達はなぜこの村に来たのだ?」
隣を見上げて質問をしてみると、アルドネウスはため息を漏らして首を振った。
「アイハ……。さっきも言ったけど、僕はこの姿の時は旅人のアルノーって事にしてるんだ。だからアルドネウスって呼ばれると困るんだけど……」
「そういえばそんな事言ってたな。分かった、それじゃアルって呼ぶ事にする。フィルもそう呼んでるみたいだしな」
アイハがアルの腰に付けた布袋に顔を近づけると、それに応えるように袋が小さく震えた。
「まあそれなら良いけどね。……それで村にきた理由だっけ? 一つは旅の物資の補給。もう一つは公都に繋がる駅馬車が目的だよ。アイハの事を調べる為にも公都にある聖錬教会支部まで行かないといけないからね」
「そこまで行くと、わたしの事が分かるのか?」
「たぶん……。普通は行方不明者が出たら、その報が教会に入ってるはずではあるんだけど」
どことなく言葉の刃切れが悪いのは、アルにとってもアイハが普通の行方不明者なのか自信が持てないからだろう。
だがアイハは「そうか」と頷くと、意外な事に特に気にしてない様子で口を開いた。
「まあ、分からなかったら分からなかったで構わないけどな。実はあんまり過去の事を気にしてるわけでもないし」
アイハがそう言うと、アルは驚いたように目を大きくした。
「気にしてないって……。アイハは自分が何者なのかって気にならないの? 自分でも聞いてきてたのに?」
「うん。奴隷馬車で気がついた時はちょっと気になっていたけど、よく考えたらそんなに気にしなくても良いような気がしてきた。過去の自分が何者なのか知ったところで、今の自分が変わるわけでもないしな」
「それはそうかもしれないけど……」
アイハの忌憚ない言葉にアルは困惑した表情をみせていた。自分が何者なのか分からないというのに特に気にしないとはどういう事なのか、とでも考えているのかもしれない。
「ところでアル、駅馬車ってのはアレの事か?」
「……ん? ――ああ、うん。あれあれ。今ちょうど出て行ったあの馬車が……ああっ!?」
走っていく馬車を見たアルが突然走りだした。村の端に建てられた簡易的な木造平屋の駅に駆け込むと、運行予定表の看板に目を落とす。
少し遅れてアルに追いついたアイハは、軽く見だした息を整えながら問いかける。
「どうした? 変な声を上げたかと思うと、いきなり走りだすなんて……元気が有り余ってるのか?」
「ああ~……。やっぱり……」
アルはがっくりと肩を落とすと、ため息を漏らした。
アイハが一体何ごとだ? と首を傾けると、アルが自嘲気味な笑みを浮かべながら顔を向けてきた。
「駅馬車……次の便が来るのは一ヶ月後だって」
「一ヶ月? ふむ~……、随分とこの村に長逗留するんだな」
「……僕も長逗留したいわけじゃないんだけどね。……はぁ~、失敗したなぁ。こういう村では駅馬車の利用はある程度融通がきくから、後回しにしてたのがミスだった」
アルが頭を抱えてヘタレ込んだ。
実際このような利用客の少ない村にある駅馬車は、本数が少ない事もあって厳密に時間を定めているところは少ない。利用したい客が来た時とか、物資を運搬した時など、動かす理由ができた時に馬車を出すのが慣例となっているのだ。
その為、アルは適当なタイミングで駅に向かえば駅馬車を利用できると考えていたのだが、どうやら運悪く別の客か、物資の運搬の時期にでも重なってしまったらしい。
この村から出てる駅馬車は一本のみ。一月に一度馬車を出すとは書いてあるものの、公都でまた客を見つけてから帰ってくる事なども考えると、それ以上の時間がかかっても不思議ではない。
「歩いて行くわけにはいかないのか?」
「……馬車でも10日は掛かる距離だから……」
アイハが提案をしてみると、アルは力なく首を振った。
どうやら歩いて行くのはイヤなようだ。それならば、とアイハは別の提案を出してみる。
「じゃあ空を飛んで行けば良いんじゃないか?」
「う~ん……。この距離を魔術で飛んで行くのはかなり大変かな。それにアイハを抱えて飛ぶなんて、僕にはちょっと出来ないしね」
「わたしが自分で飛べば大丈夫じゃないか?」
「ははは。そりゃ、アイハが自力で飛行の魔術が使えるっていうのなら可能性はあるけど」
冗談だと思われたのか、アルは笑いながら答えてきた。
アイハはそんなアルの反応に首を傾げながら簡単に口にする。
「魔術は知らないが、空は飛べるぞ」
「いやいや、そんなバカな。僕が言うのも何だけどね、魔術ってのはそう簡単なものじゃないんだよ? ましてや飛行の魔術はE難度に分類される、物凄く難しい魔術でね?」
「そうなのか。でもわたしは飛べたぞ」
何度言っても信じようとしないアルは、まったくと腕を組むと叱りつけるように眉を寄せて言ってきた。
「よく聞いてアイハ。僕には良いけど、あんまり他ではその冗談は言わないほうが良いよ? もしここに魔導の勉強をしている魔導錬士が居たら、すっごく怒られるからね」
事実、魔導練士の前で魔術を使えるなどと冗談で言うと殺しかねない程怒り狂う人もいる。 それだけ本気で魔術士になりたいと願っており、それほどに魔術士になるのが難しいのである。
どれだけ努力し、勉強を積み重ねたからといって、魔導の基礎すら掴む事が出来ないまま無為に人生を終える者が大半なのだ。
だがそうだと分かっていても、魔術士への夢を抱いて魔導練士になる者は後を絶たない。
魔術士にはそれだけの価値があるということだ。
だがそんな魔導練士の都合など、アイハにとってはどうでもいい事だった。出来るから出来ると言っているだけなのに、一体何を言っているのか? そんな風に不満気に頬を膨らませたアイハはアルを見据えて口を開く。
「信じてないな? じゃあ見るか?」
そう言って、アイハが足を踏み出そうとしたその時。
「――あ、おいアンタ!! 良かった、まだ馬車は出てなかったか!!」
突然割り込んできた男の声が、アイハの行動を邪魔した。
見てみると、血相を変えた男が息を切らして走ってきている。
「……え、僕?」
アルが自らを指差して困惑した声を上げた。アイハは踏み出しかけていた足をゆっくり下ろして眉をひそめる。
近寄ってきた男は額の汗を拭うと、胸を撫で下ろしながらアルに話しかけてきた。
「宿屋のハイドさんから話を聞いて焦ったよ。北の遺跡に行きたいんだって? でも今は止めておいた方がいい。ここ最近、モンスターが頻出するようになっててね。今は国の指示で遺跡は封鎖になってるんだ。なんとか行く前に止められて本当に良かったよ」
相当心配していたのか、男は安堵の深い溜息を漏らす。そんな男にアルが戸惑いながらおずおずと片手を上げて口を挟んだ。
「……え~と? あの、誰かと勘違いされてませんか? 馬車ならさっき出て行ったみたいですけど……」
アルの言葉に男が動きを止めた。そしておそるおそるとアルを指差して聞いてくる。
「……昨晩から村に泊まってるダリルさん……?」
「さっき村に来たばかりのアルノ―です」
男の顔からみるみる血の気が引いていった。
「そ、それじゃ……ダリルさんは?」
アルの隣でずっと話を聞いていたアイハは淡々と答えた。
「行っちゃったんだろうな。その北の遺跡とやらに」