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MEMENTO MORI  作者: 九JACK
after story
38/40

あの頃、僕は不完全だった

 今でもまざまざと思い出せる、母の温かかった最後の手。

 「ごめんね」と囁いた声。

 「ありがとう」を知らなかったあの頃、僕は不完全だった。


 母の名は柊叶恵。旧姓は雛菊(ひなぎく)という。雛菊家は呪われているということで、父が母と結ばれようとしたとき、父の両親は猛反対したという。その反対を押し切って父は母と結婚した。以来、父方の親戚とは絶縁状態らしい。一方、母方の祖父母は娘が嫁に行くことで大喜びした。父方とは雲泥の差だった。ただ、挙式をすると、母方の家族がぽつりぽつりと死んでいった。皆、自殺であった。

 これが雛菊家が呪われているとされる所以である。代々一家は自殺するのだ。原因はわからない。ただ、今回の引き金は、母が嫁ぐことになったことだ。「娘が嫁に行ったから私はもう満足だ」と祖母が逝き、伯父がその後を追う。僕が生まれてから「孫の顔が見られたから」と祖父も妻の元へ旅立った。自殺が続いて残っていた母と叔父一家への風当たりが強くなり、耐えられなくなった叔父は家族と共に心中した。

 母はショックでまともに立てなくなっていた。父はそれを懸命に励まし、母を支えた。母はそれにすがり、必死に生きた。僕を育てながら、家事をこなして、父の帰りをずっと待っていた。

 僕が物心ついた頃、母が風邪で倒れて、僕は初めてのおつかいを頼まれた。「八百屋で林檎を三つ買ってくる」というものだった。八百屋のおじさんとは知り合いだったし、道もしっかり覚えていたから何も心配はないと思っていた。しかし、小さい僕に他の人たちは気づかないふりをして踏んだりぶつかったりしていった。僕は自殺一家の子だから。それでもなんとか八百屋に着いて、優しいおじさんに林檎を二個おまけしてもらって、今度は誰にもぶつかられないようにと避けながら歩いた。けれども曲がり角で学生とぶつかって、林檎が落ちて、林檎が三つ、ぐちゃぐちゃになって……仕方なく、残っていた二つを抱えて家に帰ると寝ていたはずの母が起きて、僕の姿を見て驚き、辿々しい説明を聞いてくれた。林檎を母は受け取らなかった。僕と父の二人で分けるように、と言った。「私にはもう必要のないものだから」と。

 母は僕に便箋を渡した。「貴方へ」と書いてあった。これを林檎と一緒に父に渡してほしい、と。訳もわからず頷いて受け取ると、母の体が傾いで、慌てて支えた小さな体は潰れそうになりながらも、必死で母の体を支えた。何とか立ち直った母について、母の部屋へ行った。そこで母は僕に林檎を剥いてくれた。

 「美味しい? 友人」と母は訊いた。

 「うん、美味しいよ、母さん」と僕はできる限りの笑顔で答えた。

 「そう、よかった」と母も笑った。

 次の瞬間。

 母はナイフで手首を切った。母は笑ったままだったので、僕も笑ったままだった。それが何を意味するかなんてそのときは全くわかっていなかった。

 母は赤く濡れた手で僕の頬に触れ、小さな小さな声で言った。

 「ごめんね、友人」と。

 赤く濡れた母さんの手は温かかった。だからそっと触れると、母が倒れかかってきた僕は呆然として仰け反るように後ろに倒れた。父が帰ってくるまで、ずっとそうしていた。

 重いとは感じなかった。ただ、母の体が冷たくなっても、その手を離すことができなかった。


 感情が欠落していたのだと思う。

 あの頃、僕は不完全だった。母が死んだという事実をよく理解していなかった。母の手紙を見て「ごめんと云うくらいなら……」と慟哭する父に「泣かないで」というほどに、僕の心は欠落していた。

 父はしばらく僕と顔を合わせなくなった。僕は母にそっくりだったらしい。

 最後に目を見たのはたぶん「お前は絶対に死ぬなよ」と言ったときだ。


 僕の名前は母がつけたものだという。「友人」と書いて「ユウト」。由来は「私には友達がいなかったから、この子には友達ができるように。そしてこの子が誰かの友達になれるように」とのこと。父はそれを聞いたとき、「寂しい名前だね」と言ったそうだ。「でも、いい名前だ」とも。

 僕は「友人」という名でよかった。

 そうでなければ悠斗という友に出会えなかった。桜なのはにも出会えなかった。そして叶多にもきっと出会えなかっただろう。これは仕合わせな幸せだ。

 完全というのは仕合わせな出会いができることなのだと思う。

 だから母さん、ありがとう。

 僕はまだ、不完全かもしれないけれど、完全な世界にいるんだよ。

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