儚く、脆く、ひび割れて-Ⅰ-
桜が咲き揃っていなかったから、彼女は俺の前に現れたのかもしれない、と柄にもなくロマンチストなことを考えていた。
……いや、俺はロマンチストか。
紫苑の花に似た友人を守りたくて、出会って、助けて、友達になった。
神楽のために鎮魂と称して葉のない銀杏に祈りを捧げる。
その上中学を選んだ理由が「桜が綺麗だから」。とんだロマンチストである。今まで意識したことはなかったが。
俺は自然と人間というものを重ね合わせて、勝手に感動を覚えてしまうような人間なのだ、と今更ながらに気づいた。けれど、きっとそれでよかったんだと思う。──そう思いたい。
あの日出会った桜という少女が死して尚、俺はそう自分に願う。
俺の恋心を否定したくないから。
窓際からそこそこに遠い席だが、ちらほら花開く桜の見受けられる窓の向こう側を、俺は呆然と見ていた。特に何も考えていなかったと思う。その証拠に、「わあっ」とチープな驚かし方をしてきた友人にびっくり仰天したから。
友人は悪戯が成功した子どもみたいにけらけら笑って、俺にひらひらと一枚の紙を示した。
咲いたばかりの桜のような白い紙には無機質な明朝体で「入部届」というものの概要が書いてあった。友人の用件を大体察する。
「これ、どうする?」
ちら、と入部届を見た友人の目は興味というものに欠けていた。当然のように声からも興味というものが感じられない。きっと、部活動という他人と交流するというシチュエーションに興味が持てないのだろう。他人にさんざんっぱらに貶される日々を過ごしてきたから、他者と関わることに飽き飽きしているのかもしれない。仕方のないことだとは思う。
「部活、ね……」
そう呟いた俺にも実際、興味など微塵もなかった。部活と勉強を両立させ、文武両道、青春を謳歌する日々。そんな明るい王道漫画のような日常が、なんとなく似合わないような気はしていた。
友人の問いにはっきり答えず、俺はまた窓を見る。桜の枝がそよそよと動いている。まだ散りはしないようだ、ということによくわからない安堵を抱いていた。
「おーい、何黄昏れてんだよ?」
友人が俺の眼前で手をひらひらと振り、視界を遮る。それによって、剥離しかけていた意識が体に戻り、現実を見る。
現実とは入部届という名の白い紙。
別に、無理して部活をやる必要はない。文化系の部活には俗にサボり部と呼ばれるやつがあるらしいから、適当にそこに籍だけ置けばいいんじゃないか、という考えが浮かんだ。受験のあるくらいの学校だから、無所属というのは許されないらしい。誠に面倒なことである。
サボり部の名前を思い出そうとしたところで、ふと、先日の少女が蘇る。確か、新品同様のぱりっとした感じの運動着を着て、小さいラケットケースを持っていたか。不思議なことに一度目にしただけなのに、やけに鮮烈にその少女のことを覚えていた。長いのであろう髪が今時珍しく、器用に簪で留めてあったのが印象的だ。簪の先には桜の花があしらわれていた。
あの子はラケットケースなどから察するに、きっとどこかの運動部に入るのだろう。溌剌とまではいかないまでも、朗らかな彼女にはよく似合うだろう。運動部は。
ラケットの大きさから見るに……
「……卓球」
思い至ると思わずそう口にしていた。それを拾った友人が不思議そうな顔をする。
「悠斗、卓球なんて興味あるの?」
「いや……」
興味がある、というと何かが違う気がする。ただ、思い出して、思い至ったことを口にしただけだ。
「ほら、小学校の頃はあれで、何かを楽しむ暇なんてなかっただろう? 卓球なら、簡単だし」
「簡単、かな」
しまった、と思った。よく考えもせずに喋ってしまった。卓球のことなんてなんとなくしか知らない。
まあ、確かに小学校の頃はいじめにまみれて何かを楽しむ暇なんてなかったから、楽しむのもいいかもしれない。この学校には俺たちを知っているやつなんていない。学区が違うし、入試の難易度が高いから。その分受験勉強が大変だったけれど、他の同級生より三年早くその大変さを知ったという点では非常に意義がある。
ではなくて、卓球だった。目の前の話題に目を戻すと、友人はものすごく興味なさげな目をしていた。
「運動か……」
呟かれた言葉に色々なことを思い出す。そういえば、体育の授業というやつにいい思い出がなかった。ドッジボールで無駄に強く当てられたり、バレーではアタックの的にされたことは中学に入ったばかりの今はまだ記憶に新しいものとして残っている。体育の授業は授業の殻を被った暴力の時間……俺たちはそういう認識だ。友人はより運動というのを忌み嫌っているだろう。
だが、物は考えようだ、といいことを思いつく。
「卓球で意地悪なんてあり得ないだろう。あんな小さい玉をぶつけたって何にもならないさ」
「ラケットは」
「ラバーが張ってある」
「それ絶対痛いだろ」
「何故ラケット=殴るって連想になるんだ。ほら」
そこで言おうとしたことにそっと息を飲む。
瞼の裏に焼きついた女の子の笑顔。あの子はきっと、卓球部だ。
「……女の子もいる部活だ。そういう暴力的なことはないだろうさ」
「なんだよ悠斗、色気づいてやんの?」
「んなわけあるか!」
思い切り突っ込んでしまった。
放課後の教室に轟いた俺の声は恥ずかしいほどに衆目を集め。俺は机に突っ伏した。
三十秒くらいしてからだろうか。とんとん、と肩を叩く手があった。柔らかいその感触の持ち主は友人だ。
「悠斗がそういうなら、俺もそうするよ。ほら、卓球部の見学に行こうぜ」
「おう」
友人の背中を見ながら時々思う。
今の友人は小学生のときとは別人だ。あまり物怖じしないし、物言いがはきはきしている。時折つっけんどんにも思えるが。
そして思う。……これ、最初は俺の真似だったんだよな、と。
俺の真似ということは、友人には俺が今の友人のように見えていたということか。
口数が少なく、口調はさばさばしているが、わりとばっさり他人の発言を斬る。つっけんどんで、我が強いような……結構癖のある性格に見えるのだが、俺はそんな風に映っていたのか。
そんな第三者的視点から自分を見直す羽目になったのは、友人と向かった卓球部の部活見学でのことだ。
「君、試しにラケット握ってみない?」
「え? 俺?」
「ピンポン玉を打ち返すだけ、簡単だよ」
「ふぅん……」
ふぅんって何だふぅんって。相手は先輩だぞ。敬語くらい使えって。
ラリーが続くと、粘り強い友人のプレイングを先輩が称賛してくれる。
「君、上手いね。才能あるんじゃない?」
「誰にでもそうやって言っているんでしょう。お世辞はいりません」
何故放つ言葉がいちいち刺々しいのか。少し制服の裾を引っ張ってやった。
「先輩なんだから慇懃無礼とかやめろよ」
「え、そうだったかな」
駄目だ、と俺は頭を抱える羽目になった。自覚がないとは。これも俺を真似した結果なのかと思うと複雑だ。
先輩が淡々と先の言葉を述べられたものだから、困り果ててしまっている。おろおろとした様子で、周囲を見るも周囲の先輩方はラリーに熱中しているか、障らぬ神に祟りなしとばかりに「アップ行ってきまーす」と去っていく。
哀れに思いながらも、俺はどう口を挟んだものか、と頭を悩ませ、結局何もできずに立ちんぼしていた。
そのときだ。
だっだっだっ、と足音が聞こえて、ギャラリーの階段から一人の女の子が上ってきた。
「遅れましたー!」
全力疾走だったのか、息を切らしながらそう謝罪して、ふと顔を上げた。それから偶然だろうが──ばったり目が合った。
いや、別に目が合っても気まずいことはない。桜の開花時期を教えられただけの仲だ。ただ、問題は、
「あーっ!!」
俺を見るなり、その女の子は声を張り上げ、俺を指差した。
対応に困っていた先輩が、ここぞとばかりに動く。
「何? 桜ちゃん知り合い?」
「はい。昨日の、えーと、桜の子!」
桜の子、とは。俺のことなのだろうが、女の子が桜という名前であることが発覚したため、なんだかややこしい。しかし、昨日一目見ただけなのに、まさか覚えていたとは。
どくり。心音が一つ、高鳴った。
少し、期待をしてしまった。
彼女の印象に残ったこと、覚えてもらえたこと、目に留まったこと。
もしかしたら、好意のきっかけになるんじゃないかって、そんな期待を。
「何々、君も卓球部入るの? 仲間仲間! 嬉しい! あ、友人くんも? すごいですよ先輩、二人獲得じゃないですか!」
ぴょこぴょこ跳ねて喜ぶ桜に、「まだ入部すると決まったわけじゃないんだがな」と苦笑する先輩。
まあ、ここは流れに逆らうのも気まずい。
「入りますよ、この部活。他に当てはないし」
「……悠斗が入るなら」
「やった!」
喜びのあまり、こちらに抱きついてきた桜に俺はどぎまぎした。友人も一緒に首根っこを捕まえられていたが、友人はなんだか迷惑そうな顔をしていた。人に好意を向けられることに慣れていないのだろう。怪訝そうだ。
そっと、大丈夫だよ、と囁いてやると少し友人の表情が和らいだ。
女の子から抱きつかれるというなかなかないと思われる経験に身を委ねていると、さすがに部長さんが桜の暴挙とも言えるその行動を咎めた。女の子なんだから、軽率に異性に抱きつかない、という先輩の言葉はごもっともだと思った。桜はこういう子なのだろうか。親ではないが、先が心配だ。
桜は自分の行動の持つ意味にようやく気づいたようで、俺と友人を解放した。耳まで赤くして俯き、ごめんなさい、と口にする。
「気にしてないから、大丈夫」
とは言ってみたが、これは捉えようによっては「君のことは異性として意識していない」という意思表示になると気づき、今度は俺が戸惑い、まごつく。桜は全く気にしていないようで、首を傾げていた。
「まあ、いいや。とりあえず、同学年で入部してくれる子なんて嬉しいよ。自己紹介しよ。私、桜なのは」
「俺は橘悠斗」
「俺は柊友人」
そこから幕は上がった。




