秋の花弁に雫は零れて-Ⅲ-
教室に、俺の席がなかった。机も、椅子も。ついでに言うと、ランドセルを仕舞うロッカーもガムテープやら何やら色々なものを使って、とにかく、塞がれていた。
ロッカーの上の俺の名前は真っ黒に塗り潰されて、欠片も見えない。
俺の居場所が、ない。
俺はランドセルをどこに下ろしたらいい? どこに教科書を広げたらいい? どこに座ればいい? 教室の隅で誰の迷惑にもならないように息をひそめて空気同然の扱いも受け入れて、そこにいることすら許されないの?
「は、はは」
なんだよ。
久しぶりに"普通"に戻れた気がして、俺、浮かれていたんだ。
周りが席替えをしたって、神楽が声をかけてくれたって、何も変わらない。事実でなくとも、俺がみんなの忌むべき"自殺一家の子"であることなんか、変わらない。
それより、神楽が。
隣にいた神楽が、怖い顔をしていた。いや、表情はない。全くない。無表情だ。感情なんて、そこにない。
神楽のその無表情が、不意に昨日の母のそれと重なる。無表情に、紫苑を抜き取った母。じっと神楽が俺の席であるはずの空間をがらんどうの瞳で見ている。
見るな。見るなよ。
知らず、心の内で叫んでいた。声にはならない。神楽の真っ黒な瞳がひたすら怖くて、声が、出ない。
出せたなら、
出せたなら、この先も変えられただろうに。
俺は結局、神楽に声をかけられないまま、呆然と立ち尽くしていた。教室にはちらほらと他のやつらの姿もあったが、がらんどうの神楽にも、元々空気同然の俺にも、誰も声をかけない。けれど、存在には気づいているようで、不自然に避けている。見えないふりをしている。俺が"自殺一家の子"だから、俺が神楽と関わったから、神楽まで、同じ目に合う。
思い至った俺は、完全に居場所を失ったことを悟った。ここにいちゃいけない。そう思って、踵を返す。ちらりと目の前の扉の曇り硝子に反射した自分の顔はどこまでも絶望的で、真っ青だった。人間って生きていても唇が紫っぽくなったりするんだ、とぼんやり思った。紫──ああ、服とお揃いだ。はは。
しょうもない思考の中、扉を開けようとすると、ぐい、と後ろに引っ張られた。
「橘くん」
俺の名を呼んだ声に驚いた。上手く動かない首をどうにか振り向かせる。そこには満面の笑みを湛えた神楽がいた。花の綻ぶような笑顔。きっと昨日の紫苑が咲いたらこんなに綺麗で、儚くて、
「どうしたの? 座らないの? あなたの席、ここだよ」
脆いんだろう。
神楽は自分の席であるはずの机を指差す。俺だけでなく、クラス全体が唖然とした。
「……っへ? そこ、き、みの」
「橘くんの席でしょ? 橘くんの席だよ」
ほら、鞄下ろしなよ、と神楽が手を引く。神楽の手が、カーディガンとリストバンド越しに傷に触れて、ずきり、と痛みが突き抜ける。けれどそれを悟られるわけにはいかず、それでも反射には逆らえず、俺は神楽の手を振り払った。
「だ、め」
絞り出した声はまるで別人のもののように掠れていた。喉の奥に、何かが詰まったように、上手く出てこない声を俺は必死に自分の支配下に置いた。自分すら、操れないなら、俺は、本当に全部失う。
「だめ、だよ。俺、自殺一家の子って呼ばれてるんだから。呪われるんだから。寄っちゃ、だめ」
拙い、子供みたいな言葉を紡ぐ。俺は、子供だから、構いやしない。けれど、どうして、こんなに、苦しい? なんで、言い訳みたいな言葉しか出てこない?
ねぇ、なんで傷つかないうちに救おうとした神楽が、昨日散った紫苑の蕾と重なるの?
俺は神楽にできるだけ優しく、微笑んだつもりだった。けれど、上手く笑えていなかったのかな? 神楽は俺を呆然と見て、真っ黒な二つの瞳に雫を浮かべて、俺の顔を眺めていた。
そして、教室を出たのは、神楽の方だった。
俺は神楽を追いかけた。小さい赤いランドセルを追いかけた。酷く傷ついた後ろ姿を追いかけた。
学校の廊下を駆け抜ける。何人かにどん、と肩をぶつけた。そのうちのほとんどは生徒で、少し顔をしかめ、けれど顧みもしない俺に声をかけることはなかった。何人かは教師で「お前、こんなところで何やってるんだ」とか、「廊下を走るんじゃない」とか言っていた。……違う。違うだろう。
俺はあの子を止めなきゃいけないんです。授業よりも、人とぶつかるよりも、大事だと思います。俺はもう、蕾が散るところなんて、見たくない。
そんな言い訳を心で叫びながら、俺は靴もそのままに外へ出た。神楽もそのままだ。白い上履き用のシューズが土に汚れていく。小さな土煙を立てて、赤いランドセルは逃げる。
待って、と呼び止めなかった。追い付いて、直接目を見て、話さなきゃ。そう思った。
自分も上履きのせいか、踏みしめる地面がいつもより固く感じる。しっかりと、感触を感じる。薄紫の花たちが俺を見送る。カーディガンがはためいて、俺は徐々に赤が近づいているのを見た。
まだ黄緑色の銀杏並木が見えてくる。そう、今朝通ってきた道をそのまま、俺たちは戻っていた。
神楽の足が緩む。視線は前ではなく、銀杏の木のうちの一本に向く。つられて俺もそちらを見れば、この銀杏並木にたった一本しかない雄株の木を見上げていた。
赤いランドセルはもう目前だ。俺は手を伸ばす。神楽、待って……
俺の気配に気づいた神楽が振り向き、驚いたように目を見開いてから、その黒曜石みたいな綺麗な二つの瞳を細め、唇が声を出さずに言葉を紡ぐ。
彼女は立ち止まった。
もう、腕が届く距離だ。
ちゃんと、やっと話せる。
けれど、視界にはまだ赤があって。
それはランドセル以上に見慣れた赤で。……どうして気づかなかったんだろう?
赤信号の横断歩道に出て、神楽は笑顔で手を振っていた。
ばいばい。
そう動いた唇に俺は手を伸ばす。まだ間に合うと、信じて。信じようとして。
けれどその手は空を切った。
神楽が遠ざかる。
けれど、景色は赤に、広がった。
ずこずこずこっ
嘘みたいな音を立てて、玉突き事故が起こる。
その一番先頭で、赤い女の子が転がっていた。
宮城 神楽が死んだ。
俺は俺を歩道の内側に引き戻した覚えのある手を──叔父の手を、振りほどいた。叔父は存外、すんなりと離してくれた。
俺はとぼとぼと、赤い女の子に近づく。自動車は信号が赤かろうが青かろうが、もう動きやしない。──俺は、轢かれないのか。
撥ね飛ばされて、地面に頭を打ち付けて、なんだか現実味を感じられない量の血を流す神楽。数秒前まで追いかけていた赤いランドセルはぐしゃりと潰れていた。教科書やノートがばらまかれている。
俺はそれを静かに拾い集めた。
ふと、事故を起こした車を見やる。先頭の車は先っぽを信号機の電柱にぶつけ、運転席に座る知らないおじさんはベルトをちゃんと締めていなかったのか、フロントガラスに頭を打ち付けて血をだらだら流していた。後続の車がどうなっているかはよく見えないけれど、きっと碌なことになっていない。
俺はその光景の片隅で凄惨な現場をしっかり見て回りながら、耳に携帯を当てている叔父を見た。叔父はいつも冷静だ。きっと、警察や病院に電話をかけているのだろう。
俺はそんな叔父を尊敬しつつ、手の中に抱えた、ちょっとぼろぼろになってしまった教科書たちを見る。
歩道の内側に座り込んで、見るともなしにそれらを一冊ずつ、ばらばらとめくった。
見たことしかない教科書だった。当たり前だ。同級生の女の子の教科書なんだから。
次いで、ノートをはらはら。国語、理科、算数。全部丁寧に板書されている。丸い神楽の文字が、数式を解いている。教科書に書かれた方式をほぼ丸写しにしている。拙い感想文に、先生の判子と、赤い花丸。よくできましたね、と朱色の文字。
何の変哲もないノートたちを流し見、最後の一冊に手を伸ばす。無地の自由帳だった。
一頁目より先に中程のページが開け、つらつらとやはり丸い神楽の字が綴られていた。
文はこう。
「ごめんなさい。ごめんなさい。わたしのせいでいつもいつも、つらい思いをさせている。わたしのせいなのに、わたしがあのとき、あんなことをみんなに言ったせいで、困らせた。
ううん、困らせたどころじゃない。あの子を苦しめている。わかってる。わかってるのに、わたし、何もしてない。しなかった。何もしないでただ遠くから見つめているしかできなかった。あの子が苦しんでるのに、知ってるのに。わたしのせいなのに。
あの子は何も言わなくなった。みんな、信じないから。みんな、わたしが言ったことを信じてしまったから。なんで軽々しくあんなことを言ってしまったんだろう? わたし、あの子を苦しめたかったんじゃない。ただ、あのうわさが本当なら、あの子のことなら、気の毒だなって思っただけ。みんなにもそう思ってほしかった。あの子をみんなで助けてあげようって、そのつもりで言ったのに。
わたしは結局、あの子にうわさのかせをはめて、ずりずり引きずらせただけだった。あの子、それで、何年もたえ続けた。強い。すごい。わたし、何もしてないのに。けど、あの子は強いんだ。でも、苦しいんだ。
図工の時間に見ちゃった。あの子がわたしたち用のハサミをじっと見ているの。何か、怖い目で、じっとぎん色のハサミをじっと見ているの。怖いけど、その目の中にいっしゅん、安らぎ? みたいなものがゆれて見えて。帰ってからお父さんが、ハサミによっては人をさせるって聞いて、わたしはびっくりして。どうしよう、どうしよう。あの子が死んじゃったらどうしよう。絶対それはわたしのせいだ。
あの子をずっと見ていた。あの子が死んでしまうのが怖かったから。わたしのせいで死んでしまうのが怖かったから。死んじゃだめって、言えたらよかったけど、わたしにそんな勇気、なかった。いくじなし。
席がえがある日はあの子は必ず図書室に行くのを知った。一人でずっとおくの本だなにこもっている。本、好きなのかな?
そういえばあの子、花も好きそう。花だんの花をいつも優しい目で見てる。花が咲いていなくても、木を見上げたり、こっそり水をあげたりしてる。本当は、本当に優しい、ただの男の子なんだよ。絶対に"自殺一家の子"なんかじゃない。言ったのは、わたしだけど……
なんて浅はかなことをしたんだろう。みんなから"情報通"って言われて、調子乗ってた。だから、自分の知ってること全部、ひけらかしたかった。それがだれかを──ちょっと、好きな人を傷つけるなんて、思ってなかった。
ごめんなさい、ごめんなさい。ゆうとくん。たちばな ゆうとくん。わたし、あなたを苦しめて、傷つけて。でも、となりの席になれて、うれしかった。わたしのことさけないで、かぐらって名前で呼んでくれて、すごくうれしかったよ。でもわたし、"ゆうとくん"って呼びたかったけど、その名前のせいでゆうとくんが今、苦しんでいる。そうしたのはわたしだから、わたしにゆうとくんって呼ぶしかくなんてない。だから、たちばなくんって呼んだけど、心の中ではいつもゆうとくんって呼んでいたの。
たちばなくんってわたしが呼んだら、ゆうとくん少し、寂しそうな顔をした。ごめん、ごめんなさい。ゆうとくん。わたしはもう二度と、あなたの名前は呼べません。でも、となりで、力になるから。
いちょうの木が全部黄色に染まるころには、普通に話せているといいな……」
ぱさり。
乾いた音を立ててノートが地面に落ちた。いけない、ノートが土色に汚れる。そう思ったけれど、俺は拾えなかった。拾う気力が残っていなかった。
つらつらと、神楽の丸い文字で書かれた文が頭の中で谺する。頼んでもいないのに、神楽の声で読み返される。やめて、やめて。
神楽は死んだ。死んじゃったのに。やめて、やめて。お願い、苛まないで。
どうして耳を塞いでも聞こえるの? ねぇ神楽。やめてよ。やめてくれよ。懺悔なんてしなくていいんだよ。君が苦しむ必要はないんだよ。苦しむのは、俺一人で、よかったんだよ……
とりとめのない思考を、もう動かない女の子に向けていると、柔らかい手が、とん、と肩を叩いた。
振り向くと、静かな面差しの叔父がいた。
「帰ろう、悠斗」
俺は黙って頷いた。




