Scene 13 女神を宿す少女は寄り添う
校庭から吹く薫風は、その初夏のじわりとした暑さを涼ませる。
机に座り、只、茫然とその校庭を少年は眺めていた。
失踪事件、『黄泉』を保有する自身と同質の存在である『彼女』。
そして、昨日の襲撃──
何もかもが未だ不確かで、真実は何処か。
「ねえねえ、京馬。昨日の、見ました?」
思慮に耽る京馬を覗き込み、ショートカットの少女は笑んで問う。
そこに特に悪びれも無く、そんな京馬の心情を無視する様に問い掛ける少女に京馬は嘆息したくなる。
否、それは京馬自身の感覚ではしている。だが、それは決して『表』に出ないのである。
「昨日? ああ、桐人さんが『朧』の襲撃にあったんだろ? 加奈子……そんなもの、支部から全幹部に通達があっただろ」
「違う違う。ノンノン。ほら、ヤハウエ許せど、私が許さん!」
首と手を振って否定した加奈子は、奇妙な手振りをし、教室に響く程の大声で叫ぶ。
「有象無象の悪魔を臣下とし!」
その声に呼応する様に、ガタっと椅子から立ち上がる音と共に、別の箇所からも声が響く。
そのフレーズを聞き、更に京馬は嘆息する。
この謎の痛々しいセリフ。
それは、現状で最も京馬の事を理解し、信頼出来る天真爛漫な少女が大好きなアニメのキャラクターの決め台詞だ。
「「私に歯向かう愚者を鉄槌! 魔道少女、メイガス、ももこー!」」
二人の声は教室中に響き、一帯の生徒がその発信源に視線を向ける。
が、何時もの事だろうと、即座にその視線を逸らす。
「もうすっかり定着しているな」
「そうですとも! 皆に私が勧めましたから!」
綺羅綺羅とした眼を京馬に見せつけ、加奈子の脇に誘い込まれる様に移動した少女は告げる。
「いよ、至高の作品の伝承者、さっちん殿~!」
ぱちぱちと、しゃがみ込みながら拍手する加奈子。
「いやいやーそれほどでも~」
頭の後ろを掻き、照れる咲月はとても満足気である。
だが、京馬は知っている。
その咲月がクラス中に勧めたアニメ『魔道少女メイガスももこ』。
皆が見てみると言っていたが、実際には二割程しか視聴していないらしい。
京馬が定着していると言ったのは、その咲月の立ち位置についての事だった。
向日葵の様な穏和な笑みと、その可愛らしい容姿。だが、その少し残念とした佇まいは、『可愛いけど、少し可笑しな面白い子』という立ち位置をクラス中に構築していった。
(まあ、良い『方向』だよな)
心の中で京馬は微笑する。
「で、京馬君。昨日の放送見たの?」
だが、その咲月のずいとした顔の覗き込みは、その心情を苦笑に塗り変える。
「ああ。見たぞ。ライバルのミーチェとの共闘は熱かったな」
「でしょでしょっ! メルキザイア王国に忠義を尽くすあのミーチェとその王国と敵対するももこが一緒に戦うなんて! 『貴様のやり方は気に食わん。だが、その志は間違いではない』だって! ミーチェのももこを認めるも、永遠のライバル宣言だよこれ! うっひゃー、流石、脚本はわかってらっしゃる!」
熱く語る咲月のトークを、京馬は適当に相槌を打ちながら聞く。
(今は手を繋いでいないから大丈夫だろ)
心の中で深いため息と共に呟く京馬は、咲月を見つつ、思慮する。
桂馬咲月。
中学生の頃にアビスの住民に目を付けられ、化身に呑まれ、エロージョンドに成りかけた少女。
その時は、化身の『試練』の影響もあり、クラスでも孤立していった。
インカネーターになった後も、そのサブカルな趣味で中々に肩身の狭い思いをしたと咲月は言っていた。
だが、近年の『そういった』趣味への社会の抵抗はある程度まで薄まり、咲月という人物への他者のイメージは徐々に明るくなっていった。
(他者が、他者を認める、か)
それは、人格も、能力もバラバラな『人』が統合される社会では必要でありながら、実際は不完全な要素である。
その要素を完璧とするならば、それはあの総統が告げた様に、並み大抵の努力では到底叶えはしない。
否、それは人であればほぼ不可能と言っても過言ではない。
(だが、俺なら……『世界の創造』さえ出来れば……)
京馬は想う。
全ての人が、幸福である世界に。
それは、人々の理想でもあり、同時に自分勝手なある意味では暴虐的な願いである。
だが、それは少年の心奥深く燻る『蒼』の意志を滾らせる。
「ちょっと、聞いてる? 京馬君?」
首を傾け、咲月は不機嫌そうに眉を下げる。
「いや、ごめん。聞いているよ」
「私の前では嘘付けないよ?」
告げ、咲月は京馬の手を掴む。
「……何で、こんな事考えてるの?」
不思議そうに問い掛ける咲月の表情に、、京馬は心奥底で深く納得する。
「さあな。俺の深層心理では、やすらぎが欲しかったんじゃないか?」
必死で考え抜いた咲月に心情を読みとれない方法は、だが京馬自身の『想い』のコントロールが未だ未成熟であると実感する。
「いやいや、牧場で草むしりしたいなあ……なんて普通このタイミングで思わないから! また、誤魔化そうとしたでしょ!」
まあ、確かに。
と、京馬は心の中で苦笑する。
「ごめん、ごめん。今の咲月は楽しそうで、こんな笑顔を全ての人が毎日する様な世界にしたいなあ、なんて思っただけさ」
間違いはない。
その発言は真でもあり、嘘でもある。
「あ……結構真面目な事、考えてたんだ」
それは、およそ確定的な心の声として、咲月に響く。
「別に、私は気にしないのに」
はあ、とため息を漏らし、咲月は呟く。
その少年の想いと共に、自身を捧げる事を決意している少女にとって、少年の想いは自身の想いと同義であり、それは今更侮蔑する様なものではない。
京馬君は、色々と気にし過ぎだよ。
咲月は微笑し、心の中で京馬に伝える。
「随分とご機嫌だな。咲月」
その様子を無関心に眺めていたヴェロニカが不意に声を発する。
「昨日ここの生徒の一人を殺したのに、なんて事無く日常を過ごすたあ、やっぱりお前も『こっち側』の人間なんだな」
その言葉に、咲月は背筋をざわつかせる。
「まあ……それが、私の役割の一つでもあるし」
だが、その感情の波は、一寸の内に静まり、緩やかに漂う。
「だけど、実際この生徒として死んだのは二人。もっと迅速にエロージョンドになる兆候を察知していれば、『人』としての被害者は出る事は無かった。私ら、『監視班』としては悔やまれる事件だったね」
顔を沈めさせる加奈子を、心配そうに咲月は見つめる。
「あの『朧』の襲撃でてんやわんやしてた事を考えれば、まあよくやった方さ。それに比べ、あたいは……」
告げ、ヴェロニカは悔しそうに唇を噛む。
「ヴェロニカの旦那も相手が悪かったんですよ。あの『殲滅部隊』朧ですよ? 桐人さんがその部隊に狙われて生きていた事自体が僥倖ですよ」
「いんや、失態だ。常に『奴ら』が襲撃してもいい様にフランツの兄貴と支部付近をテリトリーとして張っていたのにこの様だ。あの『七十二柱支配の貴公子』の『氣』を察知して駆けつけてみれば、既に事が終わっちまっていた」
珍しく項垂れるヴェロニカ。
それを見て、加奈子は呟く。
「旦那も、凹む事あるんすね」
「あぁっ!?」
「あー、何でもないっす。私は何にも言って無いですー」
牙を突き立てた虎の様な威嚇の眼を、加奈子は冷や汗を掻きながら、口笛を吹いて逸らす。
その光景を、京馬は心の中で苦笑しながら見つめていた。
陽がやや傾きかけた午後の河川敷。
そこに沿う道路を京馬と咲月は歩く。
「今日のヴェロちゃん、やっぱりあんまり元気無かったよね」
「まあ、そうだろうな。敵に出し抜かれ、自分は何も出来ずに全てが終わってしまったんだ。ヴェロニカの性格からして、それほど屈辱的な事は無いだろう」
「でも、加奈っちも言ってたけど、あの『王下直属部隊』には未知の『トバルカインの遺産』があって、今回の襲撃もそれが発動したのが原因とか言ってたじゃん? そんなに気に病む事無いのに」
「あの、俺達、『悪魔の子』の祖先である『トバルカイン一族』が魔法の概念で創った『道具』の事か?」
「そうそう、それ! 京馬君、偉いね! 新しい『インカネーター指南書』の項目、ちゃんと覚えてるんだ」
「ガブリエルが復習してくれるからな」
「私の、『イシュタル』もそうやって教えてくれたら助かるんだけどなー」
京馬の手から伝わる微笑の感情に、咲月も微笑みつつ答える。
だが、その咲月の言葉に、京馬は険の感情を咲月に伝える。
「イシュタルはちゃんとあの『孕み神』を縛り付けているか?」
その問いに咲月は一寸、目を曇らせるも、告げる。
「今は大丈夫。ノイズ交じりではあるけど、イシュタルもガブリエルみたいに少しは話せるし、でも……」
「どうした?」
「いや、あの『フォールダウン・エンジェル計画』以降、私はあの『孕み神』の力を更に引き出せる様になったし、コントロールも出来る様にもなった。だけど、何か不安なんだよ……よく分からないけど、いつか、途轍もない事が起きてしまうんじゃないかって」
手から伝わる咲月の怯える感情を包み込む様に、京馬はその手を握り締める。
「大丈夫だ。絶対にそんな事、起きないようにする」
「……ありがとう。京馬君。少し元気が出た」
手から伝わる不安を掻き消す様に覆う京馬の『決意』に、咲月は微笑して告げる。
「あれー、どこ行ったのかなあ?」
そんな二人の心情を余所に、子供らしい明朗な声が響く。
「どうしたのー?」
眉間に皺を寄せ、河川敷の草むらを掻きわける少女。
咲月はその少女に問い掛け、近付いてゆく。
「あのね? 私の大切なお人形、落としちゃって」
「お人形? 何でこんなとこに落としちゃったの?」
「お人形、鞄に付けて学校帰りに、ここではしゃいでたの。その後、家に帰ったら無くて……」
「そうなんだ。じゃあ、お姉さん達も一緒に探すの手伝うよ!」
言った直後、咲月は路上にいる京馬へと顔を向ける。
(当然だろ?)
京馬の本質を熟知する少女の無言の問い掛けに、京馬は頷く。
「むー。中々、見つからないなあ」
「でも、ここで落とした筈だもん!」
眉間に皺を寄せ、咲月は少女と共に草むらを掻き分ける。
ため息混じりで呟く咲月に、少女は叫ぶ。
「特徴は……確か、赤とピンクの色のお人形だったんだよな?」
少し離れた草むらを探す京馬が言う。
「そうだよ! 絶対、ここらへんにあるっ!」
頷き、少女は自身に叱咤する様に叫ぶ。
だが、三人がしばらく探しても、少女が告げた特徴の一欠片も出てこない。
次第に、少女の顔は曇ってゆき、嘆息して京馬達に顔を向ける。
「見つからない……いいよ、お姉ちゃん達。もう、私諦める」
「……そうだね。基地内でみんな待ってるだろうし」
二人が半ば諦めかけようとしていた。
だが、無表情の少年は、只、ひたすらに未だ草むらを掻き分ける。
「いや、まだだ。もう少し時間をくれ」
一人、黙々と人形を探す京馬を見、少女は首を傾げる。
「どうして、そんなに手伝ってくれるの?」
「困っている人を放っておけない性分なんだ」
手を動かしながら、淡々と京馬は告げる。
「こんな見ず知らずの子供にも?」
「ああ」
「子供じゃなくても?」
「そうだ」
「じゃあ、悪い人だったら?」
その問いに、僅かの間があった。
だが、しばらくして京馬は口を開く。
「それは、時と場合による」
悪。
それは、何を基準にするかによる。
人類にとっての悪か。
一団体にとっての悪か。
京馬にとっての悪か。
故に捻り出したのは、その一言であった。
「そうなんだ。お兄ちゃんは、誰にでもすっごく優しいんだね!」
「優しい、か。いや、俺の自己満足だ」
自分でも清々しい程の即答であった。
そう。
京馬が目指す世界は、所詮は京馬が理想とする世界。
それは、他者から見れば、押しつけがましい傲慢であるかも知れない。
「そんな事無いよ! お兄ちゃんは凄い! 私なんて、自分の事ばっかりで、今日も友達と喧嘩しちゃった」
「喧嘩、か」
京馬は想う。
自身が、天使を宿す前……そんな『普通』であった時、友達と本気の喧嘩をしていなかったと。
「卑怯だったな」
思わず呟いた自身の言葉。
(そうだった。俺は、そうやって周囲に調和しようとして、必死だった。輪の中に取り残されないように、仮初めの平和を満喫していた)
かつて、京馬が自身の本質に基づいた『信念』を放棄していた時、自身として、最大の過ちであり、一方でかつては適当であった判断を京馬は回想する。
(結局は……そんな小さい『人』だった。そんな、俺が世界を変えられるのか?)
「変えられるよ」
静かに握られた手から伝わる想い。
そして、口から放たれる言葉は、京馬の深層に入り込む。
「だって、あの世界の管理者を倒して、世界を救ったんだよ? 昔は昔。今の京馬君には、揺るがない『想い』があるじゃん」
向日葵の様な穏やかで煌びやかな笑顔が、京馬を見る。
「そうだったな。今更、何を想っているんだろうか、俺は」
その咲月の笑顔は、京馬の一寸の迷いを悉く打ち砕く。
「……お兄ちゃんとお姉ちゃんは、恋人?」
その二人の固く握りしめられた手を見つめ、少女が呟く。
「い、いやー、違うんだよ? これは、二人の合図みたいなもんで──」
あたふたと挙動不審になり、説明しようとする咲月。
「だが、特別な関係である事は確かだ。俺にとって、このお姉ちゃんは、無くてはならない存在なんだ」
京馬の無感情の抑揚の無い言葉は、しかし、咲月の頬を紅潮させる。
「え!? あ、や……! ちょ、いきなりそんな、でも京馬君には美樹ちゃんがいるじゃない!?」
真っ赤に火照る顔を伏せながら、激しく動揺する咲月を、だが京馬の手から伝わる『想い』が一瞬で冷やす。
「い、いや……そうですよねー……」
友達以上恋人未満。
京馬が伝えた『それ』は正にその言葉通りの形であった。
「ふふ。お姉ちゃん、面白いー!」
その咲月の想いを知ってか知らずか、少女は屈託なく笑う。
「ん?」
その少女の笑みに苦笑する咲月の踵に何かがコツンと当たる。
「もしかして、これ?」
その『何か』を咲月は気味悪そうに掲げ、少女に見せる。
「うん! そう、それだよ! やったー! お姉ちゃん、ありがとう!」
喜々として少女が咲月の手から奪ったその対象を、京馬は見る。
(何だ……これは)
それを見て、京馬は戦慄する。
シルエットは、とても小さいフランス人形。
しかし、血管の様な赤い刺繍で巻かれた、サーモンピンクの四肢は筋繊維の肉塊とでも言えようか。
更には、継ぎ接ぎされたその人形の顔。
それらは、まるで悪夢に登場する悪鬼の様な醜態さがあった。
「えへへー! 今日は、どんな子に着せかえようかなぁ?」
その醜態な人形を嬉しそうな表情で眺める少女は、一転して京馬達に恐怖を覚えさせる。
「こら、命! こんな時間まで、何していたのっ!?」
「あっ! お母さん!」
駆け出し、叫ぶ女を少女は呼ぶ。
「心配したのよぉ。突然、家を抜け出して来るんだから」
嘆息し、少女の母は少女の頭を撫でる。
その後、その視線は京馬と咲月に。
「ご迷惑をお掛けして、ごめんなさいね。この子、あまり人見知りしないので、どんな人にも話しかけてくるので」
「いえ、それよりも、その人形……」
「ええ、不気味でしょう? でも、この子が大切と思うのなら、それで良いの」
「ええ、まあ……」
「ほら、命! 行くわよ!」
「はーい。お姉ちゃん達、元気でねー」
母に手を握り締められながらも、少女は明朗な声で京馬達に別れを告げた。
「何だったんだろう? あの子……」
手に持つ気味の悪い人形と相反する様な明るい笑顔を振りまく少女を、茫然と咲月は見つめていた。