Scene 7 消えた『彼』。そして、少年の仇敵
シュバルツバルト──通称、『黒の森』と呼ばれるこの森には異界に通じると人々に語り告げられてきた。
だが、それは科学の発展により、迷信だと確定付けられた。
しかし、それはあくまで『世間』の事実であり、それ以外何物でもない。
人は、その存在を認識出来ず、また気にも留める事も出来ない。
何故ならば、それは、『この世界という枠組みとは別の空間』であるからだ。
その森の先、ドイツからフランスへと続くその森の『アビスへの入り口』の近くにそれはある。
その存在は、古くから人を、そして世界を正しく識り、そして牛耳ってきた。
「四凶──文字通り、古来から中国に伝わる『渾沌』、『饕餮』、『窮奇』、『檮杌』の伝説の魔獣『四凶』を宿した反アダム勢力の一つ。現段階で反アダムの最高勢力とされる『アウトサイダー』との接触により、鳴りを潜めていたこの組織が我がアダムに牙を向けていたのは明らかでした」
森の中に不自然と佇む大きな洋館。
陽が照らす、その中の執務室。
その一室を彩る様々な骨董、書物は、どれも年季が入り、そして異質な──否、この世界とは思えない『異常』とも言えるものである。
「だけど、『フォールダウン・エンジェル計画』でこちらが大きな損害を受けた直後の襲撃──更に、その後のこの一年間の間、対応が遅れた事も、それだけが原因ではない筈ね。で、どうだった? マストゥーレ」
陽が後光となり、一人の少女に影を造る。
それは、まるで少女が世界を覆い尽くさんとする存在と示唆する様に。
「はっきりと述べましょう。黒、ですね。度重なる捕縛結界の出現、及びその規模。アメリカ支部の人員配置数と、その入れ替わり。こんな事が出来るのは、あの『アビスの要塞』を保有する彼以外いません」
マストゥーレと呼ばれた従者の格好をした褐色の女性は淡々と報告する。
だが、その表情は不安めいていた。
「そうね。これで確定ね。私のアダムの『裏切り者』の存在が」
その従者の表情を見て、それでも尚、少女は口元を緩ませて告げる。
「シモーヌ総統。では、処罰を致しましょうか?」
その少女──この世界を裏で文字通り『支配』するアダムという組織の頂点、『総統』の役職であるシモーヌに、マストゥーレは告げる。
「いえ、未だ早いわ。あいつには、まだまだ掴まないといけない事がたくさんあるの。それよりも、日本の件はどうなのかしら?」
「はい。手配は済ませ、美龍を送りました。これで、万が一は避けられるでしょう」
「私の自慢の『特務隊』から一人欠員が出るのは心居た堪れないけど、まあ良いでしょう。今後の為に、必要な事でしょうからね」
「では、『四界王のシンボル』の捜索は如何致しましょう?」
「勿論、続行よ。『嵐王の弓』は恐らく『そこ』の近辺にある筈。他の組織や、この世界にちょっかい出す『アビスの住民』には絶対に渡さないようにしないと」
「承知致しました。では、これから私も『彼等』と合流します」
お辞儀をし、マストゥーレはドアノブに手を掛ける。
「待って」
だが、シモーヌは呼び止める。
その声は、先程の威厳とは似ても似つかない、少女の少女たらしめる声色であった。
「あんたは、いなくならないでね」
不安と猜疑の声は、マストゥーレを唖然とした表情にする。
だが、ふふ、と微笑し、マストゥーレは口を開く。
「分かっております。シモーヌ『お嬢様』」
その柔らかな笑みで告げる言葉は、二人の関係が従者と主人という枠を超えた何かである事を示唆する。
「や、京馬君! 随分と遅かったじゃん?」
「ああ。まあ、ちょっとしたアクシデントがあってな」
大理石の広間。
ホテルのエントランスを更に広大としたその空間には、高価なテーブルや椅子が無数に置かれる。
そこに屯するのは、咲月、ヴェロニカ、そして加奈子。
京馬が先程まで学校で共にしていた面子だ。
「うん? あれ、ひょっとして……」
相変わらずの不貞腐れ表情のヴェロニカと、それに寄り添う様にニコニコと笑む加奈子。
だが、咲月はその京馬の後続にいる女を興味深げに見やる。
「やっぱり! 美龍ちゃん! ひっさしぶりっー!」
「ちょ、ちょっと! 咲月! いきなり引っ付かないでよ!」
京馬を脇目に、咲月はその後ろにいる美龍に抱き付く。
「『四年ぶり』だねー! 本部に異動になってから、全くこっち来てくれないんだもん!」
「分かった、分かったから、離しなさいって!」
喜々として、しがみ付く咲月の腕を振りほどき、美龍は嘆息する。
「全く、その無邪気なとこ、あの時と全然変わってないんだから……」
「美龍ちゃんも全然雰囲気変わってないんだね。見た目は……かなり変わったけど」
そう呟き、咲月は美龍の全身を下から見上げる。
「な、何よ! この格好は、『剛毅』にもっと女らしくなれって言われたからって訳じゃあないんだからねっ!」
「ほほぉ……そうなんだ~」
赤面し、叫ぶ美龍を前に、咲月はいやらしい目で呟く。
「前は髪も三つ編みで、中国の衣装を着た、お洒落なんて全く興味無いって感じだったのにね~。香水も付けてるみたいだし」
「う、うるさいっ! 年下の癖にっ! これは、あの格好じゃあこの国だと目立つかと思って……」
「それにしては、ナンパされてた時、満更でもなかったようだが」
「そ、それは……京馬君、誤解よぉ? あんな掃溜めゴミ、路地裏に誘い込んでとっちめようと思っただけで」
『何いらん事いっとんじゃ、この野郎』と言わんばかりの鋭い眼光で美龍は京馬を一寸睨み付けるが、一瞬で表情を緩ませて苦笑いする。
「美龍。まさか、お前が本部から派遣されるとはな。まあ、確かに『飛びっきり厄介な同行者』ではあるか」
一同が介すエントランスルームの奥、扉が開き、整った顔とスタイルの男が顔を出す。
「げ、桐人……ひ、久しぶりね~」
「ふふ。『剛毅』がここにいたら、お前のその格好を散々茶化していただろう。何せ、その圧倒的な力とは対照的な社会的な未熟さから、妹の様にお前を可愛がってた奴だから」
「何よ、皆、剛毅、剛毅って……別に、私はあいつが死んで、悲しくなんてないんだから……」
「剛毅さんは、死んでなんかないよ!」
顔を伏して呟く美龍に、咲月は語気を強めて言う。
「どうして? だって、一年以上も行方が不明なのよ? 自身が『日常』として過ごしていた派遣先で、他の仲間が虐殺され、そこには、剛毅の血痕も採取されていた……きっと、アウトサイダーの『王下直属部隊』の誰かに殺されたのよ」
「未だ、決定的な証拠はないじゃん! 諦めたら駄目だよ。頭の切れるあの剛毅さんだよ? 何かの事情で、身を隠しているかも知れない!」
「そう。でもね、インカネーターのこの世界の兵器なんて可愛いぐらいの破壊力で鬩ぎ合う戦闘は、有機物の陳腐な人の体じゃあ肉片も残らないなんてザラよ?」
悲しそうに告げる美龍を見て、だが桐人は冷静に顎に手をやり、口を開く。
「だが、確かにあの次期日本支部長候補だった剛毅の事だ。あいつが、何の証拠も残さずに敵の手に落ちるとは考え難い」
「でしょ!? ほら、桐人さんもそう言っているんだから、未だ希望を持つべきだよっ!」
桐人の言葉に安堵のため息を吐き、咲月は告げる。
「……そうね。ありがとう、咲月」
諦めた様な微笑をし、美龍は告げた。
「ところで、京馬君」
エントランスルームから会議室へ向かう乳白色の清廉な廊下。
その大きく開けた長い道を一同は進んでいた。
「何でしょうか、フランツさん」
京馬の隣を歩く、迷彩の軍服を着る屈強な肉体のフランツが、京馬へと視線を向ける。
「先程の会話で出た、『剛毅』という男はどんな人間だったんだい? いや、私も『フォールダウン・エンジェル計画』で一度顔は見た事はあるのだが、全く話してはいなかったのでね」
そのフランツの言葉に、京馬は無言無表情でしばらく黙りこくり、そして口を開く。
「剛毅さんは、俺の恩師の一人で、凄く情に厚い人でした。俺は慕っていましたし、恐らく、皆も慕っていたでしょう」
「そんな、素晴らしい人間性を持った人なのかね?」
「ええ。その上、頭も良くて……俺も最近聞いたんですけど、見た目とは裏腹の繊細な性格だったみたいで、この日本支部基地へのアクセスマップの制作も担当していたみたいです」
「そうなのか……流石、あの『四界王のシンボル』の一つ、『炎帝の双剣』の保持を任されただけある。だが、そんな人がアウトサイダーの敵の手にかけられたと考えられると、やはりあの組織は一筋縄にはいかないという事か」
「そうですね。当初アダムでは、人員も少ない取るに足らない新興組織として見られていたらしいですが……今は内にいる『四大天使』、『概念操作の無法者』ウリエルと正体不明の軍事介入組織『ゾロアスターの悪星』の首領『キザイア・メイスン』を始め、多くの手練を早々に収集したあの組織は、今やアダムが長く渡って対峙してきた天使達以上に恐ろしい組織に成長しました」
「だが、ウリエルは味方になり、その『ゾロアスターの悪星』も、あの『神雷を超越する女帝』によって首領が殺され、壊滅した筈だ。今は、新たにあのアウトサイダーが他組織と統合され、結成された『王下直属部隊』の方が厄介と見るべきだが」
「違います」
顎に手を当て、思慮するフランツの呟きに、だが、京馬は間を置かずに否定をする。
「うん? そうか。それ以上に今は、あのこの世界への『帰還者』である静子と言う『現人神』の方が厄介だと?」
「いいえ。アウトサイダーも、静子さんも、結局はこの世界を手にしようと行動しています。ですが、この世界を付け狙う輩の中には、この世界の『破滅』そのものを望むものもいる」
「それが……君が以前から言っている、『這い寄る混沌』なのか?」
フランツの問いに、京馬は只、視線を変えずに頷く。
「はい。そいつは、どこの、誰なのか分からない。もしかしたら、フランツさんや俺の周りに既に『いる』かも知れない。只々、そいつは、自身の愉悦である『破滅』を望んでいる」
(そう。私の、宿敵であり、この世界の仇敵でもある)
京馬の内の天使は、何時もの穏和な声とは異なる、低く、刃先の様に鋭い声で呟く。
「俺の、真に倒すべき『悪』です」
じりじりと燻った京馬の『決意』は、その中で渦巻き、そして荒々しく舞い上がっていた。