表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

山辺のかふか

 車窓を流れる景色に、向けた視線が溶け込むようだった。はるか高架の下は山に遮られるまでの一面全てが棚田で埋め尽くされている。ぽつりぽつりと民家。見えたと思った人影は例外なく案山子だった。揺れる電車に空を舞う鳶の声は届かない。

「なにたそがれてんだよ。今更帰りたいなんて言うんじゃないよな? もう着くし、ここまで三時間の旅路だぜ、勘弁してくれよ」

「言わないよ。折角だから僕だって楽しむつもりだしな。ただなんか、田舎だなぁって」

「あたり前だ、田舎なんだから」

 正面に顔を戻して、向かいに座る男と言葉を交わす。西野 敬、彼とは中学からの友人で、家もそれなりに近いともあって親ぐるみで付き合いのある奴だ。人好きのする性格で、男女ともから人気が高い。僕は今、日頃から僕を親友と公言して憚らないこの西野の頼みで此処にいる。

 去年、高校二年の秋ごろから、西野には一つ後輩の彼女がいた。北原 仁美さんなる彼女と西野の北西カップルは「一度二人で旅行してみたい」との願望を抱いたそうだが、高校生の男女が二人きりで外泊するのを難一つなく認めるような家族を、彼らは持っていなかった。そこで西野発案の策略をめぐらせた結果がこうである。

 僕には北原さんと同年齢の幼馴染が居て、西野よりさらに近所に住んでいることもあって交流が多い。昔から仲の良い兄妹のような、最近では専ら親しい先輩後輩の間柄で、移動教室の際なんかにすれ違うと挨拶以外にも会話することが良くある程だ。そのことを西野は知っていて、何より問題なのは、僕と彼女の両親は、高校生の男女が二人で外泊するのに何ら難を唱えないのである。これまた都合のいい事に彼女と北原さんは親友の仲で、よってここに「西野は僕と小旅行」「僕は幼馴染と小旅行」なる、一見成り立ちそうにない図式が完成してしまい、重ねて三家と家族ぐるみ程の付き合いは無い北原家が「二人きりでなければ」とあっさり溜飲を下げたことで、四人一組のカモフラージュが成功した次第だ。

 秋の中腹、普通の週末にふってわいた急な旅行の話。計略からしてどうかしていると思いもしたが、良心の幼馴染までが「なんか青春っぽいし、親友の恋路のためですから」と案外のり気なため、元々意思の弱い、話がここまで進んでも流されるがままだった僕が今更非を打つことは無かった。

 特に思うことも無く、首を隣の席に回してみた。何時の間にか向けられていた瞳と視線が交差する。色の深い瞳の少女は、薄く微笑んでくっと小首を傾げた。このあたりの所作が非常に流麗な奴だ。

「なんだよ、窓際がいいのか? 田んぼしかないぞ」

「違います、そんな子どもじゃないですよ。なんだか、不思議な面持ちだったので」

「不思議な面持ちって、変な顔って言われてるみたいだな」

「悟史くんの顔が変なのを指摘するような人を私は許しません。でも、そういう意味じゃないです。折角の旅行なのにあまり楽しそうじゃないなって」

「え、お前、僕の顔面が変って所は訂正しないの? どころか『どうにもならない事実を突きつけるなんて可哀想』みたいな擁護までされたよな僕。……ま、それは良いとして、楽しくないなんてことは無いよ。ちょっと呆けてただけだ」

「それならいいんですけど」

 釈然としない表情で会話を打ち切る。特に嘘を吐いたなんてことはないのだが、妙な罪悪感にとらわれた。呆けていただけ。そう、どうにもならないことにつらつらと想いを馳せて、阿呆みたいに。外した視線をもう一度、窓の外に逃がす。いつからか、電車は長いトンネルに入っていた。


 *


 ゆっくりと徐行して、電車が停まった。一泊二日の多くない荷物が詰まったショルダーバックを担ぎあげる。西野は北原さんの分と、二人分の荷物を抱えていた。

「西野先輩は男気がありますね、悟史くん。流石です」

「お嬢さん、鞄をお持ち致しましょう」

「結構です。失くされてはたまらないですから。気に入ってるんですよ、これ」

「人をよく物を失くすみたいに言うけど、それは誤解だ。僕はちょっと探し物が苦手なだけだよ」

「失くすから探さないといけなくなるのです」

 空気が抜けるような音と共にドアが両側に開いた。談笑しながら改札へ歩く北西カップルを、後から二人、わずかに前後の間隔が空いたまま追いかける。三歩前を行く幼馴染の見慣れた長髪が揺れている。一時期、中学生の頃に茶味がかっていた髪。確か、三か月ほどで別れた彼氏の勧めだと言っていた。今はすっかり、幼少からの黒髪に戻っている。僕と彼女が一番疎遠だった時期。気心の知れた仲でも、恋人が出来れば離れていくのが男女の性である。

 自動改札前、はたと気づいて立ち止まる。切符を取ろうとポケットを探った手は何も掴んでいない。

「え、あっれ、おかしいな……?」

 無いと分かったのに、両手を何度もポケットに潜らせた。こう言う時何処をどう探せばいいのか分からなくなるのも、探し下手を自称する由縁だ。

「どうしたよ、悟史」

「いや、切符が……」

「失くしたら事だからって呟きながら、バッグの外ポケットに入れてましたよね? そこの、ファスナーのところです」

「……あ」

 大体においてこの幼馴染の言うことは正しい。今度もその通り、指されたポケットからは探し物の紙片が顔を出した。白い目を向けてくる西野や苦笑いの北原さんから表情を隠して切符を改札に通す。一番目を合わせたくない奴は自分から声をかけてきた。

「失くさないために失くすって、むしろ器用ですよね」

「違う、探し物が下手なんだ」

「しまった場所を覚えておけば、探すこともなかったですね」

「忘れ物は得意なんだ」

「そう言えば、小学校の事に筆箱を忘れたって、良く借りに来ましたね。下級生の教室まで。クラスどころか同学年にも友だちいないのかってちょっと心配でした」

「その話はやめろ、腹を抱えてる西野を思わず蹴ってしまいそうだ」

 けして友達がいなかったわけでなく、そうするのが一番「ダサくない」と判断したからだ。随分な見栄っ張りだった僕は同年齢のクラスメイトに恥を晒すことを恐れていた。だからわざわざ、階の違う下級生の教室まで周囲の目をくぐって足を運んでいた。特に、彼女の文房具は女子中で流行った柄のあるそれでなく至ってシンプルなものだったので、借り物としては最適だったのだ。困った時は幼馴染と、そういう傾向も少なからずあったのだが。

「下級生の間では、年下の女子によく物を借りに来る上級生として見られてましたけどね」

「迂闊だった!」

 いや、少し考えれば分かることだけども。そのあたりの不徹底さはその頃の僕の低脳さ加減を如実に表していると言えた。

 駅周辺の商店街を抜けると長い畦道に出た。田畑を横切り坂を登って行く。まずは徒歩で、西野の親戚が営んでいると言う民宿へと向かう。都心からは離れているが、ここは登りやすくて景色が良いと評判の山だそうで、突発的な小旅行には、宿泊先の条件からも最適である。受験生たる僕には適すも何も最悪の所業に違いないのだが、自分が余裕のある西野に押し切られる形でこうなった。僕が受験に失敗した暁にはこいつのせいにしてくれよう。……損害を被るのはどう考えても僕だけだった。

「もうすぐ着くぜ。部屋割は便宜上男女で別々に二部屋って言ってあるけど、そこはそれ、気を利かせろよ親友」

「エロいな親友。ま、異論は無いけど、盛りついて間違うなよ」

「言ってくれるじゃねぇの。お前の方も、幼馴染とは言え男と女なんだからな。悟史ってばむっつりだから心配だ」

「がっつり煩悩の西野が言うと冗談にしか聞こえないね。安心しろよ、僕とあいつが今更どうこうなるなんて無いから」

「ふぅん。じゃあ、悟史は友の成功を祈っておいてくれ」

「誰に祈れば良いかな。恵比寿様で良い?」

「うちは別に商売人の家系じゃねぇな」

「毘沙門天?」

「何と戦うんだ俺。てか、七福神から離れてくれ。……と、見えてきた」

 西野の指す方を見遣る。木造の、でも古めかしくない、しっかりした風の一戸建てが立ち並んでいる。観光客を多く抱える民宿街。その内の一つに、僕らの宿、「民宿 かふか」はあった。


 *


 何の変哲もない休日であるため、他に宿泊客はいないらしかった。秋は賑わうシーズンだそうだが、その要因、紅葉の季節には少し早い。「かふか」に辿り着いた僕たちは、ひとまず荷物を置いて一方の部屋に集まった。

「夜は俺と仁美であっちの部屋使うからな」

「先ず確認するのがそれかよ」

「当然だ」

 呆れた即答ぶりである。北原さんもわずかに上気した顔で苦笑していた。純然に、カップルだなと思う。

「それじゃあ、夕飯まで自由行動な。俺と仁美は早速山登りしてくるから」

「分かったよ。遭難するなよ」

「するか」

 さて、取り残されるは僕と幼馴染である。折角だから楽しむとは言ったものの、何分急な話だったため、ガイドブックの一つも読んでいないのだ。そもそも我が家は帰省以外の家族旅行なんてほとんど稀なことで、旅慣れない僕にはどうにも勝手が掴めなかった。

「悟史くん、これからどうしましょうか」

 勝手がつかめないのは僕だけじゃ無いらしかった。部屋で燻ぶっているのも馬鹿らしいので、どちらからともなく一階のロビーに出てみる。隅の本棚に数種のガイドブックを発見できた。僥倖だ。

「やぁ、敬の御友人方ですね? 『かふか』へようこそおいで下さいました、敬の大伯父で松平と申します」

 声の方に振り向くと、到着の際に西野が部屋のかぎを受け取っていた老紳士の姿があって、僕は慌てて身体ごと向き合って会釈した。名を名乗り、促されるままに握手を交わす。背筋の伸びた、とても老齢とは見えない出で立ちの松平さんは、僕と幼馴染、それから僕が手に持つガイドブックに視線を動かして、そっと片手でロビーのソファを指し示した。幼馴染の彼女と顔を見合わせて、それから半ば雰囲気に圧されるようにソファに腰を落とす。

「東京の方でしたね、長旅だった事でしょう」

「ええ、まぁ。……綺麗な名前ですね、『かふか』って」

「ありがとうございます。死んだ細君の命名でしてね。村上春樹を好んでいたのですが、さしずめ『山辺のカフカ』と言ったところです」

「へぇ……。ここは、じゃあ、お一人で?」

「いいえ。娘夫婦が手伝ってくれているのです。老いぼれのやることと言えば……、そうでした、悟史君、ガイドブックを眺めていたので、声をかけさせていただいのですよ」

 じじいの与太話に付き合ってもらえますかな、と松平さん。勿論ですと首肯した。

「敬が早速出かけたようですが、この山は本当に登りやすくて良いのです。しかし、メインの道がそうであるが故に、地元民しか知らないようなスポットが幾らかありましてね。一つご紹介しましょうか」

「助かります。……良いですよね、悟史くん」

 先に応えたのは彼女の方だった。断る理由は見当たらず、探すあても無い。

「では。勿忘丘と言うところです。春先にはその名の通り、勿忘草がたくさん咲く丘でしてね。今はその季節じゃありませんが、見どころは花だけでないのです。一度見れば忘れない壮観……それに、面白い逸話もあるのですよ」

「逸話、ですか」

「えぇ。勿忘丘の地蔵様に拝むと、忘れてしまったモノを思い出すと言われています。丘の名称の由来は、花よりむしろこちらだとも伝わっていますね」

「素敵ですね。それに悟史くんにぴったりです。是非行きましょう」

「どういう意味だよ」

 憮然として言い返す僕に松平さんは笑って、メモ帳に書いた地図のページを渡してくれた。


 *


 地図を持って先導する幼馴染に付いて、整備された道路を逸れた凸凹道を行く。こうして二人で歩くのは何時振りの話だろうか。薄暗い林の中で想い返す。

「中学生の時です。自転車を避けて足を挫いた私の隣に、頼んでも無いのに寄って来たんですよね」

「あぁ、そんなこともあったっけ」

 肩を貸すと言ったら頑なに拒んで、足を引きずる彼女に仕方なく片手を差し出した。変に頑固なところのある奴なのだ。僕は僕で、差し出した手からも目を逸らす彼女の少し汚れた手を、強引に取った記憶があるのだが。クラスメイトに告白されたのだと聞いたのが、確かその日だった。

「翌日から私は、晴れて彼氏持ちだったわけですね」

「三か月であっさり終わったみたいだけどね」

「彼女いない歴イコール年齢のひがみにしか聞こえませんね」

「くっ……。いや、でもお前のことだ、どうせまだキスもしたことないんだろ」

 ぐっ、と、初めて彼女は喉に何か詰まったような表情で唸った。恨みがましい視線が何事か訴えてくるが、何事とも知れぬのでなんら臆することは無い。してやったりだ。

「あ、そうだ、悟史くんはよく物を失くしますが、それって単純に不注意ってわけじゃなくて、脳そのものに原因があるそうですよ」

「つまり僕を病気だと言いたいのか」

「いえ、ですから、脳が足らないと」

「馬鹿って言わなかったか今」

「言ってません。馬鹿ですね」

「言いやがった! くそ、誰だよそんな身も蓋も無い理論を展開したのは」

「私です、勿論」

「だと思ったけどな!」

「とかなんとか、私が仕返ししている間に目的地みたいですよ」

「あ、仕返しだったのね……」

 頑なと言うより、どんな意味でも貸し借りを作っておきたくないのかも知れなかった。というか、僕が一方的に傷つけられたばっかりな気がする。

 かくして、ともかくとして、僕たちはどうやら、目的地へたどり着いていたようだった。勿忘丘、視界の先に、そうであろう丘が見える。木々のひしめく林を抜けて、ぽっかりと空いた広場のような場所。件の地蔵様は、地元の人が手入れしているのか、小綺麗な出で立ちで丘の頂に居た。歩を進めるごとに眼前の景色は輪郭をはっきりさせて、地蔵様の正面に立つ頃には、僕は言葉を忘れて立ち尽くした。

 壮観と言ってもまだ足りない。いつの間に陽は傾いていて、夕陽の差し込む先には小高い丘から見下ろすオレンジの街並みがあった。車窓から見た、遥か向こうの段々になった棚田。郷愁を残す古くからの民家。どことなく空々しく感じていた案山子の立ち姿も、今度は聞こえてくる鳥たちの声も、何もかも全てが、この高さから見ることの素晴らしさを助長するかのようだった。勿忘丘、成る程この情景は、一生ものの「勿忘い」記憶に相応しい。

 どれほど魅入っていただろうか。ふと目があった幼馴染は、少し照れくさそうに笑うと、指でちょいと、足元らへんを示した。

「拝んでおきましょうか、悟史くん」

「……感動にひどく水を差された気分だ」

「確信犯ですよ。さぁさ、真剣に拝んでくださいね」

 ふわり微笑みと共に流された。残念極まりない気持ちで、見てくれだけ丁寧に両手を合わせる。幼馴染は満足したようだが、地蔵様は僕の適当な気持ちを見抜いたのか、特別何も思い出させてはくれなかった。

「何か思い出しましたか?」

「全然。お前は拝まないのか?」

「悟史くんと違ってそうそう忘れモノなんてしないですからね」

「あぁそう」

言ってくれる。反論の余地は無いので黙って、再び眼前の景色に目を向けた。

「……そろそろ戻りましょうか」

「そうだな」

 頷いて、記憶に焼きついた眺めに背を向ける。沈む夕日は早半分近くも顔を隠している。頃合だろう。

 道すがら、未練を感じて丘の方に首を回すと、ちらと小さな人影が見えた。回した首を続けて傾げる。僕たち以外に、あそこに人はいただろうか。ふと人影が笑ったような気がして、はっとした僕は咄嗟に顔を正面に直した。

「どうしたんです?」

「なんでもないよ」

 否定しつつももう一度丘を見遣る。人影は消え、夕陽を湛えた地蔵様だけが其処に居る。

 何故だろう、ろくに顔も見えなかった人影を、僕は知っているような気がした。とても懐かしくて、でも、その懐かしさの正体は、忘れてしまったのか、分からなかった。


 *


 僕と幼馴染が「かふか」に戻って半時間ほどで、北西カップルは帰って来た。陽はほとんど沈み終えたとは言え、夕飯の予定時刻まではまだしばらくある。西野の提案で、とりあえず風呂に行こうと言う話になった。「かふか」の浴場は、松平さんこだわりの大浴場だ。民宿を経営する際、部屋の数を二、三削ってでも広い風呂を作りたいと主張したらしい。彼の主張が通ったのか、確かにそこは、僕らが泊まる部屋を三倍したくらいの広さだった。

「温泉宿を謳えそうだな。これで混浴もあれば最高だったのに」

「ちょっとは自重しろよ……」

 いよいよもってエロい友人だった。気持ちは分からんでもないのだが、もう少し誠実で良いと思う。

「何言ってんだ、俺は誠実だよ。ちゃんと順を追ってここまで来たんだから。登山中だって手を繋ぐくらいしか無かったぜ」

「あたり前だ」

「純情くんだねぇ親友。てか、お前らの方はどうなってんだよ。進展は?」

「進展って……。昼にも言ったけど、僕らが今更どうこうなんてなるわけないだろ」

「なんだよ、つまんねぇの。でもさ、悟史、気づいてないのかも知れねぇが、今更って言うのは、つまり」

「分かってるよそんなの。もう何年も前に」

 今更と言うのはつまり、少なくとも、その言葉をつかった僕の方には「その気」があったという白状になる。でも、そう、今更なのだ。忘れられるほど、過去の話。

「ま、今日の件で協力してもらってるから、鬱陶しくは言わないけどな。それよりほんと言うと、俺今けっこう緊張気味なんだ。そっちどうにかしてくれ」

「僕から言えることは只一つだ、西野。まかり間違っても……じゃないな、まかり間違うなよ」

「肝に銘じておくよ」

 馬鹿げた檄を飛ばしてやって、馬鹿みたいに笑ってから、浴場を後にした。


 *


 その夜、今さらがどうのとか、そんな話をした所為なのか、それとも昼間の、幼馴染との会話が理由なのか、ひどく懐かしい夢を見ていた。ずっと思い返すことの無かった記憶。多分、忘れたがっていた記憶。忘れ物は得意だったから。

 三年前の、季節は今頃。帰り道に幼馴染の姿を見つけた。あの日、その後のこと。


 *


 足を挫いた彼女の手を半ば無理矢理に引っ張って、彼女の家まで歩いて行く。彼我の住屋は斜向かい、極めて近所であるため、元来の自分の帰路をたどるだけのことだ。慇懃無礼の四字を体現するこの少女は、握った手を振り回しながら「離してください痴漢ですかっ」とか「女の子の手を強引に掴むなんて下劣な人間のやることです」とかさんざ失敬なことをのたまってくれるが、元より筋力で勝る僕に、それもふんばりの利かない足で敵うはずもなく、一言一言律儀に答えてやるのも面倒なので無視を決め込むことにしている。

「……、きゃああっ、誰か助けてください変な人がむぐっ!?」

「やめろっ、それは洒落にならない!」

 慌てて口をふさいでやる。善意の人助けで社会的に抹殺されるところだった。油断のならない奴だ。暫く立ち止まってにらみ合っていると、観念したのかようやく彼女は騒ぎ立てる姿勢を解いた。口を尖らせて、憮然として文句を垂れてくる。

「なんなんですかっ、悟史くん。こんなの全然大したことないですっていうか馴れ馴れしく手なんて握らないでくださいよ図々しいっっったぁ!?」

 足先で捻った辺りをつついてやった。ほらみろ、大したことあるじゃないか。

「うぅ……悟史くんって鬼畜だったんですね。いたいけな少女を痛めつけるのが趣味だなんて、私はがっかりです」

「さっきから言いたい放題だなお前」

 図々しいのはむしろ彼女の方ではないだろうか。まぁ、昔からの事である。

 見送りが済むのにそう時間はかからなかった。何しろ徒歩ニ十分弱の距離にある中学から、既に半分近く歩き終えたあたりからの道筋だったのだ。玄関口まで行って、無駄な抵抗の所為でお互い汗ばんだ手を解放する。そのまま踵を返そうとして、離したばかりの右手……の、人差し指を引っ張られて立ち止まった。

「いってぇ!?」

「あ、と、ごめんなさい、ちょっと仕返しでした。……じゃなくて、悟史くん、暇でしたら、少し寄って行きませんか?」

「別に良いけど、珍しいな。何かあったの」

「違いますよ。なんだかんだで見送りのお礼……と言うのは建前で、相談があるんです」

「しっかり何かあったんじゃないか。……相談、ねぇ。わかった、お邪魔するよ」

「はい。私の部屋で待っててください、お茶淹れていきますから」

 さっさとリビングに行ってしまった彼女の声に従って、幼い頃は幾度となく訪れた二階の一室へ向かう。何時か来た時からほとんど変わらない簡素な部屋。小さかった勉強机やベッドが数段大きくなったのと、本棚に収まりきらない量の本が隅に重なっているのを除けば、もともと余計な物を置きたがらない彼女の部屋の雰囲気は何処も変わっていないように見えた。ベッドの上には幼稚園の頃、誕生日に贈ったゆるい顔立ちの熊のぬいぐるみが鎮座している。これも、昔から変わらない定位置だった。まだいたのか、コイツ。

「寝る時は少し邪魔なんですよね」

 開け放しておいたドアの向こうからひょこひょこと、グラスを二つ載せたお盆を持つ幼馴染が現れた。僕の目線を察し、話を振ってくる。足には白い湿布が見えた。

「どかせば良いじゃん。クローゼットにでも閉まっとけよ」

「その必要はありません、寝てしまえば、次の朝には床に居ますから」

「落とされてんじゃん」

 哀れ熊。麦茶を手渡されて、一気に飲み干す。横に座った彼女は、ちびちびとグラスに口をつけて中々喋り出さない。いい加減、僕としても彼女のこう言った性格については分かっているので、黙って、話の始まるのを待った。

「あのですね、何と言うか、私」

「歯切れ悪いな」

「……告白されてしまったみたいなのです。罪でなく、愛の、です」

「へぇ」

 淡白な反応になってしまったが、違う。他に返し方を知らなかっただけだ。愛の告白って言うと、じゃあ、いわゆる一つの、惚れた腫れたの話と言うことなのだろうか。

「他に何があるんですか。それで、困ったって言うとあれなんですけど、戸惑っちゃって、お返事を待たせてしまっているのです」

「……そっか。で、その話題で僕に何を相談する気なんだお前」

 正直言って何の助言も出来やしない。というか、こいつは何故それをよりにもよって僕に話すか。解せないし、やっぱり、よりにもよって、だ。

「役に立たない先輩ですね。でも大丈夫です、助言なんて、そんなのを求めてるわけじゃないですから。彼が良い人か、とかは自分で充分判断出来てますし、『付き合った方が良い』とかそう言うのも、友人にもう言われ尽くしてます」

「ふぅん。それなら尚更、僕の役割無くないか?」

「本気でいってるんですか?」

 ぐっと、急に声を低くして、詰め寄るように彼女は言った。床に座ったまま、身を乗り出す彼女の吐息が鼻にかかる。空のグラスが倒れ、結露して出来た水滴が指先に触れた。

「ねぇ、悟史くん、それ、本気で言ってるんですか?」

「本気って何だよ。少なくとも、冗談じゃあないね」

 冗談じゃない、全く。何故僕は怒られているんだ? 理不尽だ。冗談じゃない。本当に、冗談じゃない。

「……本当に、それだけ?」

「そうだよ。他に何か、あるか?」

「……無いです。相談終わり。……帰って」

 そっと身を退いて、憤りを堪えるように眉を寄せた表情で、彼女は言い捨てた。じっと僕を見つめてはいるが、細められた瞳から拾える情報は探せない。傍らの鞄を手繰り寄せて、膝を立てる。

「お前は僕を兄のように慕ってくれたけど、僕にとってお前は妹じゃ無かったんだ」

「え……?」

 呆けたように固まる彼女に顔を寄せる。不意打ち気味に一瞬触れて、答えにならない答えを出す。部屋を出て、後ろ手に扉を閉めて、長く一度、息を吐いた。ドアに背中を預けたまま、自分の行動を省みる。短い人生中、最も愚かな数秒を過ごしたことを確信できた。馬鹿馬鹿しくて、そしてその馬鹿が僕だった。

 カタ、と、ドアが揺れるのが背中越しに伝わる。ドアノブが微かに震えて、この向こうで彼女が葛藤している様を容易に想像出来た。何をやってるんだ、僕は。

「なんで、そうなの? 悟史くんは……っ!」

 呻くような声。嗚咽が混じっている風にも聞こえる。泣かせたのは僕だ。どう考えても、僕が馬鹿だった。

 ゆっくりとドアを離れる。恐いものに追われるみたいに、急きたてられるように小走りで、斜向かいの自宅へ帰った。逃げ帰った僕は勝手に後悔して、ぐちゃぐちゃになって、次の日から、彼女と目を合わせなくなった。少しして彼女は髪を染めて、元の黒髪が戻ってくるまでの間に、僕は色んなことを忘れて、色んなものを失くした。戻って来た彼女と失くした僕は、以前と同じに、仲の良い幼馴染だった。


 *


 寝覚めは最悪だった。嫌な汗が背中を濡らす。手探りで枕元のケータイを取る。午前五時前。カーテンの隙間からは紫の空が覗いている。ふと違和感を覚えて、眠気を訴える上体を起こした。ざっと部屋を見回して、固まる。二畳分間の空いた先の布団には、誰も眠っていなかった。一瞬で目が醒めた。

 ケータイに電話を入れる。部屋の隅でバイブレータが聞こえてすぐさま断念した。悪夢から覚めればこれが現実、正直、やってられない。己の馬鹿でたくさん忘れて、まだ失くすのか。

 閉ざされたドアに目を向ける。彼女の声を振り切った僕が、その彼女を探すために、このドアを開ける。ちょっと眠れなくて、散歩に出ただけかもしれない。朝にはひょっこり戻ってきている、その可能性の方が高い。でも。

 思い出した記憶で、彼女は泣いていた。僕が忘れたのを知ってか知らずは、彼女は僕を責めなかった。僕は謝らなければならない。回り切らない頭でそれだけ想う。行き先も知れぬまま、非常用の懐中電灯を手に僕は部屋を飛び出した。


 *


 「おや、悟史君。まだ陽も昇らぬ時間ですが、近頃の若人は皆こうも早起きなのでしょうか」

「松平さん」

 ロビーに下りると、初対面の時の英国紳士のイメージに合わない浴衣姿の松平さんがソファに座って文庫本を開いていた。イメージに合わないと言うだけで、実際見てみるとこれが妙に嵌っている。

「松平さんこそ早いですね」

「えぇ、この時間帯の空気が好きでしてね。君は?」

「目が醒めてしまって。……散歩にでも出ようかと」

「先ほど君の連れの方のお嬢さんもきましたが、同じことを仰っていましたよ。まだ暗いですから、お気をつけて」

 頷いて、松平さんの傍らを抜け外へ向かう。一歩外に踏み出すと、早朝の冷気が足元に渦巻いた。松平さんの声が届く。

「悟史君、地蔵様の話にはもう一つ、側面がありましてね。簡単な話ですが、忘れられないことを忘れさせてくれる、とも言うのです。君は何か想い出したようですが、例えば彼女ならば、どちらを望むのでしょうね」

 振り返る。はっとする僕に、松平さんは柔和な笑みを向けるばかりだ。忘れていた記憶、忘れられない記憶。彼女が抱えているとすれば、どちらだろうか。何か、抱えるものがあるのだろうか。

「老いぼれの戯言ですがね、後に悔いることになろうとも、今後悔しないよう生きるのが若者の務めだと思いますよ。それが何であってもです。君はまだ充分に少年だ。行ってらっしゃい」

「……はい」

 もう一度頷いて、暗がりの中に歩み入った。

 暫く歩いてから、当ても無く彷徨っている事を思い出す。起床からこっち、見事な阿呆っぷりである。そもそも松平さんによれば彼女自身が散歩だと言ったそうだし、「かふか」で帰りを待つ方が確実なのだ。その上、行き先の目処は勿忘丘しかない。あそこにいなければアウトである。先の会話を思い返す。忘れたい記憶、忘れられない記憶。そんなのが、彼女にもあるのならば。

「違うよ、お兄ちゃん。お兄ちゃんはすごく馬鹿だね。相手がどうしたいのかを知れば、それで解決だと思ってるんだ? 折角思い出したモノは、どうするのかな?」

 突然の幼い声にぎょっとして立ち止まる。自然、丘の方に向かっていた僕の正面から現われたのは、昼間見た、小さな女の子。こんな時間に、とか、言うべきことはあるだろうに、僕の口は見当違いの言葉を紡ぐ。

「君は誰? なんで僕をお兄ちゃんって呼ぶんだ? それに、どこかで会った覚えがあるんだよ」

「わぁ、ひどい。想いだしたモノははっきりしてるのに、私のことはわからないんだ? そんなだから、変に行き違っちゃうんだよ」

「何言ってるんだよ。ごめん、思い出せないんだ、僕はよく忘れ物をしてしまって」

「知ってるよ。でも、そうじゃないんでしょう? 忘れてしまったんじゃないよ、どっちかって言うと、私が忘れられちゃってるの。お兄ちゃんが勝手に忘れているだけ」

「え……と……」

 分からない。想いだしたのは馬鹿な僕の間違いで、そんなの、急に現れた女の子には何ら関係するとは思えない。まだ何か忘れている。忘れているのは。

「……名前?」

 僕の呟きに女の子が微笑むのが分かった。忘れているのは名前。誰のか、なんて、聞くまでも無く。

「君は……」

「正解。でも、それだけじゃないよね? お兄ちゃんのやることは、謝ることなんかじゃ無かったんだよ」

「名前と、記憶……気持ち、想い、か。お兄ちゃんって、そういやそんな時期もあったっけ」

 忘れていたんじゃないのだ。ただ、想い返さなかっただけ。彼女の名前なんて、片時も忘れたことは無い。もうひとつ、忘れて、失くしていたモノ。それをちゃんと確かめるために行かねばならない。

「あいつの場所、知ってる?」

「勿論。……この先だよ」

 ありがとう。礼を言って、丘への道をまた進んだ。振り返ると、女の子の姿はもう無かった。


 *


 よく物を失くした。置き場が分からなくなったのだ。見失っていたのは恋心だった。

 色濃い空は刻一刻と薄まっていく。地蔵様の前に立つ彼女と、その数歩後ろに僕。もう間もなく日の出だ。僕が着いて十分あまり、彼女は何も言わずに地蔵様を見つめている。僕に気づいてないのでなく、きっと、言葉を待っている。

「想い出した……、いや、見つけ出したよ、でかい忘れモノを。長い間、投げっぱなしでゴメン。……理子」

 彼女……理子の肩が震えた。この名を口にするのは何時振りだろう。無意識に、おそらく意図的に避けてきた二文字。

「名前、本当に忘れてるんじゃないかって、ちょっと思ってました」

 振り返らないまま、理子は言った。静寂の中でしか聞き取れないような微かな声。足元の地蔵様に、彼女は何を願っていたのか。

「勿忘丘って聞いて、あの日のこと、悟史くんと話すきっかけにしようと思いました。でも、悟史くんってば何にもって言うんですもの。三年も苦しかったのに、もう無理って、もしかしたら逆の力もあるのかも知れないって、お願いに来たんです。本当にあるみたいですね、そんな話も。都合良いよなぁ」

 そんな上手くいくわけないですのに。文句みたいに呟いて、静かに揺れた瞳が、僕に向けられる。

「ねぇ、今でも想うんです。思い出すんです。覚えてるんです。あのキスはなんだったのかなって、その感触を」

 そっと、唇を抑えるしぐさ。彼女の一挙一投足に魅せられて、僕は動けない。目を離さない理子に、喉の奥から絞り出して、ようやく声を発した。

「ごめん、あれは、気持ちの整理がおっつかなかったんだ。妹じゃない……好きだった理子が、離れていってしまうのに怯えて。余計、阿呆らしい結果になってしまったけど」

「卑怯です。せめて逃げなければ、こんな引っ張ることも無かったんですよ」

「……ごめん。だから、今更だけど、言っても良いかな。あの時僕が言うはずだった事を」

「良いわけないです。馬鹿じゃないんですか」

「え」

「今更って、ほんと今更です。だから、悟史くんにはちゃんと、カッコ悪い男になってもらいます」

 揺らいでいた瞳に、光が宿った気がした。なんだこれ、ムードおかしくないか。

「悟史くんは私のこと好きだそうですけど、私の方が、もっと悟史くんのことを好きだと思います」

「告白がえし!? しかも幾分ストレートだ!」

「たとえば、電車の乗車券をしまった場所すら即答出来るくらい、ずっと見てました」

「っ!」

「あの後付き合い始めたと言って髪を染めましたけど、嘘です。あんなことになっちゃった悟史くんとせめて元に戻りたくて、三か月かけて芝居を打ちました」

「衝撃の事実!?」

「あの時の彼には可愛そうなことをしました。実際は振られてるのに、先輩達の間では付き合ってる事になってたんです」

「ひどい悪女だな……」

「悟史くんの所為ですよ。あの時は本当に余裕が無かったんです。どうやってそれまでみたいに話せるかなって、そればかりで」

 責めるような口ぶりで言う。僕にしてみれば、男らしく告白されて情けないやら、理子の話に嬉しいやら恥ずかしいやら恐縮やら、どう反応していいのか分からなくなっていた。

「不安、だったんです。元通り笑って話すようになっても、名前も呼んでくれなくて。キスのことも、無かったみたいに振舞って。忘れたいって、いっそ想うくらいに」

 俯いて、段々と、声のトーンが落ちていく。戸惑っている場合では無い、僕が、目いっぱい傷つけてしまった僕に出来ることは。一歩踏み込んで、細い肩を抱き寄せる。

「悟史くん……?」

「……今までの分、こうやって、ちょっとずつでも返して行けないか。返すだけじゃなくて、これからの分も上乗せしてさ。多分、理子が想ってるより、僕は君のことを好きだぜ」

 きょとんと、腕の中の理子が僕を見つめた。暫く黙って見つめ合って、それから、笑う。

「あはっ」

 やっと探し当てた彼女の笑顔は、日の出を迎えた朝の空に劣らず眩しかった。僕の腕から抜け出して、朝日に光る手が差し出される。

「今度は失くさないでくださいね、悟史くん」

「足くじいてないけど、手繋ぐのか?」

「……意地悪っ」

「冗談だよ」

 しっかりと、その手を握る。拝むつもりはないけれど、この丘の地蔵様に誓う。

 この朝の景色も、握る手の温かさも、僕はけして、勿忘い。

 誰しも忘れられない記憶が、一つ二つはあるものだと思います。私自身、まだ二十年と生きていない若輩ですが、そんな中でもたくさんの、忘れ難い、何かにも変えがたい思い出が刻まれてきました。何年か先、今持つこの思い出の内、どれだけが残っているのか知れません。

 しかし、、それがどれほど小さなものでも、たった一つでも多く、一日でも長く持ち続けられることが出来たのなら、それだけ意味のある今現在を、大したことない私なりに生きられていたのだと感じられると思うのです。


 本作は、高校生活最後の文化祭にむけて書き下ろされたものでした。


 それでは、読了ありがとうございました。趣味の範囲をけして抜け出さない拙作ぞろいですが、興味を抱いていただけたのなら、他作品たちも覗き見していただければ幸いです。感想、評価等頂けたら最早小躍りします。


 草々。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ