野郎
22にして僕は迷子だ。
集合場所は職員用第2会議室。
「どこ?」
人っ子一人いない静かな廊下を僕は歩いていた。
左右には扉。
扉扉扉扉扉扉扉扉扉扉。
厭になる。
採用決定の書類の中にはホテル内の地図も入っていた。
勿論、僕は地図を持っていった。今も手にある。
しかし、裏側なのに豪華だなぁ。なんてちょっとぼーっとしていたら、目安にしていた裏口と自分の位置を見失い、迷子だ。
一直線の廊下と扉と扉と扉。
何を目安にして自分の位置を知ればいい!
地図があっても自分の位置を知らなければ地図の意味はない。僕が握り締めているのはただの紙でしかないのだ。
「まずい……時間が……」
初日から遅刻。
高校の制服や私服で初出勤より最悪な第一印象だ。
どうする?
こんな時、助けになるのは蓮だが、数日前に不良に携帯を粉砕されたままで新しいのはまだ用意していない。それに、これ以上、迷惑……ではなく、世話を掛けたくない。
しかし、考えてみれば、一直線はおかしい。
「人間の感覚では感知できないほど微かにこの廊下は曲がっている」
そうすれば、果てのない一直線(らしきもの)は実現する。
「――……なわけないか」
地球は球体なのに、僕が地面をよちよち歩いても丸いとは分からない。つまり、地球は僕の感覚では感知できないほど微かに曲がっていて、このホテルでそれを実現するには地球ぐらいの大きさは必要なわけだ。
あ、今の僕、かっこよくない?
頭良さそうな感じ?
だがしかし、この廊下に終わりがあるなら、エレベーターまたは階段、せめて壁があるはずだ。
僕は走る。
『さく』
『…………』
『さーく』
『………………』
『…………』
『……………………』
『七瀬咲也!』
『はえ!?』
僕は隼人に両の頬を引っ張られて、間抜けな返事をしてしまった。
『な、何?』
『何は俺の台詞だよ。今の状況、分かってる?』
『えーっと……』
薄暗い部屋を背景に恋人の隼人の顔。そして、彼はその惚れ惚れするぐらい僕の理想の筋肉を付けた裸体を見せて、僕の顔を覗き込んでいる。
“僕の理想の筋肉”?
じゃなくて……。
“裸体”!?
『な!?え!?夜這い!!!?』
『夜這いとは失礼だよ。ちゃんと今朝約束したでしょ?』
『約束!?』
僕は、たとえ隼人を愛して、それなりに隼人に対して性欲があったとしても、隼人の両親がいるこの家ではやらない。それだけは決めている。
『モーニングコールよろしくモーニングキスしたのに全然起きてくれないから生半可な返事ばかりする寝坊助に約束を取り付けたんだよ』
『そんなの狡い!』
僕は声を圧し殺して怒り、片足で僕に股がる隼人を退かそうとした。しかし、妙な風通しを感じれば、上半身だけ裸の隼人に対して、
僕は全裸だ。
隼人は清々しい笑みを浮かべて、蹴ろうと上がった僕の足首を掴んだ。
『いい眺めかも』
『隼人!』
僕がここにいるために、隼人の両親にバレるような危険を侵すことはしたくないと隼人も解っているはずなのに、流石の僕もここまでされたら本気でキレる一歩寸前だ。
僕が彼の名前を呼ぶと、隼人はすぐにごめん。と脚を掴む手を放した。
『さく……本当にごめん』
『いいよもう。今度したら許さないけど』
『うん』
そう言って素直に頷く隼人は可愛い。
隼人は「これで我慢する」と僕の首筋にキスをしてから、僕の額に自らの額をぶつけた。
『隼人?』
『さくって、考え込む時は熱出してる時が多いから。ほら……少し熱い』
ちょっと馬鹿にされてる感があったが、隼人にそんな気持ちはないと知っていたので、僕は服を着せてくれる隼人に身を委ねていた。
『さく、薬取ってくるから大人しくしてて』
隼人は半身裸のまま部屋を出ていく。
そんな隼人の後ろ姿。
あの肩、あの腕、あの腰、あの足。
全て僕しか知らないんだ。
僕は隼人の両親も知らない隼人を沢山知っている。
僕を抱き締めてくれる隼人の温度。
好きを言ってくれる時に心地好く響く隼人の低音。
キスマークを付ける時、啄んで吸った後に舐める隼人の癖とか。
僕しか知らないんだ。
僕は嬉しさから込み上げてくる偲び笑いを止められなくなっていた。
そしてその数秒後、僕は眠りについていた。
「隼人……」
僕は頭蓋骨の奥からどんどん頭が重くなっていくのを感じながら、ただ走っていた。
時折、何の為に走っているのだろう?と思えば、クビにならないためだと思い出す。
そして、僕は自らの予想通り、エレベーターを発見した。
「あっ……た……」
そこですることは決めていた。
先ずは1階に降りよう。
その後、また考えよう。
僕は最上階の60階に止まるエレベーターを確認して下矢印のボタンを押した。
ここは12階。
エレベーターはスムーズに降りてくる。
「あ……薬飲まなきゃ」
一応、目的地が見えたので安心したら、薬の時間を忘れていたことに気付く。
貰った小瓶の中の薬を一つ口に含んで噛み砕く。蓮が作ってくれるのは甘いからこの時間が苦にならない。
チン……――
「来た」
エレベーターの中はどんな感じに豪華なんだろうと僕は淡い期待を寄せながら扉が開くのを待っていた。
しかし、中にはエレベーターの内装の感想を言おうとした僕の口が半開きのまま停止し、数秒後には僕に今までないくらい大音量で叫ばせかけた人がいた。
少女漫画ならありだけど、冴えない僕の人生において、こんな意図的な偶然から生まれたような気持ち悪いシチュエーションはなしだろうと思った。
しかも、ツンデレ気質の美少女と登校中の主人公(男)が奇跡的にぶつかり、奇跡的にその美少女は主人公のクラスの転校生で、
「あー、あなたは!」
「あー、君は!」
と、指を差し合い、その主人公の後ろで不機嫌な顔をする彼の幼馴染み(女)がいる。
という某使徒系アニメの26話のシチュエーションではなく、
かっこよく図ったように現れたまあまあイイ男に主人公(僕)は助けられ、半裸というより擬似全裸で一夜を共にし、挙げ句に……!
そんな最低なヒーローと、
どうにか得た職場で、
普通に出会ってしまった。
というシチュエーションだ。
「あ……あ、ああああんたはぁああ!!!!!」
――っぐ……。
あの時は僕のピンチを助けてくれて……――
なわけあるか!!!!!!!
よくも僕の唇を勝手に奪いやがって!
変態!このド変態が!
セクハラで訴えんぞ!
と言いたいことが山程あったが、スーツ姿の男が僕が叫ぶと同時に僕の口を押さえたため、モゴモゴでしか言えなかった。
「表で叫ぶな」
耳許で低く囁かれる。
その言葉からは圧倒的な力の差を感じたが、赤の他人以下の痴漢野郎には命令される筋合いはない。
それに、
叫ばせてんのはどっちだ!
のこのこ僕の前に現れやがって!
スーパー○リオのノコノコみたいに踏み潰すぞ!
そして、僕はまだまだ言い足りない(というより、ちゃんとはまだ何も言えていない)文句を言うどころか、男に問答無用で襟首掴まれて引き摺られていた。
「初日からこれかよ。迷子の仔猫さんには鈴が必要か?」
口を押さえる手を片手は薬の瓶を掴んでいたので、もう片手で放そうとしたが、びくともしない。
しょうがないので、瓶をポケットに入れて両手で外しに掛かろうとした。
が、
瓶がポケットから転がり落ちる。
コツッ……。
『僕の!』
咄嗟に手を伸ばしたが、運動神経の鈍い僕には掴めるはずなく、瓶は廊下を転がっていった。
嘘……。
必死に僕は暴れるが、男は平然と引き摺る。
あれには僕の薬が……。
8時間毎に1粒。
次は15時。
不様に引き摺られる僕にできることは道順を頭に叩き込むことだった。
あぁ……最悪。
普通にものの数分で迷子になった僕に道順が覚えられるはずもなく、僕はただ引き摺られていた。
てか、こいつは何者?
何で変態に引き摺られなきゃいけないわけ?
「地図あったってのに迷子か。他に見付かってたら即警察行きだ。ここの奴は全員、他の従業員と客の顔を覚えてるからな」
流石、一流の国都だ。
と、感心する前に男が付け足した言葉が僕をぶちギレさせた。
この男、
「俺に出逢えて良かったな」
なんて付け足しやがった。
お前に出逢えてどんな良いことがあったんだ!
僕は思わず、手を挙げかけたが、廊下を曲がったらしい勢いで、体勢を崩してしまった。
畜生!
そして、また数分後……――
「着いたぞ、七瀬。職員用第2会議室だ」
……………………七瀬?
何故、僕の名を?
やっとこさ口を塞いでいた手を放した男は僕を部屋の真ん中まで引き摺り、襟首を掴む手も外した。そして、どっか行った。
すると、ちょうど仰向けになった僕の目に映ったのは、
優しそうな老人の顔だった。
「大丈夫ですか?」
そう真っ先に聞いてくれる彼は、顔だけじゃなくて心も優しい人だ。
あの男と違って!
「だ……大丈夫です」
体の節々が痛かったが、僕は近くのパイプ椅子を掴んで立ち上がることにする。しかし、軽いパイプ椅子は僕の重さに傾き、僕は足を滑らせた。
!!!?
「おい!」
倒れると思った。
しかし、僕が額を床にぶつかることなく、僕は誰かの腕の中にいた。
「ホントに大丈夫か?」
次は短髪のガタイのいいお兄さん系。
「ありがとうございます」
と言いつつ、内心は「兄貴と呼んでもいいですか!」と思った。
あの男と違って!
どうにかちゃんと立ち上がった僕は壁に手を突いたまま周囲を見回した。かなり広めの会議室には僕と同じようにスーツ姿の人が緊張した面持ちで立っていた。
直感的に分かる。
自信に溢れているようで不安げ。それを埋めるように話し相手を探す。でも、内から溢れる喜びは隠せていない。
僕と同じ採用決定者だ。
ざっと15人位はいる。
その時、無意味に慣れた声が会議室内に響いた。
「静かに」
それは、あいつの声だった。
会議室のドアの前にあのド変態野郎のあいつは立っていた。
しかし、何でそんな犯罪者があそこに立ち、静まり返ったこの部屋で唯一声が出せる?
「先ずは採用おめでとう」
なんの嫌がらせか、あいつは、
「私は高橋。雑務のチーフだ。よろしく」
僕らの上司だった。