切符
咲也。
誰かが僕を……。
「咲也。さーくーやー」
「うー…………蓮?」
目を開けると、蓮の顔がアップされる。
「診てる途中で寝ちゃうんだから」
「あ……ああ……ごめん」
「別にいいよ。疲れが溜まっているようだし」
だったら……――
「起こさなきゃいいのに?」
バレたか。
「咲也は顔に出やすいからね」
蓮は顔に出にくい。
「で?何で起こしたの?」と、蓮の鞄から覗く聴診器を見詰めて僕は訊いた。
「うん。それがね、これが」
渡してきたのはただの封筒。
「あー、面接の結果ね」
僕は宛先を見て、小さなテーブルに投げ捨てる。
結果は分かっている。
「ホテルマンの面接受けたんだね」
ホテルマンとは話してなかったか。
「うん」
「何で?」
給料が高そうだから。はカッコ悪いし、蓮に怒られそう。
「やってみたかったから」
無難な答えを言ってみる。
「ならいいや」
何が?
「ねぇ、咲也」
蓮はゆっくりと口を動かした。
この雰囲気の蓮は次に重いことを言う。
お説教か、珍しい誉め言葉か。前者が7割で後者が3割。
今回は……。
「お説教です」
言われた。
蓮にはテレパシーでもあるんじゃないかと思う。
そんなことを思いながら、昨日、蓮が来るからと掃除をした序でに干した布団の上で僕はぴしりと背筋を伸ばした。
「どうぞ、蓮」
「無理をするな」
………………………………。
「終わり?」
「終わり」
はあ……そうですか。
「別に無理してないけど」
「無理してる。さっきも魘されてた。隼人、隼人って」
僕が隼人と魘されていた?
初耳だ。
一人暮らしだから誰からも教えられることはないのだから当然だが。
「咲也、君がお金を稼ぐのは大学進学の為だと知っているよ。だけどね、だからといって、無理はいけない。無理をして体調を崩せば困るのは君なんだからね」
「分かってる」
そんな僕の為の医者は今はいないから。
「今日は家で寝てなよ。熱っぽいし」
折角の休みを、あの日の朝の奇想天外な出来事を忘れる為に費やそうとしてたのに……。
悩む僕を置いて、蓮はてきぱきと寝る支度を進めていく。
「ボリューム小さくして咲也の好きなアーティストの新曲かけてあげるから。夕食まで寝てて」
「だけど……足が」
失礼だと知りながらも僕は無理をしなくていいと言う。しかし、蓮は鞄を漁ると、CDと共にタッパを取り出した。CDを先ずオーディオプレーヤーにセットすると、僕の好きなアーティストのバラードが流れ始める。
「遊杏がね、さっちゃん、お熱だからこれ持ってって、だってさ」
つい数日前に会った遊杏の顔が浮かぶ。
タッパの中には僕の好きなハンバーグとその他付け合わせだ。
「でも、何で熱だって分かったんだ?」
「遊杏は分からないことは自分で調べるよう学校で教わってるから」
「僕を調べたわけ?」
「そういう意味で言ったけど?」
いつの間に?
『気を付けてね、さっちゃん』
遊杏ちゃんが帰り際に言った言葉。
「そういう意味だったんだ……」
「うん?……ま、おやすみ」
僕は再び眠る。
目を疑った。
先に、自分に目が付いているか疑ったかもしれない。
それ程までにありえないことが起きているように思えたから。
僕の手から滑り落ちた箸は空中をくるくると回転し、皿にぶつかってカンと風鈴のような涼しい音が鳴った。
「え?は?え!?うそ……」
「うそじゃないって」
僕は目を擦ってもう一度見る。
「貴方を…………」
眩しい。
ただの紙切れが揺れる傘のある豆電球で眩しく光る。
『貴方を当社の社員に採用します』
「蓮、これって夢?」
黄金のチケット?パラダイス行き?
本気と書いてマジと読みますか?
「マジ……?」
「頬っぺたつねろうか?」
「いや、蓮が目の前にいるからきっと夢じゃない」
「僕だと?じゃあ、誰なら夢なわけ?」
「みっちゃんかまー君」
「美井と真緒ね」
みっちゃんこと美井とまー君こと真緒は、悪戯好きの姉弟だ。
まぁ、悪戯の対象は僕だけらしいが。
「シェラの役になったって台本渡されて緊張で夜も寝られなくて、次の日、シェラの妹の夫役って言われたら、稽古中に倒れてたよ」
シェラは夏になると毎年やる劇の主役だ。シェラ役は、それまでの1年で一番華やいだ役者をオーナーが選ぶ。
悪戯好きのお茶目なシェラは、姉弟からの伏線だったのかもしれない。
はっきり言うと、ファンからの花束に僕は浮かれていた。そろそろ僕もなんて思ったから、少しも…いや、少しは疑ったけど、あんまり疑わなかった。
本気にしてやんの!という言葉に、“してない”とは断言出来なかった。
今思い出しても恥ずかしい。
「おめでとう、咲也」
「あ……ありがと」
それにしても、怒鳴り散らしたというのに、来たのは超有名ホテルへの職場招待チケット。
今思えば、何故そこを選んだのかと思う。
ビジネスホテルのほうが入りやすかった気がする。
まぁ、今更思っても仕方がない。
それに、入った後にビジネスホテルに…なんて思ったら落ちた大多数の人に対して失礼だ。
「咲也、そのにやけ顔、ちゃんと明日には直しておくんだよ?」
「うんうん」と、ただ首を上下に振って、僕はにやけ顔を振りまいていた。
にやけずにはいられない。
あの、あの超有名な某グループが所持する中で、最も規模が大きいホテルだ。
「“国都”だよ!?」
「国都ホテルだね」
すごいじゃん。蓮が笑顔と共に僕の頭を撫でてくれる。
なんだか、国都ホテルのホテルマンに採用されたことより、ここまで蓮に褒められたことに嬉しくなってきた。蓮に野放しに褒められると、とても嬉しい。それはきっと、蓮が表面しか見ない人じゃなくて、何事もそうそう褒めないからだと思う。
僕は飼い主に好きなところを掻かれて尻尾を振る子犬みたいに心が躍っていた。
「もう帰らなきゃ。遊杏が心配するから」
「夕食おいしかったって、伝えてくれる?」
「うん。今日は夜更かししないんだよ。薬も忘れないでね」
「蓮、色々ありがとう」
「どういたしまして」
僕は腰を上げようとする蓮を手伝って体を支える。
家まで送ろうとしたら、おんぼろ宿舎の前までで断られた。
蓮は一度言うと、絶対に曲げないから僕は渋々、車椅子を進ませる蓮の後姿を見詰めていた。
「咲也」
ふと、蓮が振り返る。
「何?」
「気をつけてね」
「?…うん」
蓮は最後に少しだけ不吉な言葉を残した。