彼らの裏顔(閑話)
狡い……。
隼人は狡いよ。
僕がずっとどんな気持ちでいたかなんて……分かっちゃいないんだ。
だから、あんなこと出来るんだ。
吐息を、
感触を、
隼人の温もりを僕にまた色濃く残して、僕に隼人を忘れさせてくれない。
なのに、お前はいなくなる――
「俺は聞かないからな」
先輩は僕の腕を掴み、自分の背中に回した。
「せんぱ……僕、自分で立て…………」
「俺はお前にあの男のことは聞かない……だけど、俺はお前が嫌がろうと、お前を心配するからな」
……なんであんたが隼人のことを聞くんですか。
それに、僕の心配なんてしないでくださいよ。
あんたが世話を焼くほど……僕はここのお荷物と皆に思われるんだ。
言いたいことだらけなのに、僕の口は必要最低限にしか動きそうもない。それどころか、先輩に背負われながら、涙で先輩の背中を汚してしまうんだ。
「ううっ……ごめ……なさ…………」
今は泣く時じゃないのに、どうしても止められそうにない。目尻に力を込めても、逆に涙が溢れてしまう。
「構わない。だから、俺に謝るな」
「……ごめ……ん…………なさい……」
ごめんなさい。
先輩の背中で隼人のことを想って泣いて……僕は最低な人間です。
――ごめんなさい。
「ティー、裏に煉葉さんが来てるよ」
「あ、はい。直ぐに行きます」
最後のヘアピンを外して纏めた髪を下ろしたティファは、一足先に出番を終えていたバイオリニストの女性に呼ばれて立ち上がった。
化粧室を出、ドレスのまま裏口へと向かう。黒手袋でドアノブを回し、開けると、そこにはティファの尊敬する義父がいた。
煉葉八尋――ここ国都ホテルの最高責任者。
「お義父様…………と、咲也さん?」
ティファの目の前には、国都ホテル従業員である七瀬咲也を背負う八尋がいた。
咲也は八尋にとって恩人にあたる青年だ。
ティファも八尋への誕生日プレゼント選びを手伝って貰ったりと、親しくしてしている。
その青年は八尋に背負われながらぐったりとしていた。顔は赤く、目は閉じられている。
そして、どこか表情が険しい。
「あの、大丈夫ですか?」
「持病の発作だ。薬は飲んでいるし、あとは休ませれば……」
「僕の部屋を使ってください」
「いつも悪いな」
「いえ。咲也さんは大切な人ですから」
――僕にも。お義父様にも。
ティファは黒手袋を外すと、花瓶の置かれたテーブルの端に置いた。それから、自分の首後ろに腕を回し、付けていたネックレスを外すと、咲也の腕に巻き付けた。
「これは?」
鎖の先には金属細工。
銀色の針金が細かな柄を描き、全体的に雫の形をしている。
中に空洞のあるそれには木片が入っていた。
「白檀が入っているんです。これの匂いを嗅ぐと落ち着くので、演奏する時のお守りにしているんです」
ティファの初めてのステージでバーの元チーフが彼女にくれたお守り。
初演奏日の朝、会長である八尋の父がバーに来ていたこともあり、八尋の顔を潰すわけにはいかないと、彼女は緊張でまともに食事ができなかった。それを見かねた元チーフはティファにお守りをあげた。
お守りの効果というより暗示だったのかもしれない。しかし、手を震わせながらも躓かずにピアノを1曲弾き終えられて以来、彼女にとって演奏時にそれを身に付けることは欠かせない習慣となっていた。
「そうか、ありがとう」
その時、咲也の腕が揺れ、お守りがシャランと音を発てた。
「今、俺は会長との席を抜け出して来ているんだ。七瀬を部屋に連れていったら、直ぐに戻らないといけない」
「はい。着替えたら僕も直ぐに部屋に行きます。咲也さんには僕が付いていますので」
「それと、何かあれば、ここに電話をしてくれ。七瀬を看ている医者だ。彼には、文句は俺があとで聞くと言っといてくれ」
「分かりました」
「本当にありがとうな。今夜の演奏、俺の誕生日に弾いてくれた曲だろう?良い演奏だった」
片腕で咲也を支え、もう片手で電話番号のメモを渡すと、ティファの頭を撫でて八尋は彼女の部屋へと向かって行った。
暫くの間、ティファは撫でられた頭に触れて残る八尋の温もりを堪能する。
「お義父様は変わりました。咲也さんに会って、良く笑うようになりました。……この気持ちはきっと、“嬉しい”……でしょうか」
ティファは微笑み、次に、一人で笑う姿は変かなと唇を尖らせた。
でもやっぱり、嬉しい。
裏口から入り、手洗いへと続くドアからバーへと戻ろうとしたら、ドアが勝手に開いた。
そして、大野と真正面から見詰め合う。
「あ、八尋!っ、くん!煉葉、さん!」
“八尋”か“八尋君”か“煉葉さん”のどれか一つにしろ。
「他に人もいないし、普段通りでいい。だが、大野も来てたのか」
エントランスの大野ならドアマンの能美さんとは面識あるだろう。やはり祝いに来ていたか。
「そう……なんだけど……」
「?」
大野が暗い。
「咲也とここで約束してたんだけど、俺……先輩に呼び出されて……お客様の鈍りが強くて聞き取れないからお前が話してくれとか…………。俺、約束の時間に遅れたんだ。そしたら、咲也がいなくて」
本場仕込みの英語が祟るとは。
まぁ、それだけ大野の英語力が買われているということだが。
「俺が遅いから帰っちゃった?ねぇ、八尋君は咲也を見てない?」
正直に言ってもいいが、七瀬が発作になったと知れば、大野が「自分が傍にいなかったからだ」とか更に落ち込みそうだ。
「七瀬なら祝いのシャンパンを間違って飲んでしまって酔ったようだ。今はティファの部屋で休んでいる」
「そんな…………俺が傍にいれば…………」
俺の気遣いは効果なしか。
大野はすっかり落ち込み、終いには壁に手を突いてがっくりと項垂れる。
「七瀬も子供じゃないんだ。お前、七瀬の親みたいだぞ」
「何それ。俺、面倒見がいいって言われるけど、別にそんなつもりはないからね」
大野に自覚がなくて当然だ。何故なら、世話好きはこいつの根っこの性質なのだから。
「そうだよ。それに、仮に俺は面倒見がいいとして、八尋君には言われたくないよ。不器用なくせに咲也のこと心配しては無理してさぁ」
突然、語尾が荒々しくなる大野。
………………こいつ、酒入ってないか?大野が酔うのは珍しいが、酒臭いな。
「兎に角アタックすれば、それで咲也に好いて貰えると?小学生じゃないんだから、もう少し大人同士の付き合いを学びなよ。休日にこてこての恋愛ものDVDでも借りて勉強したら?ま、八尋君はそこんとこ抜けてるから理解できないかなー」
早口で長々と喋る大野。これがお前の日頃の俺への恨みらしい。
徐々にムカついて来たぞ。
「おい」
取り敢えず、広い心で大野の暴走を止めてやろうと思ったが、
「八尋君って、好きな子に誤解されるタイプだよね。むっつりだし、やたら睨むし、冗談下手くそだし。俺様口調だし、俺様だし。咲也から見ずとも我が儘プーだから」
我が儘プーってなんだ。“我が儘”しか理解できないが、悪口なのは分かる。
本人を前にしていい度胸だな。
いや、それより、言いたい放題しやがって!酒は飲んでも……とか何とか言ったのはどこの誰だ!
「なら、俺からも言わせてもらうが、お前はいつも俺に対して餓鬼をたしなめるような口調を使うだろ!あれには苛ついている!」
「口調をネタにするなんて虐めだ!パワハラ!」
「お前も俺が俺様口調だとか言っただろ!」
こいつは自分の言ったことすら直ぐに忘れるのかよ!飲んだくれが!
「事実なんだからしょーがないね!」
「こっちも事実だ!!」
と、そろそろ同じ文句の言い合いになってきたところで、
「二人ともそこまでにしてください」
陸奥だ。
しかし、本当にいつの間にかだった。
いつの間にか、陸奥が真顔で俺達の間に立っていたのだ。
「大野さん、あなたは仮にも国都の一員ですよ。業務時間外と言えど、節度を持ってください」
「す、すみませんっ!」
ペコペコと頭を下げる大野は顔を更に真っ赤にし、肩を強張らせて焦る。心中はきっと、尊敬する陸奥に叱られたショックと恥ずかしさで一杯なのだろう。
良い様だ。
「八尋様も自身の立場をお忘れなきよう。あなたはこの国都を背負う方です。公共の場で酔っ払いに絡まれて、一緒になって騒いでいてどうするのですか」
「…………軽率だった……」
これでは公私混同だ。
付き合いの長い大野相手についうっかり熱が入ってしまった。
けれども、高橋八尋から煉葉八尋になって以来、俺には無礼講で口を出してくる奴がいなかったから……。
「会長が呆れておられましたよ」
「か、会長が!?どうしよう……俺……クビだ……」
大野の顔色が赤から真っ青に変わる。しかし、状況は俺も同じ。
「クビでしたら、私に止めに行くよう言いませんよ。大野さんはまず酔いを醒ましてください。八尋様は会長がお呼びです」
会長を待たせた挙げ句にお呼びだし。子供みたいな口喧嘩で……こんなことなら、俺も酒に酔いたかった。
「……酔い醒ましがてら……俺、咲也の見舞いに行く……行きます。……それと………………八尋の馬鹿っ」
踵を返した大野はトイレに行かずに店内へと足早に消える。最後の最後に文句を付け加えて。
今、「八尋の馬鹿」って言ったよな?
「………………大野のば――」
「八尋様。私の話を聞いていましたか?」
「……………………」
先に言ったもん勝ちかよ。
大野の馬鹿野郎!
――今夜は散々だ。