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七転び八起き

 愛していると囁いた。


 だけど、そこに君は居なかった。


 それよりも“君”とは誰なんだ?







 間違いなく、隼人(はやと)だ。

 地球が逆回転しようが、僕は言い切れる。

 僕の目の前にいる彼は隼人だ、と。

「は、はや……と……」

 何でここにいるんだ。

 現在の日本の人口は億なんだぞ。

 特に出没エリアが都道府県単位で違う時点で、「あ、ぐうぜーん」で出会えるものじゃないんだぞ。

七瀬(ななせ)?」

 ねぇ、隼人。

 何か応えてよ。

 それとも僕のこと分からないの?

 でも、分からないならそう応えてよ。

 「あなたは誰ですか?」とか。

 「私はあなたなんて知りません」とか。

 そしたら僕は「すみません。人違いでした」で隼人のことを忘れるから。全部、何もかもを捨てるから。


 だからねぇ、応えてよ。

「え?彼は僕の従兄の(あおい)だよ?」

 金髪美男子が隼人の手を取る。

「あ…………私は……澤谷(さわたに)葵です」

 隼人の名前が違う。

 でも、違うはずなんて……。

「では、レストランまで案内致します」

 茫然自失の僕の眼前に先輩の背中。

 「お前は仕事に戻れ。お客様は俺が案内する」と囁かれ、先輩は二人を先導する。二人は――隼人は僕の目を見ずに先輩について行った。

 そして、隼人の手は従弟の手と握り合っていた。

 従兄弟の関係ってそんなに親密なのか?

 第一、どうして名前が違うのだ?

「澤谷葵……」

 きりきりきり。

 隼人だよね?

 隼人でしょ?

 だって、僕は隼人の形も声も匂いも覚えている。間違えるはずなんてないんだ。


 だが、それは本当か?

 心の底から彼が隼人だと思っているか?

 お前が隼人と別れて何年だ?

 今や少しの整形で簡単に別人になれる世の中だ。彼は隼人に似た隼人じゃない人では?

 声も体臭も本人だと言い切るには難しい要素だと思うが?

「でも……」

 “でも”って何だよ。

 自分でもしつこいって分かってるだろ?

 もう忘れるんだ。

 隼人はお前のことなんて忘れてる。それか、お前はもう飽きられたんじゃないか?

 それに決めたじゃないか。心機一転して、ここから人生リスタートするんだろ?

「隼人じゃ……ない」

 そうだそうだ。

 彼は隼人じゃない。

 ただのそっくりさんなんだよ。

「あの人は隼人じゃないんだ……」

 お前の世界に隼人はもう要らないんだ。



 僕にはもう隼人は必要じゃない。






「七瀬、3012号室。頼んだぞ」

「3012号室ですね。分かりました」

 僕は間違いのないように部屋番号を繰り返した。

 人は「4桁の数字ぐらい一々聞き返すな」と言うかもしれないが、そうしないと僕は最後の最後で部屋間違ってないかなと不安になるのだ。心のどこかでは間違ってないと分かっているはずなのにだ。

 まぁ、臨時指導係の(ふじ)さんは僕の考えを理解し、敢えて繰り返すことに賛成してくれているので、僕は今回もしつこく繰り返すのだ。

 そして、頷いた藤さんはカートを押す僕を送り出してくれた。


 今日はいつも以上に白手袋が滑る。

 手がさらさらと言うか、摩擦が起きてくれないと言うか。

「ん……」

 手の脂がないのか?

 もう僕は枯れたおじいちゃんになってしまったのか?

 ……………………。

 しかし、なんでだろう。

 こんな些細なことでイライラするなんて。

 いっそのこと、滑る手袋を外してしまいたいと思ったりして。

 取り敢えず、荷物を部屋に運ばないと。


「よっ、咲也」

優一(ゆういち)さん!?」

 ぽんと肩を叩かれたと思ったら、優一さんが隣にいた。そこまで久し振りではないのに、数十年振りの再会みたいな気持ちになる。

「そんなに驚くなよ。その荷物、部屋に運ぶのか?」

「はい。ベルボーイのお手伝いを」

「そっか。…………今日はいつ上がり?」

「えっと……予定では8時です」

 19時30分からの第3区画の清掃に駆り出されて、掃除が終わり次第、僕は上がりとなる。

「第5清掃だろ?俺と一緒だ」

 勿論、国都には掃除を専門とする係りがある。仕事内容は掃除。そして、僕達雑務も人手が足りないときは掃除を手伝う。

 しかし、彼らが掃除するのはあくまで表だけ。

 僕達従業員が使う裏の掃除は皆で手分けして行うのだ。

 従業員は1日に4時間おきに6回、裏を掃除する。午前3時30分を第1清掃として、19時30分に第5清掃、23時30分に最後の第6清掃が行われる。

 大抵、裏の掃除は各従業員の仕事終わりに設定されており、先輩みたいなエライ人達も会議等がなければ例外なく参加することになっている。

 この『裏清掃』は国都の歴史の1つで、裏が表なみにピカピカなのは、先人の努力と継続にあるのだ。

 「掃除は“体力”だけではなく、“判断力”や“忍耐”、“思い遣り”、“努力”などの様々な力を与えてくれる。何より、綺麗は気持ちい」と、僕にとって初めての“清掃大会”で会長が演説していた。

「今夜、一緒に下のバーに行かないか?」

「バー……って、ティファちゃんのところですか?僕達、従業員なのにいいんですか?」

 営業時間って邪魔にならないかな。

「今夜は特別なんだ」

「でも……」

「まぁまぁ、30分ぐらいだから。少し休んでから帰るって思えばいいよ」

「は……はぁ…………はい」

 優一さんがそんなに言うなら行こうかな。ティファちゃんの顔も見たいし。


 ……本当は気が乗らないけど、このまま帰るのは少しだけ――


 ――淋しい。



「んじゃ、お互いお疲れ様。また後で」

「はい。…………また……」

 僕は歩幅を大きくした優一さんの背中を見送った。






 20時。

 僕は休憩室でマスターのイニシャルが入った制服を脱いで無印のスーツに着替えた。

 今日の裏清掃では同じ雑務マスターの馬場さんと効率の良い客室の掃除順序について議論した。なかなか有意義な議題だったと思う。

 でも、ちゃんと手も動かしたよ。

 サボってはいないからね。

 僕はスーツに着替え、目立たないようにと体を小さくしてバーに入った。幸い、影の薄い僕は誰にも注視されずにカウンターの隅に席を取れた。

 まぁ、さすがにバーテンダーのお兄さんには「今晩は」と挨拶されたが。

 それにしても、天井の照明を程好く落とし、各テーブルの小さな明かりが星のようにキラキラと瞬くバーには見知った顔がちらほらあった。

 今夜が“特別”だからだろう。

 しかし、優一さんを探してキョロキョロしているだけも悪いので、僕はメニューに書かれたミックスジュースをバーテンダーのお兄さんに小声で頼んだんだ。

 バーに来てカクテルを頼まないとは何事だって感じだが、僕はお酒が苦手なのだ。

 お兄さんは「分かりました」と平然としていたが、これから運転の予定がある人とかはお酒は注文しないかと気付いた。注文するのがおかしければ、そもそもメニューにノンアルコール飲料は書かれないだろうし。

 お兄さんは逆さに並べられたグラスを取ると、氷を入れ、カウンターの隅に置かれた色とりどりのミキサーからジュースをてきぱきと注いだ。

 オレンジ色は多分、オレンジジュースだろうけど、他に7・8色ある。

 お兄さんはそれらを同じ量ではなく、微妙に量を変え、柄の細長い銀のスプーンで優雅に混ぜた。

 そして、ストローと共に僕の前にグラスを静かに置いた。

「どうぞ。甘味を控え目に致しました」

「あ……ありがとうございます……」

 “甘さ控え目”って、もしかして、それぞれのジュースの量は計算されてた?

 ただのミックスジュースじゃないの?

 ジュース一杯でこんなに気を遣われたの初めてかも。

 僕はストローを挿してジュースを飲んだ。

「!……美味しい……」

 甘過ぎず、酸っぱすぎず、ほんのりグレープフルーツの苦味がする。

 僕の好みに合致してる!

「ありがとうございます」

 グラスを磨くお兄さんに微笑まれた。僕はつい視線を逸らしてしまう。

 しかし、このジュースはとても美味しいのだ。

 人生で初ってぐらい見事に僕の味覚にフィットしていた。

「あ……その……ジュースの分量が絶妙で……」

 僕は褒め言葉というのが言えているのだろうか。

 恥ずかしくて、頬が熱くて、頭がくらくらする。

「以前、食堂で見掛けた時、ホワイトケーキにブラックコーヒーでしたので」

「え!」

 ケーキタイムしてたのいつだっけ?

 かなり昔な気がするけど、この人は僕のことも、僕が食べていたものも覚えていたんだ。

「私、仕事柄、皆さんの好みを知りたくて食べてるものとか飲んでいるものを見てしまうんです。お口にあって良かった」

 ……プロだ。

 僕のケーキと飲み物のチョイスだけで好みのミックスジュースを作るなんて――

 一昔前の僕なら、お兄さんの仕事への執着具合には引いただろう。

 しかし、今の僕は違う。

 僕は、お兄さんみたいにこんなにも仕事に拘りが持てる人間になりたいと心の底から思った。




「本日は、国都ホテルでのドアマン勤務42年、国都ホテルにお越し下さったお客様をお出迎えしてきた国都ホテルの顔――能美龍太郎(のうみりゅうたろう)さんの最後の勤務日でした。なので、今夜は我々国都ホテルから、能美さんの長年の誠実な勤務に対する感謝といたしまして、この場をお借りいたしました」


 何だか静かだなぁと思っていたら、ステージのバイオリン演奏が止まっていて、国都のスーツに身を包んだ男性がスポットライトで照らされていた。

「あ……ドアマンの能美さん…………」

 定年退職だろうか。

 ステージでは司会からマイクを代わり、ドアマンのチーフが能美さんへの感謝の言葉を述べる。

 そうか…………“特別”ってこのことか。

 ステージ前のテーブル席には能美さんが座っており、エントランスで絶やしたことのなかった笑顔を僅かに歪めた。そして、ドアマンチーフを見上げてそっと指を目尻に押し当てたのが見えた。

 勤務42年。

 僕の今までの人生の2倍近くをこのホテルと過ごして来たんだ。

 国都と一緒に成長してきたんだ。

「…………なんか、いいなぁ」

 多くのお客様に愛される国都はスタッフにも愛され、国都もスタッフに愛を注いできた。

 国都の長い歴史は沢山の人と共にあったんだ。

 何だか、見ているこちらの胸まで温かくなる。

「国都ホテルに来れて……本当に良かった…………」

 ここの一員になれるなんて、僕は幸せ者だ――続いてステージに上がった会長に大きな花束を渡され、深く頭を下げた能美さんにバーの人々の拍手が降り注ぐ。従業員も、お祝いに居合わせたお客様も、皆が盛大な拍手をした。

 僕も拍手をし、暫くはバー内の空気への興奮に胸をドキドキさせていた。



 バーの全員にシャンパンが配られ、能美さんの周りには人が絶えずいた。

 僕もお祝いの言葉を言いに行きたかったが、どんなに興奮してても、初対面に近い僕が行くのはどうだろうと、カウンター席からは立てなかった。

 ドアマンの後輩とか、能美さんと話したい人はまだまだいるだろうし……。

「あ、ティファちゃんだ」

 弱いスポットライトがステージの端を照らし、緑っぽいドレスを纏ったティファちゃんがスカートの裾を持って軽くお辞儀した。そして、ピアノの前に座り、大きくなく、しかし、小さくなくの音量で彼女はピアノを演奏し出す。

 ああ、いい音色だ。安らぐ。

 素晴らしい演奏を知り合いがしていることもあって、僕は拍手をしたい気持ちがあったが、あくまでBGMとして空間に溶け込んでいたため、拍手をする人もなく、目立つのが嫌いな僕は拍手できなかった。

 その代わりではないが、僕は彼女から目を逸らさず、耳はピアノの音に集中させた。


 が、


「………………嘘……」

 ステージ近くの隅のテーブルだ。

 そう、ティファちゃんの演奏するピアノの前の……。

「澤谷……葵…………」

 落とし気味の照明の中でもキラキラと眩しい髪を持つ美男子と、自称『澤谷葵』がテーブル席に座って話していた。

 美男子の前にはパフェがあり、彼はそれを食べながら澤谷葵に視線を向ける。

 澤谷葵は先程配られたシャンパングラスを2つ空にして美男子に何かを喋っていた。

 ――気にしてはいけないはずなのに、僕の視線は二人の座るテーブル席に釘付けだった。

 あの男は澤谷葵……そうだろう?

 今日の昼間に出会った迷子のお客様。

 ただの、お客様。

「………………ただの…………お客様……」

 あ………………微笑んだ。



 ――隼人が笑った。



「…………っ!!」

 なんで。

 なんでなんでなんで!

 ここに隼人はいない!

 彼は隼人じゃない!

 なのになんで!


 なんであの男が笑うだけで、僕の心はこんなにざわつくんだよ!


 切なくて苦しくて、痛くて痛くて痛くて痛くて…………痛い。

 手元のグラスのシャンパンを飲んでみても治まらない。

 胸を叩いてみても治まらない。

 痛いだけ。

「い…………痛い……っ……」

 痛いどころか、少しずつ痛みが酷くなる。

 これは…………ヤバいかもしれない。

 幸いしてバーの隅にいたので、さりげなく口に手をやり、静かにグラスをテーブルに置く。

 壁に視線を移し、片手でポケットを探る。

 大丈夫、薬はある。

 トイレを探せば、僕が視線を向ける壁沿いにそれらしいドアが見えた。

 良かった、トイレも近いみたいだ。

 痛みに耐えられなくなる前に薬を飲もう。

 会長のいるここで悲鳴なんて上げたら、即クビになる。今さっき、ここの一員になれて幸せ者だとか考えたばかりなのに!

 席を立ち、僕は息を止め、体に隠すようにして壁に手を突いてドアへと足を早めた。



 最悪の気分だ。

 胃の内と外をひっくり返したような気分で、気持ち悪い。

 多分、昼御飯を全部吐いたと言うのに、まだ何か出したりない気がする。

「はぁ……はぁ……はぁ………」

 僕は人気のない男子トイレの個室から出、洗面器の縁に覚束無い足取りで掴まった。

早く口の中を漱ぎたくて、洗面器に肘を突いて前屈みになり、跳ねるのも構わずに口の中に水を入れた。

 ああ、気持ち悪い。

 口に入れた水を吐き出すのも、先の吐き気を連想させてくる。

 でも、早く口の中を綺麗にして薬を飲まないと……。

 カタン――ドアが閉まる音がした。

「だ、大丈夫ですか?」

「い――」

 “いえ、大丈夫です。気にしないで下さい。少し酔っただけです”までが誰かに鉢合わせした際のテンプレートだった。

 しかし、掛けられた声に僕の頭の中は一瞬で真っ白になった。

 そして、息をする間も置かずに、肩に添えられた手の感触に心臓が激痛を伴って跳ね上がったのだ。


 何で隼人が!!


「っ!……ぁ……っん!!」

 どうして隼人はいっつもそうなんだよ!

 良くも悪くもタイミングが良すぎるんだ!!

「あ……!!だ、大丈夫!?」

 胸の痛みで立っていられず、僕は膝からトイレの床に崩れ落ちる。

 澤谷葵こと隼人の声がでかくなり、彼の匂いが強くなる。

 もう、何もかもがヤバい。

「な、七瀬さん!!大丈夫ですか!?」

 隼人が僕に敬語なんて、高校で付き合い出した時以来だぞ。

 てか、僕の体に触れるな。

 お前の声だけで精一杯なのに、触感だけでなく体臭まで僕に吸わせたら……!

「やっ……!!」

 焦る。

 パニックだ。

 僕はポケットの薬の瓶を握り、取り敢えず、瓶を握った拳で隼人の胸を押したと思う。

 が、隼人にその腕を掴まれた。

「これ…………この薬ですか!?何錠ですか!?」

 確かにその薬だけど、今は僕はお前がいない方がいいんだよ……!

「まずは1錠……水!……っと、すみません!我慢してくださいね!!」

 僕は隼人に顎を掴まれ、口を抉じ開けられる。

 上手く力の入らない僕の歯に指が引っ掛かるのも構わずに錠剤を一粒口のなかに押し込んできた。

 そして、後頭部を掴まれて上向きにされる。

 隼人の顔が度アップになり、一度洗面器に顔が隠れる。

 再び近付いた隼人の顔は相変わらずのイケメン面で、何も考えられないまま隼人の唇が僕の唇に触れていた。


 ……………………って……え?


 隼人の舌が僕の唇の隙間に滑り込み、加えて、ぐいっと下顎を下げられたせいで、感覚の薄いまま大きく口を開けさせられた。

 行き場のない僕の舌が隼人の舌に絡み、そのまま生温い水が押し込まれる。

 飲み込まないと溢れる!

 僕は鼻息を荒くして、喉を頑張って上下させた。

 その際、口の中を薬が暴れたが、必死に喉の奥へと行くよう舌を動かした。

 まるで隼人にキスをせがむように……。


 約1分だ。

 隼人と唇を合わせ、薬と水を飲み干すまで。

「んぁ………………っ」

 唇が離れる直前、鼻から抜けるような我ながら甘ったるい声が出、口の端から垂れた水だか唾液だかを隼人の指で拭われた。

「………………大丈夫……ですか?」

 全く取り乱してないんだ?

 それとも、キス魔の隼人には当たり前?

「は……は…………はぁ……はぁ…………だいじょぶ……です……」

 大丈夫じゃない。

 全く、全然、少しも、1ミリも、毛ほども、大丈夫じゃない!

「はぁ、良かったぁ」

 まただ。

 隼人の笑顔。

 うん…………変わってない。

「凄く心配しました、七瀬さん」

 笑顔は変わってないのに…………僕に対する口調は変わった。

「………………さく……」

「……え?」

「………………あなたは僕をさくと呼んでいた…………珠樹(たまき)隼人」

 “さく”は隼人だけだったのに、もう呼んでくれないの?

 せめて、僕の名前を呼んでほしい。

「………………さく…………俺は……――」


「お客様、どうなさいましたか?」


 先輩……!?

「あ……煉葉(れんば)さん」

 二人でトイレの床に座り、隼人に抱かれながら僕は対お客様用フェイスの先輩を見上げた。

「いえ、トイレに来たら、七瀬さんがとても気分を悪そうにしていたので」

「そうでしたか。ありがとうございます」

 先輩は勿論、トイレでもお辞儀は欠かさない。

「七瀬は私の部下です。後は私が看ますので、お客様は引き続き、当ホテルのバーでお寛ぎください。お連れの方もお待ちになられておられると思いますので」

「あ…………はい。七瀬さんのことよろしくお願いします」

「かしこまりました」

 隼人は僕をトイレの壁に凭れさせると、目に掛かっていた僕の前髪を指先で退かしてくれた。

「隼人……」

 行っちゃうの?

「すみません、七瀬さん。私、嘘を吐いていました。私の名前は澤谷隼人です」

 苗字が澤谷?

 まさか……誰かと結婚してるの!?

 でも、普通は夫の姓を取るから、なら、あのただならぬ関係っぽい金髪美男子と……!!

「これ、私の名刺です。ポケットに入れておきますね」

 隼人は仔犬柄の名刺入れから名刺を取り出し、僕のスーツの胸ポケットにそれを入れると、立ち上がった。

「あ…………」

 行かないで、隼人。

 僕はお前に話したいことが沢山あるんだ。


 だから――


「七瀬、大丈夫か?」

 先輩の影で視界は一杯になり、カタンとドアの閉まる音だけが聞こえた。








「珠樹さん、遅いよぉ。こんなとこで僕を一人にしないでよ。ボッチの寂しい男みたいになるじゃん」

「お待たせしてすみません、(さくら)さん」

「まぁ、いいけど。……あ、指!血が出てるよ!?んー、ナプキンでいい?」

「はい、ありがとうございます」

「トイレで犬にでも咬まれたの?歯形ついてるし」

「いえ。トイレで体調を崩されていた方がいたので介抱を。その時、少しあっただけです」

「でも、顔赤くない?風邪とか移された?」

「あ、それは……!えっと、それは多分、酔いが回っただけですよ」

「ふーん。でも流石、お医者さんだ。カッコいいね。可愛い絆創膏も携帯してて、珠樹さんって患者さんにモテモテでしょ?」

「あはは。私はモテモテじゃありませんよ。私が相手をするのは子供達ですし、それにまだ私は学生です。医者ではありませんよ」

「そんな細かいことはいいの。珠樹さんはもう医者だよ。って……明日帰っちゃうんだよね」

「はい。用心屋さんには本当にお世話になりました」

「呼んだのこっちなんだから。でも、いいの?七瀬さんのこと……僕、嘘吐いちゃったけど………………」

「…………大丈夫です。これで帰って父と母に報告できます」

「それなら良かった。今夜は楽しもうね」

「はい」

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