七転八倒
寒い。
ここは脱衣場?
何で僕はこんなところに……。
床が寒い。
「…………寒い……」
もっと温かいもの……温もりが欲しい。
とにかく畳部屋に――
「いだっ」
何かに足が引っ掛かってずっこけた。
起き上がりたいが、無理だ。僕の力はもう尽きた。
しかし、何だろう。
畳まずに放置していた洗濯物だろうか、布の感触がする。
僕は手当たり次第にそれらを自分に引き寄せた。
だけど、まだ足りない。
寒い。
「…………寒い……」
もっと温かいもの……人肌が欲しい。
僕の指が熱源に触れた。
これは温かい。
「あったか…………」
僕は柔らかな熱源に身を寄せた。
「…………何でこーなったんだ」
思い出せ、僕!
秘めた第六感を覚醒させろ、僕!
――いや、第六感なんてないか。
今年は“有り得ない”の頻度が我ながら例年の倍以上あった気がするが、やはり今日も“有り得ない”。
「何でこの僕が……」
タオルまみれで先輩にすがり付いているのだ。それも、先輩が羽織っていたパーカーをわざわざ開いて、Tシャツ越しに熱を貰っている。
変態なのか?
僕は変態なのか!?
「違う違う違う!僕は変態じゃない!きっと先輩みたいな人が好みの幽霊に乗っ取られたんだ!」
そうに違いない!
じゃなきゃ僕から先輩に抱き付くわけがない!
「だったら先ずは俺から離れるんじゃないのか?七瀬。言い訳しながら俺を堪能しなくてもいいぞ。遠慮なく存分に堪能しろ」
「堪能してないし、しませんから!ちょっと転けたんです!」
「ちょっとの割りにダイナミックだな」
ああ言えばこう言う!
僕は眠たげな目でムカつくことをぺちゃくちゃと喋る先輩から回転して逃げた。狭い廊下で無理した為、肘と膝を至るところにぶつけたが。
「それにしても変な体勢で寝たからか……あだだ……背中がいてぇ」
「こんな狭い場所で寝るからですよ」
僕は起き上がり、散らかったタオル類を脱衣場に押し込んでドアを閉める。
「お前が素直じゃないからだ。俺に抱き付いて寝たいなら素直に言えっての」
……………………こいつ、殴りたい。
一々しつこいんだよ!
「もうお泊まりは終わったんですから、帰ってください」
「それは嫌だ。家に寄って朝飯を食べる時間がない」
「お握り作りますから、それ持って帰ってください」
「いや、そこまでしてくれんなら、朝飯を一緒に食べさせろよ」
まぁ、そうなんですが……で、負けるわけにもいかないんだ!
これ以上、先輩の近くにいたくない。
近くにいたら、先輩を勘違いさせる。
僕は先輩が好きなわけではないんだ。
止める暇なく僕のエプロンを装着した先輩は我が物顔で小さな台所に立ち、冷蔵庫を開けた。
そして、15分後。
セーターを羽織った僕の目の前にはほくほくご飯とお味噌汁、卵焼きがあった。
「……………………」
「……………………味付けは醤油だ」
「……………………」
「……………………いただきます」
「…………………………いただきます」
結局、僕はこの人と朝御飯を食べるのか。
…………冷めない内に先ずは味噌汁を一口――うん、日本人たるもの朝には味噌汁が必須だ。
次は味付けが醤油らしい卵焼き。
美味しい。
「……………………」
と、僕が黙々と味見をしていると先輩が僕の反応を見極めている気配がした。
またか。
僕は先輩にも分かるように作り笑いをするのは面倒で、だから本当に小さな声で「美味しい……」と、囁いてあげた。
我が家に押し入っておいて褒めるのも癪なので本当に小さくだ。
そしたら、
「ありがとう」
反射で顔を上げた僕の視界には先輩が心底嬉しそうに笑う姿が映った。
…………子供みたい。
大人はタテマエに本音を隠して、アイソワライで機嫌を取るものなんだ。どこまでもシタテに出て相手を高く高くモチアゲル。
大人は相手のタテマエもアイソワライも感じながら、それでも「そんなんじゃないよ」とヘリクダル。そして、互いにジギャクを繰り返す。
結局、残るのは虚しさだけ。
それでも止められないのが大人なんだ。
「………………僕だって……頑張ればこれぐらい美味しいの作れる……です……」
先輩は狡い。
僕よりも大人の世界に早くから踏み込んでおきながら、先輩は僕よりも綺麗。
ううん。
きっと僕と比べること自体おこがましい。
「七瀬、俺に今度、料理を教えてくれないか。お前の手料理も食べてみたい」
「教えるのは構いませんが、僕の作った料理を食べたら……先輩は僕の作った料理以外食べられなくなりますよ」
――これは言い過ぎたかも。
僕はまともに先輩の顔が見れなくなってしまった。
時々、僕は考えもせずに思ったことを脳からそのまま神経と食道を通して口からぽろぽろと溢してしまうことがある。
溢す前に口を閉じればいいのに、僕は溢したことに気付いてから慌てて閉じるのだ。
今日の僕は変な意地を張ってしまうみたいだ。
別に、先輩の前では素直になれないツンデレとかじゃないからな!
てかデレってなんだよ。僕は先輩にデレたりしないから。
「その時はお前と同居だな。二人分の寝床が確保できるとこに引っ越すか。お前が並んで寝てくれんならここでいいが」
「何言ってるんですか!僕はここからは梃子でも動きませんから!」
「ま、今はそれぐらいでいいさ。ほら、食え」
それぐらいってなんだ。
何をどれくらいにするつもりなんだ。
言いたいことは山ほどあったけど、俺様筆頭の先輩は僕のお椀を掴むと勝手に味噌汁を足す。
「あ……!」
僕は毎朝ご飯一膳、味噌汁一杯って決めているのに。別に多くてどうのってわけじゃないけど。
「もっと食べろ。沢山沢山作ったから」
「沢山って一体……」
ああ……どうして土鍋で味噌汁を……。
「残ったらまた今夜俺が食うから」
“また今夜”だと!?
また今日も家に来るつもりなのか!
「た、食べます!全部食べます!今すぐに!」
「そんなに俺の味噌汁が気に入ったのか」
そんなわけあるか。
ちゃっちゃと消化しないと!
当分、味噌汁はいいや……。
「そっち終わったー?」
「はい、終わりました」
「じゃあ、最終チェックたーいむ」
ゴミや汚れは勿論、グッズの補充、その他機器の動作確認等々。あらゆるチェック項目をクリアし、更にお客様に合わせて個別のおもてなしがなされる。このおもてなしは今日は僕らの仕事ではない。
「ふむふむ。こんなとこに綿ぼこりが」
「え…………!?」
綿ぼこり!?僕の完璧な仕事っぷりが……綿ぼこりはどこですか!
と、思ったら直ぐ目の前に千原さんの顔が。
「袖に綿ぼこり付いてるよ、七瀬君」
「あっ…………はい……」
僕は突然のことに吃驚して背中を勢い良く壁にぶつけてしまう。ちょっとだけ痛い。
そして、千原さんは僕の手を取ると、手袋をした指先で袖に付いていた小さな綿ぼこりを摘まんだ。
「これでパーフェクトだね」
「ありがとうございます」
「何のこれしき。でもこれ、僕にポイントあったりするんじゃない?元チーフにはない気遣い!」
?
ポイント制って、なんの?
「よし、休憩時間にしよう。ねぇ、今日は一緒にご飯食べない?」
「え……いつもは外で済まされていますよね?」
「まーね。でも今日は一緒に食べる相手がいないから」
千原さんは昼食はいつも外出先で済ませ、僕はこれまでに一度も社員食堂で彼を見たことはなかった。
「じゃあ、ご一緒させてください」
「違う違う。僕がご一緒させてもらうんだよ。ここの料理は久し振りだなー。ジャンクも飽きてきたし、七瀬君と食べるご飯は凄く美味しそうだ」
そんなに期待されても困る。それに、期待されるほど僕は口下手になるのだ。だから、僕は「世間話とか期待しないでください!」と先手を打っておいた。
「どーして食堂に貴方がいて、僕達とテーブル囲んでるんですかー」
ずずず……グラスにバニラアイスやらクッキーやらを詰め、サイダーを掛けたそれ。突き刺したストローから音を発ててジュースを飲む千原さんは目を皿にして前方を睨んでいた。
「ここの飯が旨くて、俺がこいつと昼飯食いたいから」
と、隣の僕を見るのは僕の追跡者だ。
「先客いるの見えません?」
ずずずずず……っごほごほ。
無理して飲まずとも。
「俺には俺の元部下で非雇用者が見える」
「あれー?元上司で雇用主様の横暴にあっている可愛い元部下の姿が見えませんかねー?」
語尾が怪しくなってきてませんか、千原さん。
喧嘩売ってません?この人は雇い主様ですよ。
俺様変態野郎でも雇ってくれてる人ですよ。繰り返すけど、俺様変態野郎でもね。
「おい、七瀬。俺は俺様変態野郎の雇い主様か。随分だな」
…………………………僕のバカ!思ってることだだ漏れじゃないか!
「お前、またそれか?餡パン以外にも食べてるのか?」
「ああ、僕の餡パン……」
千原さんとほのぼの昼食にしていたら、最高責任者こと先輩が無言で僕の隣に着席した。完全にストーカーの域に入っている気がする。
そして、千原さんに嫌がられ、僕は内心をぽろぽろ溢し、最近僕の中でブームの餡パンを奪われて現在に至る。
「ここの餡パン、美味しいんです」
「美味しいからって同じもの毎日食べているな。これは俺が貰う」
「何言ってるんですか!僕の食べ掛けですよ!やめてください!」
僕は変態の餌食になりかけている餡パンを奪おうと席を立つ。先輩も立ち上がると餡パンを掲げた。
これじゃあ、公開処刑だ。
「返してください!」
「嫌だ」
コノヤロウ……。
この人は我が儘小学生並だぞ。
と、最高責任者様に本気で怒鳴ろうとした時、
「僕の大事な部下を弄るのやめてくれませんかねぇ?煉葉様」
僕よりも背の高い千原さんが先輩から餡パンを奪った。そして、僕の腕を掴んだ千原さんは僕を食堂の外へと引っ張る。途中で使用済み食器を返却口に置き、どんどん進む。
「あ……千原さん……」
さっきの声はまるで知らない人の声だった。低くて……怖い。怒った?
見上げた横顔からは、僕には表情の意味が分からなかった。
そしてとうとう、先輩を食堂に置いてきぼりにし、僕達は表へと繋がるドアの手前に来ていた。
千原さんの手がやっと外れる。
「…………千原さん?」
僕は千原さんの背中にそっと声を掛けた。
「これ、どーぞ」
くるりと振り返った千原さんはいつもの顔で僕に餡パンを渡してくれる。僕は餡パンが返ってきて嬉しいのだと思う。けれど、千原さんがとても親しい仲だと思っていた先輩と喧嘩をするみたいになってしまったのは悲しかった。
僕の……せい。
「ん?七瀬君?表情暗くしてどうしたの?」
「…………ごめんなさい」
もし僕に先輩を叱りつける力があれば、
もし僕が先輩よりも背が高ければ、
もし僕が千原さんと食堂でご飯を食べなければ、
もし僕が国都に就職しようと思わなければ、
もし僕が先輩に会わなければ、
もし先輩が僕を見付けなければ、
こんな悲しいことにはならなかったのに。
「あ、そっか。ごめんね、七瀬君。七瀬君はとっても優しいんだね」
「?」
どうして千原さんが謝るのだろう。それに何が「そっか」なのだろう。
「僕とチーフはあんなの当たり前だけど、七瀬君は気遣い屋さんだから、辛かったんでしょ?」
……よく分からない。
僕にはこの悲しい感情がどうして沸くのか、自分でも分からないのだ。
「七瀬君はきらきらだ。だから僕は……君が好きなのかなぁ……」
千原さんが僕の首に触れた。
首に触れられるのが苦手な僕は体がびくりと震えて動かなくなってしまう。
千原さんの顔が近い。
吐息が聞こえる。
「あ……千原さ…………」
「……………………」
寄り目になると目が痛くなるので僕は反射的にぎゅっと目を瞑った。
わしゃわしゃ。
千原さんに頭を撫でられた。
「あはは。これじゃあ、チーフがあんな猛アタックをするわけだ。チーフも天然だけど、七瀬君も天然だね。さっきのあれ、好きな子をからかう子供にしか見えなかったし」
「?」
「はー…………取り敢えず、さっきは僕がライバルの範疇外だったことに苛立ってチーフに喧嘩売ってごめんね。七瀬君は気にしなくていいよ。でも、七瀬君は餡パンが好きなんだね」
「ここの餡パン、凄く美味しいんです」
散々遊ばれた僕の食べ掛け餡パン。
食べ物で遊んでごめんね。
「ここならチーフに邪魔されないけど、ここで食べる?」
立って食べるのは別に構わない。
ただ、やっぱり……。
「千原さんが先輩とぎくしゃくするのは嫌です。僕、話付けてきます」
「んー、今のチーフにはごほーびな気がするけど、宜しく頼もうかな。僕はお散歩して仕事に戻るよ。七瀬君はお昼休み終わったら藤のとこに行ってね」
「分かりました」
午後はベルスタッフの手伝いのようだ。
藤さんのところにはこれまでに4回は手伝いに行っている。
千原さんは一瞬で仕事の顔になると背筋を伸ばしてドアの向こうへと消えた。
ここの人達は本当に凄い。表と裏がきちっとしている。別に性格が反転するとかではなくて、公私混同がなく、公私を鋼か何かで区切ってるみたいな。
「餡パン……美味しい……」
食べ掛け餡パンを持ち歩くのもあれなので、僕は結局、その場で餡パンを食べた。
食堂が静かだ。
いつもは食堂は皆がリラックスできる数少ない場所だから、話し声とか絶えないのに。
なのに、食堂の中は静まり返り、珍しく無人かと思えば、見渡す限りの職員全員が起立して…………。
ガタンッ。
「あ……!」
ヤバそうな雰囲気に一時退避をしようとして、僕は近くに積まれていた椅子に足を引っ掛けてしまった。椅子のタワーを崩しはしなかったが、タワーが揺れて椅子がぶつかり合う音と驚いた僕の悲鳴が食堂中に響いてしまう。
統制された動きで皆の視線が僕に集まった。
謝りたいけど、これ以上音を出したら殺される気がして僕は動けなくなる。
怖い。
食堂に戻るんじゃなかった。
皆の目が怖い。
千原さんと散歩してればよかった。
見ないで。
餡パンなんか食べなければ……。
見ないでよ!
「会長、穂桷様のお迎えにあがらなくてはいけないので、先に失礼させてもらいます」
「ん。明後日は頼んだぞ」
「はい」
知っている人の声。
皆の視線が食堂の中央へと逸れる。
そして、人の間から知っている人が現れて、僕の前に立った。
「行くぞ、七瀬」
「は、はい」
僕は呼ばれたからその人に付いて行く。そう、自然に。
食堂を出て、ずっとずっと付いて行く。
地下駐車場へと続く階段を降りて……。
「大丈夫だったか?」
駐車場の隅。
向かい合って分かるのは、彼の背が高いと言うこと。
誰かの指が視界に現れ、そっと僕の目尻に触れた。
生暖かい水滴が頬に跳ねる。
「怖い思いしたよな」
「…………別に」
「別にって……泣きながら言うな」
「な、泣いてなんか――」
僕は慌てて目を擦ろうとしたが、それが出来なかった。
…………どうして僕はこの人に抱き締められているのだ。
僕の上腕ごと抱き締められていて、腕が動かない。
「お前はもう立派なここの職員だ。自信を持っていいんだ」
自信を持つのは難しい。
だって、僕には……。
「自信って……」
「七瀬?」
「僕には誰もいない……僕は親に捨てられました。最初は父に。次は母に。僕には自信なんて持てません……」
「それは昔の話だろう?」
そうだ。過去の話だ。
だから何だと言うのだ。
「だったら先輩が言ってくださいよ!僕が必要だって!」
今の僕には誰も求めてくれる人はいない。必要だと言ってくれた人は皆僕の傍からいなくなった。
「昨晩の話聞いてなかったのか…………」
昨晩?
先輩と何処で寝るか談義をして、僕は脱衣室へ。
で、寝ちゃって。
「だからお前は……」
いつものむっつり顔に呆れが入っている。
“お前は”なんなんですか……。
「いいか、俺は昔――」
「あっれー?ここ、駐車場だよね?」
やばい。
第三者の声に僕は先輩の腕からしゃがんで逃れる。先輩も一応、節度ある大人として僕から適度に距離を取った。そして、先輩も僕も声の主を探して周囲を見渡す。
「んー、迷子だよぉ。早くパフェ食べたいのにー」
並ぶ車の間から眩い金色が見えた。
日本語の流暢な外人さん……お客様リストに載っていたかな?
「お客様、道に迷われましたか?私、ここのスタッフの者です。良ければ案内をさせてください」
躊躇せず先輩が金髪さんのもとへ。僕も出遅れて付いて行く。
「あ、僕達ここのレストランに行きたかったんです。評判のモカパフェ食べに」
僕も食べたいと思っていたモカパフェか。時間はあってもお金がない僕が食べられずにいるあれだ。
それにしても、近くで見る金髪さんは今世紀稀に見る美男子だった。
透き通った翡翠色の瞳。
真っ白な肌。
絹みたいに細くて輝く金髪。
まるでアニメの中から出てきたみたいだ。
そして、もう一人。
「お仕事中に申し訳ありません。お手数お掛けします」
僕はその声を聞いたとき、胸が熱くなるのを感じた。
だけど、僕はその声の主を見付けて胸が痛くなる。
見間違いなどではない。
僕はあいつを見間違うはずなどない。
僕はあいつの身体全てを知っているのだから。
「ど…………して……」
どうして隼人がここにいるんだ。
もうすぐクリスマスですよ!めりくり♪
ついでにあけおめ!