八尋(2.5)
その日、社長秘書の仕事を終えた大野優一はとある高層マンションのとある一室の前にいた。
そして、チャイムを押す――
「良く来てくれたな。入れ」
優一が呼び鈴を鳴らすより先に玄関のドアが開き、優一は中へと招かれた。
「急に呼び出してすまない」
「俺は久し振りに八尋君の顔が見れて嬉しいよ」
「俺もだ。陸奥はもう来ている」
「陸奥さんもいるの?」
広いリビングに通され、ソファーには陸奥。彼は現れた優一に軽く頭を下げた。
「今晩は、大野さん」
「わあ、この三人で集まるのホントに懐かしい」
優一は煉葉グループ系列会社の社長秘書。陸奥は煉葉グループ会長の秘書。そして、八尋は国都ホテル雑務のチーフ。
三人が煉葉本家を離れて別々の場所で生活し始めて約2年は経っていた。その間も時々は連絡を取っていたが、時間が合わずに互いに会うことはなかった。
「お久し振りです、陸奥さん」
優一は陸奥の隣に座る。
「大野はコーヒーでいいか?」
「うん。ありがとう」
本来ならお茶を出す作業は、離れて過ごしていてもまだ八尋の世話役である優一達の仕事だ。しかし、ここは初めて来た八尋の家であり、八尋の世話になるのが礼儀。それでも八尋が一人で生活し、客人にお茶を出すその仕草に成長を見て優一は八尋の横顔に笑みを溢した。
「それで?社長が俺を早退させたってことは、会長が指示したからだ。会長直々なんて珍しい」
「そうだな。陸奥はもう知っているかもしれないな」
向かい合わせのソファーに八尋対陸奥と優一で座る。優一が久し振りの再会に浸る前に用事を済ませておこうと真っ先に切り出した。
「私は八尋様の我が儘に付き合って来てくれとだけ伺っています」
「八尋君の我が儘?」
八尋が我が儘を言ったことも、それを会長――八尋の父親が聞き入れたことも、優一には初めてのことで驚いた。一体どんな我が儘なのか彼には想像もできない。
「俺は煉葉グループ最大のホテルである『国都』に七瀬咲也を雑務新人として採用したい。その条件として会長はお前達を七瀬と同じ新人として採用し、七瀬を見張らせる。そして俺は――」
「ちょっと待って!……七瀬咲也って誰?」
優一は八尋の口から親戚や煉葉グループの幹部、婚約者以外の名前が出てきて驚いた。
優一にはずっと願ってきたことがあるが、それは八尋に自分や陸奥以外の純粋な友人ができるということ。友人と他愛もない話をし、笑うこと。その為に彼は、八尋の話を全て聞き終える前につい口を挟んでしまった。
しかし、そんな急かすような優一の失礼に八尋は怒ることもなくゆっくりと答える。
「今年の国都ホテル新人採用面接を落ちる予定の男だ」
「八尋君とどういう関係が?」
「その男は――七瀬咲也は俺が恩返しをしたい人間だ」
「…………恩……返し……?」
いっそのこと“知り合い”程度でも良かったと言うのに、“恩返しをしたい人間”と来た。
優一の頭の中には『鶴の恩返し』と『猫の恩返し』の単語がふわふわと浮かんで消えた。
「じゃあ、八尋君は恩返しに国都不採用予定の七瀬咲也って人を採用させてあげたいってこと?八尋君が貰った恩って何?」
仕事以外でできた八尋の人間関係について聞くなど初めてで、優一は興奮を隠せずに早口で尋ねる。
「……………………言葉だ。俺に力をくれた言葉だ」
「…………七瀬咲也は八尋君の心の支え?」
「………………ああ」
真っ向から言われ、優一は驚くどころか何も言えなくなってソファーに背を預けた。八尋もそれを見て幾らか体勢を崩した。
「七瀬咲也を採用する代わりにお前達を同時採用する形で七瀬咲也を見張らせること。そして七瀬咲也が正式な雑務になった時、俺は国都ホテル最高責任者になること。会長が出した条件は以上だ」
「国都ホテル最高責任者……よろしいのですか?」
敢えて陸奥が尋ねる。
「遅かれ早かれ俺は他の奴等を理不尽にも抜いて行くんだ」
それでも八尋は頑なに雑務新人からチーフへと偽名を使って地道に登り詰めて来た。いつかは煉葉グループを背負う運命だとしても。
「……八尋君がそうしてでも恩を返したい――ということ?」
「そういうことだ」
こんなにも八尋が入れ込んだ人間などいただろうか。
否、誰とも距離を置いてきた。
決められた友人や決められた婚約者から遠く距離を置いてきた。
だが――
「それは八尋君が一番嫌いなものなんじゃないの?違う?」
「それは……」
「それは八尋君のエゴだよ」
八尋がぴくりと肩を震わせる。
「本当にそれが彼への恩返し?本当に八尋君はそう思っている?」
「……確かに……俺の我が儘かもしれない……だけど、七瀬に見せてやりたいんだ。お願いだ!」
ソファーから立ち上がり、八尋が深々と頭を下げた。
自分たちの雇主の一人息子が使用人に頭を下げているのだ。
「や、八尋君!頭上げてよ!分かった!…………八尋君のお願いなら聞くよ……それに、これって八尋君の初めてのお願いだよね……」
八尋の人生の半分以上を共に過ごして来た優一にとって"お願い"は初めてだった。何故なら、まず八尋には欲がなかったから。
その八尋が頭を下げてまで頼み込んでいる。
会長が異例の昇進で陸奥を秘書にしたというのに、その彼を息子の我が儘に付き合わせているその理由が優一には分かった気がした。
欲は経営者には大事な感情だ。ありすぎてはいけないが、なさすぎてもいけない感情。
「でも、八尋君、忘れないで。俺が反対したことを」
「ありがとう、大野」
「陸奥さんは?」
陸奥は立つと、頭を下げる八尋の肩に手を触れた。八尋の顔が上がる。
「私も七瀬さんの採用は反対です。ですが、八尋様。私はあなたの手助けはいたしませんので、自分の力で七瀬さんにその景色を見せてあげてください」
「ありがとう、陸奥」
八尋が笑った。
驚いた。
会長と話をし、急ぎ足でエレベーターに乗り、早く七瀬に会いたいと思っていたら本人から会いに来てくれるとは。
「あ……あ、ああああんたはぁああ!!!!!」
煩い。
「表で叫ぶな」
折角の再会で第一声がこれとは、いささか悲しい。しかし、七瀬にとっては初対面であんなことをしてしまったのだから当然と言えば当然の反応か。
「初日からこれかよ。迷子の仔猫さんには鈴が必要か?」
俺はうまく喋れているだろうか。間違っていないだろうか。
しかし、そもそも間違いが分からないが。
むっつり顔の七瀬。怒りに満ちた表情だ。
だがまぁ、来てくれて良かった。
俺の力でこれからお前に色々なものを見せてやるからな、七瀬。