八尋
春風に棚引くレースの向こうは奥様の庭と青空。
皺一つないワイシャツを袖口のボタンと第一ボタンを外したまま着る彼。
頬杖を突いた彼は風に黒髪を揺らしながら、窓から遠くを眺めていた。
何を見ているのだろう?
いや、何も見ていないのだろう。
何を考えているのだろう?
いや、何も考えていないのだろう。
ただ、何かを感じているのだろう。
「八尋君、聞いてる?」
優一は手にしていた紙束を八尋が肘を突くテーブルに置く。優一の問い掛けに八尋は手のひらに凭れさせていた顔を上げ、優一の方を振り返った。
八尋の目は優一を透かした先に焦点を合わせ、それから優一の顔を認識する。そして、傍に置かれた紙束に視線を移した。
「あ……………………いや…………」
紙束を見詰めた八尋が口を開けて閉じる。
「……八尋君から言ったんだよね?」
各方面における煉葉の立ち位置について――昨晩、部屋にやってきた八尋に聞かれた優一は、八尋が高校に行っている間に調べたことを話していたところであった。しかし、聞いてきたはずの当の本人は窓の外ばかりを見て上の空。
「どこまでは聞いてたの?もしかして最初から聞いてなかった?」
優一が質問するが、
「…………お前はあの花の名前を知っているか?」
八尋が優一の質問に質問で返す。
「奥様が育てているバラ。何バラかは知らないけれど」
支えに絡み付いた棘のあるツル。幾重にも重なる花弁。
庭に咲き誇る深紅の花達がバラだということは優一でも分かる。
しかし、八尋は「そうか……」と呟くと席を立った。
「え?八尋君?」
「少し眠る。……この資料は後で読ませてもらうから。ありがとう」
紙束を手に優一の隣を過ぎて部屋を出ていった八尋。
「…………八尋君……」
優一は彼の背中を見詰めることしかできなかった。
「あの、陸奥さん」
「はい。なんでしょうか、大野さん」
「昨日、八尋君があの花の名前を知っているかと聞いてきたんです。だから、俺はバラって答えたんです。そしたら、八尋君は俺の返答にがっかりしたみたいになって……。あの花は奥様が育てているバラですよね?」
八尋の世話係を任された優一と陸奥は、優一が八尋から質問をされた部屋の掃除をしていた。
「ええ。あちらのはアンクル・ウォルター、そして、まだ蕾のあちらはコモドーレというバラの品種です」
「ちゃんとした名前で答えなかったから八尋君は不機嫌になったのかな……」
“何バラか”ということが八尋にとっては一番聞きたかったことなのかも知れない。
優一は大切な人の期待に添えなかった自分に小さく溜め息を吐いた。
「大野さん、あとで一緒にお庭に参りませんか?」
「庭に……ですか?」
「八尋様の“あの花”を見に行くんです」
ガラステーブルを曇り一つなく磨きあげた陸奥は困惑する優一に微笑み掛ける。そして、優一は尊敬する陸奥が言うならばと、その提案を承諾した。
“ひぃ”がいくつ付くかは知らないが、俺のひぃひぃひぃ……じいさんの代から大野は煉葉の家に仕えてきた。しかし、昔は“将軍と武士”とか“地主と百姓”みたいな主従関係もありだと思うけど、現代社会で“主人と従者”はいい加減古臭い。
“従者”ってなんだ。
ファンタジーか。
RPGか。
ことあるごとに“危ない、――様!”って叫びまくるのか。
ですます調か。
メイド服とかタキシードとかの着用が必須か。
マジでくだらないだろ。
今は弱肉強食で下剋上の時代だ。従者でいるってことは一生、2番以下でいるってことだ。
俺は嫌だ。
「でも、1番も嫌だなぁ……」
1番はそれより上がない。
できる奴ってのは2番との差を広げていこうとするのだろうけど、俺には無理だ。だって、終わりがない道を走り続けるなんて最悪。でも、やっと手に入れた1番を追い越されるのも嫌だ。
「後ろから応援……だよな、俺は」
俺は後ろから茶々を入れつつ、一緒に走りたいのだ。
「大野、待たせたな」
八尋君がパジャマ姿で部屋に入ってきた。
温かくなってきたとはいえ、風呂上がりに髪を濡らしたままでは体が冷える。
「タオル、持ってくるね。あと、お茶をいれるから」
「いや。お前の用件が先だ」
「……じゃあ、これを着て。風邪を引くから」
八尋君は俺の上着を大人しく羽織る。
どうやらそれなりには寒かったようだ。
「それで?」
「“あの花”の名前はね、スミレって言うんだって」
午前、俺は庭師にお願いしてバレないように掘り起こしたスミレ一株を買ってきた安い鉢に植え替えた。
スミレは小さくても丈夫な花だと庭師が言っていた。
だから、少々乱暴な植え替えだったが、枯れずに無事に育ってくれるだろう。
「だけどさ、八尋君って目がいいんだね。俺は陸奥さんと庭に降りるまでバラ園にスミレが生えてるとか分からなかった」
俺はビニール袋に入れたスミレの鉢を床に置いた。八尋君はしゃがむとビニール袋を広げて中を見る。
「これ……」
「庭師が言っていたんだ。週末にはバラの手入れで奥様が抜くだろうって。だけどスミレって可愛いし、俺が少し貰ってきた。八尋君、この鉢を貰ってくれる?」
「俺に?」
「うん」
出来れば八尋君に貰って欲しかった。
八尋君が久々に興味を示したものだから関わることの良さを知って欲しいし、何かを育てる経験もさせたい。
「俺、毎日水やりする自信ないけど……」
「大丈夫。俺も陸奥さんも時々見るから」
「俺……」
スミレを見下ろしたまま黙り込む八尋君。
彼の裸足が白い。
彼の指も白い。
彼の唇も白い。
「あ……八尋君、部屋に戻ろう?」
あれみたいだ。
ベッドに寝かせて、主治医に連絡して、執事長に報告だな。旦那様と奥様には執事長から連絡が行くだろう。
「立てる?」
「……………………無理だ」
俺は青い顔をした八尋君を背負おうとし、八尋君が微かに抵抗した。
「八尋君?」
「スミレ……」
掠れて震える頼りなくも強い声音。八尋君が小さな紫の花をとてもいとおしそうに呼んだのだ。
「俺が持つから安心して」
俺は中指一本をビニール袋の取っ手に引っ掛けて八尋君を背負った。
…………重くなってる。また少し成長したんだ。
「だから八尋君、今は何も考えずに休んで」
八尋君は考えてはいけない。過去も未来も何もかもを考えてはいけない。
それが八尋君の薬になるのだから。
「スミレ……処分するんですか?」
「八尋様の為だ」
確かに、このスミレは八尋君の不安の原因を与えた。
だけど、八尋君にとってこのスミレは何らかの深い意味を持つはずなんだ。
「ですが……」
「優一、スミレは雑草だ。鉢に入れて眺めるものじゃない。わざわざ八尋様の目を引くようにせずとも良いだろう?」
『馬鹿に蔓延るだけの雑草のくせに』
「スミレは雑草じゃない!!……です」
俺は八尋君の部屋の前だと言うのに自分でも止められずに叫んでいた。俺の先輩執事は目を丸くしてから俺を睨む。
「部屋で八尋様が休んでいられるんだぞ!」
「すみません」
「兎に角、これは八尋様の目の届かないところに。いいな」
スミレの鉢を俺の腕に返した先輩執事は廊下を進む。
「…………皆勝手だ……」
「何故ですか?」
八尋君の部屋から現れた陸奥さんに招かれて俺は八尋君の部屋に入った。
八尋君の部屋には机とベッド以外はそれといったものはない。別に八尋君が望めば、大抵のものは八尋君の手に入る。
しかし、八尋君には欲がない。
八尋君には自分の望むものが思い付かない。
だから、八尋君の部屋には最低限のものしかない。
「だって!…………だって、八尋君の見るものすらコントロールして……今更じゃないか!八尋君はずっとほっとかれてきた!愛情だって全部八尋君のお兄さんにだけだった!それを……!!」
止めて欲しい。
陸奥さんに俺を止めて欲しい。
「今更、八尋君を便利な道具のように扱うなんて残酷だ!」
誰でもいいから俺を止めて欲しい。
「このままじゃ八尋君は何もない人形になってしまう!」
俺を止めて――
「大野、俺のことでかっかし過ぎ」
「八尋君……ごめっ……煩かったよね……」
まだ顔色の悪い八尋君がベッドから上体を起こしていた。陸奥さんが水差しからグラスに水を注ぎ、それを八尋君に渡す。
「煩いが、俺の為に言っているんだから俺はお前に謝罪を求めようとは思わない。陸奥は?」
「私は大野さんの熱い一面が見れたので」
クスリと陸奥さんが笑った。
八尋君はにやりと……。
「大野、そのスミレは俺のものだ。誰が何と言おうと、俺が育てる」
「あ……え……でも……」
先輩執事の言い分は一理ある。
この花が八尋君の感情を悪い方へ昂らせたのだ。
「お前も俺の見るものすら制限するのか?」
俺はそんなことしたくない。
決められてしまった運命を背負う八尋君には、自身が壊れてしまわぬように強くなるためにも、もっと色々なことを知る必要がある。人を思いやることも、人を愛することも。
八尋君は幼少期における心に関する経験が他者よりも著しく浅い。だから、今こそ他者よりも経験を積む必要がある。それも早急に。
少々、手荒にでも。
「うん、分かったよ。これは八尋君のものだ」
「ありがとう、大野」
八尋君が鉢を腕に抱いて花を見る。
「大事に育てて絶対に枯らさないから」
「うん」
これで心に関する経験が一つ増えた。八尋君がまた一歩、成長したのだ。
しかし、それから1週間後にはスミレは枯れてしまった。