互いの距離
さてさて、僕が国都で働き初めて6ヶ月ちょいとなるが、なんとまぁ、凄いことが起きた。
え?先輩とのラブエピソード?
先輩は「俺、仕事人だから少しぐらい休んでも平気」と歯をキラリと光らせていたが、お偉いさんに散々怒られて国都の最上階に軟禁状態。ここ2週間は働き詰めみたいだ。もう10月で秋の気配が濃くなってきているし。
だから、先輩とのラブなんて何一つない。
てか、正直に言って、今はディープキス以上は遠慮したい。
というわけで、ラブエピソードはまだ期待しないで欲しい。僕も全然実感湧いてないし。
そんなことより、本日、僕は“担当”になったのだ!
国都雑務として掃除に使いっぱしりと、下っぱヤンキーみたいなことばかりしていたが、とうとう、“担当”を得た。即ち、“~様担当”ということだ。
あるお客様のおもてなし一切を任されたのだ!
ぶっちゃけて言うが、今月分のマネーはいつもより少しアップするし、何より、エリートへの階段を一段上ったのだ。清掃道具完備の台車『掃除マスターさん』をせっせと押してきた今までの苦労の日々が報われたのだ。
労働の達成感ってやっぱりいい……!
「…………全然良くない……」
労働の達成感が重量のある塊になって消化されずに僕の胃の中に転がっている気分だ。
「視線が痛い……」
国都の裏手をお客様に案内している僕だが、擦れ違う従業員が事前に決めたかのように僕とお客様に針みたいな視線を向けてくる。
………………何で?
「これだけ広いのに、今のところ、衛生面はバッチリですね」
「まぁな。だがな、ここは今まで一度もボロを出したことはないが、気の抜けた頃が隙の突き時なんだ」
「…………隙の突き時って……」
と、休憩エリアに案内した僕の右斜め4メートル前方でソファーに座って話している二人が、僕の“担当お客様”だ。
顔を合わせた時に二人が見せてきた身分証には、揃って“労働課監査部”の文字。普通は部の次に課だが、その理由は今は珍しい眼鏡童顔の司野さんが説明してくれた。
それも、生の大阪弁らしい方言混じりで。
『もともと労働課は監査部として存在してたんや。労働課の他の部署もそれぞれ別々に存在してた。けど、時代の進む内にあれやこれやと労働形態が変化し、多様化し、面倒な手続きが増えたことで、いっそのこと労働関係を一つに纏めてしまおうという意見が出たんや。その結果がこれ。一つの建物に部署を詰め込んだんや。で、労働課が後付けされた。せやから、課の後に部なんや』
懇切丁寧に教えてくれた司野さんは僕を僅かに見上げる格好でイキイキしていて……ちょっと可愛くもあった。
でも、どうして国都の皆は直角お辞儀をしながら険悪ムード全開なのだろうか。
千原さんは『頑張ってね、七瀬君。彼らの承認はホテルの星の数の証だから』とガッツポーズに笑顔だったのに。
「いつかこういうホテルに泊まってみたいなぁ」
「マナーのない奴はお断りじゃないのか?」
「俺、マナーあるで!」
「敬語消えてるぞ。マナーないじゃねぇか」
「うう……気ぃつけます」
拳骨一つ。
司野さんは上司らしい瑞牧さんにぺこりと頭を下げた。しかし、見た目は頑張り屋な司野さんは20度のお辞儀の下でちろっと舌を出していた。
「あの、次はどちらを案内しましょうか?」
「あ、えっと……第一と第二調理室、第六から第九倉庫を」
司野さんが答えてくれた場所は纏まりがあるように聞こえるが、膨大な敷地に建つ国都では階段やらエレベーターの位置を把握していないと時間が掛かるのだ。表はお客様一番でエレベーターが十分に設置されている。で、その裏では「体力作りも兼ねて階段使え。エレベーターに無闇に乗ったら給料カット」と、数少ない階段を従業員は駆使するのだ。
しかし、今回は裏をメインに案内すると言ってもお客様を連れているから、エレベーターをフル活用しても問題はないのだ。となると、ここからそれだけ回るなら、次行くべきは……。
「でしたら、第二調理室、第一調理室、第九第八第七第五第六倉庫の順に案内します」
「こんなに広いホテルで案内は本当に助かります」
「こちらこそ、監査のお役に立てて光栄です」
今月分の給料は増えるし、90度お辞儀じゃ足りないぐらいだ。
と、
「み、瑞牧さん……俺……俺っ……俺っ!」
「え……?」
突然、司野さんが俯き、肩を震わせて“俺々病”みたいになった。
僕が何かした?
「……司野さん?」
「気にしなくていい。俺々病か何かだ」
瑞牧さんはそう言うが、“俺々病”って本当にあるのか!?
「何ゆうてんですか、瑞牧さん!俺々病なんてありませんし、俺は監査を快く思われる日が来るなんて初めてで……」
司野さんの目はうるうるしていた。…………いや、涙が少し溢れている。
「俺は擦れ違う従業員全員に睨まれた気がするが?」
瑞牧さんに遠慮なく言われてしまった。だけど、僕もあの視線は露骨過ぎだったと思う。
「せやけど、七瀬さんには……七瀬さんだけには…………監査部って遣り甲斐があったんやなぁと今思ったんや」
泣き顔に笑顔の司野さん。
僕のお世辞というか、たったのあれだけで……やばいよ、泣けてくる。感謝された感激と不憫な司野さんから貰い泣きしちゃうよ。
言葉通り現金な僕でご免なさい。僕の方がむしろ純粋な司野さんに会えて光栄だよ。
「普通は監査に遣り甲斐なんて求めねぇよ」
司野さんと正反対の意見は瑞牧さんのものだ。
しかし、完璧なホテル従業員ですら顔をしかめる監査に遣り甲斐を見付けるのは難しそうだが、司野さんの涙なしでは聞けない話の後では、その当然の意見は勇気のある行為だなぁと思う。
「せやったら、なんで瑞牧さんは監査部におるんですか?」
「それはな……」
それは?
「憂さ晴らしと金」
人生の先輩からの生々しいコメントだ。返事が“金”だけではないあたり、既に人生を謳歌しているに違いない。
「聞くんやなかった……上司がそんな心中で仕事してたなんて間違っても聞くんやなかった……」
「あっそ。俺はお前がどんな理由で仕事をしてようが、俺の代わりになって働けるならいい。じゃ、ここで待ってるから」
「代わりにはなりません!一緒に働いてくださいよ!」
第二調理室前、料理人用の休憩所のソファーに瑞牧さんは腰を下ろした。ソファーに背を預け、いい寛ぎっぷりだが、怠ける瑞牧さんに司野さんが怒る。
「報告書に書きますよ!?瑞牧さんがサボったって!」
本人は怒りMAXとやらなのだろうが、僕よりも背が低くて小柄な司野さんがボードとペンを大きく振っても可愛いの一言に尽きる。司野さんって愛嬌があるなぁ……とか、絶対に本人には言えない。
「もう、俺一人で仕事しますから!」
僕が司野さんの愛嬌について考えている間に司野さんはさっさと調理室へ。
って、入る前に消毒しないと料理人さん達にぶちギレられ――
「てめぇ!何きたねぇ格好で調理場に足入れようとしてんだよ」
司野さんが薄くドアを開けただけで、怒声が飛んできた。形容できない高音が僕の耳に残る。
“口悪くてスミマセン!第二調理室は台所を預かるチーフが鬼で有名なんです!”
などと、今更な台詞が次々と僕の脳内で再生されるが、口には出来なかった。だって、もし隠れたアダ名が“鬼”だとかバレてチーフに拗ねられたら、国都で出されるスイーツ全般がその瞬間から消える。有名人とか、お金持ちの口に入る予定だったスイーツがお詫びの言葉や謝礼金、その他サービスに代わる。秒単位で経営している国都は大混乱だ。
そしたら、僕はクビ。クビどころか生首だ。いや、現実的に考えて金か!?僕、借金まみれで怖いお兄さんにマグロ漁船に乗せられちゃったり!?
取り敢えず、僕は調理室前で腰を抜かした司野さんを休憩所のソファーまで運んだ。
「わわ……わわわ……」
あれだけ意気込んだ司野さんでも鬼さんの怒鳴り声だけでアウトらしい。僕もスーツの中の足が僅かにガクブルだ。
「司野さん、申し訳ありません。調理室には、まずあちらで殺菌消毒をしてからではないと入ってはいけないんです。先に言っておけば良かった……」
「いえ、監査官として……俺の失態や…………あかん……」
ぐすんっ。
司野さんは咄嗟に僕から顔を隠したが、音は聞こえた。
泣いちゃった……?
ぐすっ……ぐすっ……。
絶対に泣いてるよ。
どうしよう。
慰めるべき?
でも、司野さんはもう大人だし、慰めたりしたら余計な気を遣わせるかも。
でもでも、肩も震わせて……大人でも怖いものは怖いし。
「…………トイレ……行って……きます……」
声を掛けるか掛けまいかで悩んでいたら、司野さんが掠れた声で囁いて背中を丸めたまま近くのトイレへと歩いて行った。そして、僕は声を掛けるキッカケを失う。
ああ、僕の優柔不断め!こうなったらトイレまで慰めに行くとか絶対に無理だから!
「七瀬さん」
「は、はい!?」
「消毒の要領を教えてもらえますか?」
眠たげな目をしながらも、背筋はピンと伸び、瑞牧さんがハキハキした声音で僕の前方に立っていた。
言っては悪いが、もじかしたら瑞牧さんはやる気がなさそうな顔が標準なのかもしれない。心の中は司野さんのことを想う部下を人一倍心配するナイスガイなのかも。
「消毒ですね。では、こちらに来てください」
きっと、瑞牧さんは本当は優しいハードボイルド紳士なんだ。
――……と、僕が思って直ぐに、
「司野がサボったって報告書には書くか……まったく、仕事なんてちゃっちゃと終わらせて煙草吸いてぇ……」
司野さんは泣いちゃったのに、サボりで報告って……。やっぱり司野さんが不憫なような。
でも、僕は消毒を終えて調理室に堂々と入る瑞牧さんに付いていくしかないのだ。
司野さん…………なんか、ホントに申し訳ないです。
「ケーキバイキングや!」
司野さんは大喜び。
何より何よりです。
「こんな高級そうなケーキ、ホンマに好きなだけ食べてええんですか!?」
「遠慮なくどうぞ」
寧ろ、僕ら従業員へのまかないに、司野さんが全身使って喜びを表現してくれるなんて。
こんなにスキップが似合う成人男性に会ったのは初めてだ。
「貰って帰ってもええかったりします?このシュークリームとか。……図々しいかな……」
「どうぞお持ち帰りください。持ち帰り用の箱がありますので」
「ホンマにありがとう、七瀬さん!」
案内と世話係の僕にこんなに感謝してくれるなんて……!
「では、少し待っててください」
棚の中に箱があるはず。
僕は各種スイーツを選び皿に盛る司野さんとテーブルの席に座ってコーヒーを啜る瑞牧さんから離れ、ガラス戸の棚から紙箱を取りに食堂を横切った。
途中、色々あったが、やはりお客様に感謝されると嬉しいし、国都で働いていて良かったなぁとつくづく思う。劇場だと大勢の客を相手にしても、一人ひとりの為にってのはなかなか難しい。まぁ、演技がどうのう以前に僕は蓮と違ってファンが全然いないからね。たったの一人だよ。でもきっと、僕は顔も知らないその人の為になら演技ができるかもしれない。
「七瀬も昼飯か?」
「え……先輩!?」
振り返った時には僕は先輩と壁に囲われてしまっていた。なんで先輩に会うと大体この囲われ配置なんだろう。
背が高いし、威圧感ありまくりだし。
「今日、一緒に帰らないか?」
「あの……今、仕事中です」
「あ、もしかして労働課の監査か?」
あ、監査のこと知っているんだ。
何かと面倒とか言っていたのに、お偉い様にこってり絞られて色々国都について叩き込まれたりしたのかな。
「俺も挨拶しないとな。でだ、仕事終わったら裏口に来いよ。いいな?」
「え、ちょ、まだ僕は一緒に帰るとか言ってない……!」
元上司だからって、最高責任者だからって……いや、最高責任者様には逆らえないか。
すると先輩は頭を左右に振った僕をじっと見下ろすと、まじめくさった顔で一言。
「俺達は恋人同士だろ?だから、俺は鈍感なお前が早くそれを自覚出来るようにわざわざ時間を割いてるんだ」
……………………。
右よーし!
左……よーし!
前方よーし!!
顎に狙いを定め、右手のひらを垂直に……。
食らえ!顎わ――
「りいぃ、いいっ、痛いですっ!!」
「1つだけ聞いてやろう。この暴力未遂はお前に給料を出している俺様にか?それとも、お前の恋人の俺にか?」
勿論、僕に給料を出している俺様野郎にです。
とか言ったら、僕の手首を捻る先輩に減給されそうだ。“お客様ボーナス”分がパーになる。
僕は周囲に人がいないことを確認して先輩に顎割りを食らわそうとしたが、先輩自身に阻止された。僕には瞬発力がまだまだ足りなかったみたいだ。
「あのですね、今、僕は労働課の方にお持ち帰り用の箱を持っていこうとしてたんです!待たせるわけにはいかないんです!放してください!」
僕は“必殺、話題逸らし”で対応したが、
「俺と一緒に帰える。約束しなきゃ放さない」
…………どうして僕はこの人の告白を受けたんだろうか。
「分かりましたよ!約束します!しーまーす!」
先輩の面倒くささが日に日に2乗されていってる気がする。成長するほど手に負えなくなる子供みたいな。
ま、僕には年の離れた弟も子供もいないから想像でしかないけど。従兄は皆年上だし。
「じゃあ、約束だ」
でも、先輩は一瞬だが子供のように屈託のない笑顔を見せたんだ。
そんなに僕と一緒に帰るのが嬉しいのかな……。
午後9時。
報告書を書き上げて雑務チーフに手渡し、腕時計を見たら長針と短針が直角を描いていた。
普段は17時には仕事が終わる。しかし今日は労働課の監査の付き添いとその報告書の提出があり、大幅に仕事時間が延びた。
「先輩との約束……」
具体的な時間は言わなかったけど、先輩は21時まで僕の仕事が延びるとは思っていなかっただろう。
裏口で待ち合わせとか、もう先輩は諦めて帰って………………るはずがない。
先輩は約束したら絶対に破らない。きっと僕を信じて待っている。
だからこそ、今日は僕は今まで時計を見ずに黙々と報告書を書いていたんだ。もし時計を見たら、裏口で待っているであろう先輩が気になって逆に時間が掛かってしまいそうだったから。
僕は駆け足で階段を降りていた。
「裏口……来たけどいない……」
搬入口の隣。裏口こと従業員通用口を出たが、先輩の姿は見当たらない。
「今日は遅かったねぇ、七瀬君。高橋君が君のことを待っていたよ」
「高橋君?……あ、先輩!おじいちゃん、先輩は帰っちゃいましたか?」
右に5メートル、前方に2メートル、左に1メートル進んで、その場で一回転。周辺を360度見渡してみても先輩は見つからず、僕は一旦、裏口に戻ろうとして声を掛けられた。
搬入口の管理兼守衛のおじいちゃんだ。
僕を『七瀬君』、先輩を『高橋君』と呼び、『おじいちゃん』と呼ばれたいと語る78歳の友さんはうろうろしていた僕を手招きした。丁度、おじいちゃんの口から先輩の名前(偽名だけど)が出たので、僕は先輩の行方をおじいちゃんに訊ねた。
「あっちからおいで」
ガラス越しに右を指さすおじいちゃん。
守衛室の出入り口から入ってこいと言うことらしい。
僕は初の守衛室訪問にドキドキしつつも、窓からは見えない何か凄そうな機械とか見れたりするんじゃないかという期待を持って、そっとドアノブを回した。
ボタンが沢山付いた盤があるだけで、ガ○ダムのコックピットみたいな凄い機械はないけど、コーヒーの香りが……和むなぁ。
「七瀬君、こっちこっち」
微笑したおじいちゃんの背後、1畳半の畳の上で座布団を枕に先輩が寝ていた。ブランケットが掛けられている。
「高橋君、七瀬君を待ちながら眠っちゃってねぇ。二人で一緒に帰るなんて、本当に久しぶりだ。仲直りしたんだねぇ」
おじいちゃんにも僕と先輩の微妙な空気を感じ取られていたらしい。僕は僅かに頭を下げ、軽く咳をしてごまかした。おじいちゃんは「そうかいそうかい」と、心地良さそうな安楽椅子から立ち上がり、僕の頭を一撫でしてから床より50センチは高い畳床に腰かけ、先輩の髪を撫でる。
国都最高責任者様に……すごいなぁ、おじいちゃんパワーだ。
「七瀬君も触るかい?」
いえ、僕にはそんな神業できません!!
「でも………………ちょっとだけなら……」
散々僕のこと撫で回すし、僕だって先輩の髪の毛ぐっちゃぐちゃにしてやる!
ぐいっ。
「お前は俺の唇にな」
「え!!!!?」
突如現れた知らない腕が僕の手首を掴み、一気に引っ張られる。僕は勢いに任せて先輩の頭を潰しかけ……僕の鈍い反射神経はギリギリ上司への悪行を事前に阻止した。しかし、頭頂が半端なく痛く、視界が逆さだ。
先輩が目を見開いて止まっている。
「………………さぁ、先輩……“俺の唇”になんですと?」
「いや……あ、すまなかった。お前……頭丈夫だな」
なわけあるか!
僕はヘッドスピンをノリノリでできるほどの運動神経も頭の丈夫さもない!
こうやって中学以来の三点倒立まがいのことを僕がしたくてしているわけがないのだ。
「顔赤い。辛くないのか?」
勿論、辛い。頭に血が上る。腰も痛くなってきた。
でも、僕には無理なのだ。
「あの……先輩…………僕……起き上がれ……ない」
この状態を保つので精一杯なんです。
「お、おお……そうか」
いやはやすみませんね。ホント。先輩が急に腕を引っ張らなきゃこんなことにはならなかったんだから。
そして僕は下から先輩に、上からおじいちゃんに助け起こされた。
あわわ……貧血になる。
先輩が腕を広げて「倒れるなら俺に来い!」って感じだったから、僕は差し出されたおじいちゃんの肩に凭れた。
先輩が不機嫌な表情になるが…………知るか!