禍福
会いたい。
あなたに会いたい。
チチチ……チチ……。
「うわ……」
デジャブだ。
「…………七瀬……?」
ヤバい、先輩が起きるぞ。
僕は体を固くした。
先輩は小さく唸ると、僕の隣でもぞもぞと動く。そして、息を殺していた僕の首に先輩の手が触れた。
「っ!?」
人間の急所ってのはどんなに覚悟していても驚く。
僕の首に触れた先輩の手は僕の頬へ。
頬から頭。
ぞわりとする。
他人ではないはずなのに、なんやかんやで撫でられまくっていたはずなのに、この時だけは僕は先輩に触られるのは苦手だと思った。
「……どうした…………?」
頭から移動しかけた手は…………先輩が僕の顔を覗き込む。
それも、ベッドに手を突き、僕に覆い被さるようにして。
「あ…………いえ……」
距離が近い。
それに、ふい過ぎて寝た振りが出来ていなかった。
ホントに不覚。
てか、先輩は上半身裸じゃん。朝陽に胸元キラキラさせるなって。
――――別に僕は胸板フェチとかじゃない。何でも隼人が1番だし。
……………………って、僕はまた誰に言い訳してるんだよ!
そうだよ、僕は胸板にはまぁまぁ興味はあるよ?でも、それでも隼人のが一番触り心地も抱き心地もいいんだ!他の奴の胸板を触ったことも抱いたこともないけど!
「体調……どうだ?朝飯食えるか?無理なら何か飲み物でも……」
「え!?…………あ…………葛湯……」
「葛湯?葛湯か?……分かった。葛粉ないから片栗粉でもいいか?」
無駄に葛藤したことと体型の良さにムカついたから葛湯なんて言ってみたけど、先輩は案外リアルに受け止めていた。
今更、「別に葛湯が飲みたいわけではないです」とは言い難い。
しかし、このまま先輩に寝起きの顔を見詰められ続けているのも嫌なので、僕は頷いた。すると、先輩は「分かった」と仏頂面で言って、僕の視界から外れる。
ギシギシという生々しいベッドの音に僕は未だに身動きできず、ジーンズか何かのチャックを閉める音が聞こえている間、無意識に息を止めてしまう。
無意識のはずなのだけど、息を止め出したら、その行為が止まらなくなった。
何故か息をしてはいけない使命感にかられる。
かなり苦しい。
「暫く待ってろ」
内心、苦しさで悶えていた僕は、先輩がそう言って部屋を出て行った時に陸に上げられた魚のように激しく息を吸い込んだ。
苦しくて死ぬかと思った。
ああ……一体、僕は何をしているんだろうか。
「はぁ………………寝過ぎでダルい……」
僕は空港でダウンして……。
何時間寝てたんだろう。
高い天井のこの部屋は間違いなく先輩の寝室。マンションのくせに浴室とトイレ、リビングを除いても他に4部屋はあるっぽい超高級マンションの一部屋だ。
プラスして、超高層にお住まいの先輩の家の寝室は車の行き交う音どころか蝉の鳴き声ひとつしない。夢見も良く安眠できるのだろう。
隣部屋の気配すらも感じ取れる僕の民宿とは大違いだ。
羨ましいから、この部屋の窓を覆い尽くすぐらいの蝉が網戸に群がって鳴き叫べばいいのに。
………………想像したらかなりヤだな。
五月蝿い以前に気持ち悪い。
「…………蝉の逆襲……」
これは不快ということで話題になりそうな映画タイトルだ。それに、暑苦しい。
しかし、高層であると言うことは直射日光も半端ないはずなのに、僕に架かる太陽光は眩しくとも暑くはない。クーラーっぽいものも無いようなのに、部屋は常温。寧ろ、少し肌寒い。
湿度も快適。
窓に何か細工があるのかな?
でも、これが超高級マンションの実力ってやつですか。
「洗面所借りよ……」
足がガクガクブルブルの生まれたての子羊みたいだが、僕はどうにか立ち上がった。
これは歩いたりでもいいから運動した方がいいかもしれない。寝ている間に国都で無理矢理付けられた筋肉が消えたみたいだ。
僕の少ない筋肉が……。
「先輩、あの」
「なんだ?」
見詰めすぎです。
そんなに僕を見詰めて僕の胃に穴を開けたいんですか?
とか、言ってもいいのかな。
真面目な話、上司に見詰められすぎると、特に僕みたいな気弱な人間は、ストレスで胃に穴が開くのだ。実際になったことはないけど。
だけど、胃に穴が開きかけ、痛みで亀のように丸くなっていたことはある。
僕の場合、上の人間に見られるというのは常に監視されている気分になる。それが“心配”だとしてもだ。
分かっていても『世界の命運が自分に掛かっている』というぐらい緊張し、責任を感じてしまう。
視線というのはとても恐ろしい。
他人を癒すこともあれば、破壊することもあるのだ。
「なぁ、七瀬」
「あ、はい。何ですか?」
先輩から話を振ってくれて良かった。
お陰で居心地の悪さについては考えなくて済みそうだ。
「……俺…………」
…………1分…………。
なに、この気まずい感じ。さっきより空気が悪化したような。
こういうのってどう対応するものなんだ?
…………よし、対応を間違えないように先輩の立場について、改めて考えてみよう。
ヒーロー→変態→キス魔→上司→やっぱり、変態→案外、メンタル弱そう→上司→??
僕の中の先輩ってかなりの頻度で変化してるなぁ。……いやまて、“??”はこの僕すら分からないぞ。だけど、分からないから“??”なのか。
じゃあ、今の先輩の立場って何?
「七瀬?おい、大丈夫か?」
ぺちっ。
「!?」
先輩、平手打ちは痛いです。
「お前、まだ本調子じゃないのか?それとも、お前はいつもぼーっとしているのか?」
顎に手を当てて判断しかねている先輩だが、先輩は絶対に僕のことをおちょくっている気がする。
僕のことを餓鬼んちょだとか思っているに違いない。
「失礼ですね。先輩が言いかけて急に喋らなくなるからですよ。それで、先輩は僕に何を言おうとしたんですか?」
と、僕が懇切丁寧に問い返せば、
「………………」
先輩は無言。
序でに目を逸らす。国都が咄嗟の時に頼りのない人の手の中にあっていいのかな。
「先輩?」
「……いや……何から話せば……」
それは相手が困る台詞上位にきっと入るやつだぞ!
唐突に「何から……」と言われても、相手はその“何”を知らないし、その“何”が滅茶苦茶気になるし、待たされる時間が苦痛なのだ。
何からでも良いから取り敢えず話せよ!って言いたくなる。
「じゃあ、僕からいいですか?」
「あ……ああ……」
「じゃあ、聞きます。…………どうして僕なんですか?どうして、他の誰でもない七瀬咲也なんですか?」
先輩が僕に言いたいことはこれに関係しているんじゃないだろうか。
僕が先輩に抱き始めた違和感はこれに関係しているんじゃないだろうか。
何故、先輩は僕を不良から助けた?
“偶々”
何故、僕は国都に採用された?
“偶々事情を知った先輩が採用させたから”
じゃあ何故、僕なんだ?
偶々じゃない。
偶然じゃない。
先輩はあらゆる場面でわざわざ僕を選択している。
「先輩は何故、僕を選んだんですか?」
先輩は僕の目を真っ直ぐ見詰め、かなりの間黙っていた。
僕は渇いた口の中を葛湯で潤すのを我慢して待った。
そして、先輩は口を開いて閉じて…………開いた。
「俺はお前のことをずっと前から知っていた」
「ずっと前?」
先輩の“ずっと”ってのはどのくらいなのだろうか。
しかし、先輩の言う“ずっと前”は僕を不良から助けてくれた時ではないだろう。
それよりも前だ。
例えば――
「舞台の上でお前を見たんだ」
劇団員の僕を見たと言うのは十分に有り得る。
「でも、先輩は……」
先輩は“煉葉”に縛られている。
自由などない。
「陸奥と大野以外、俺を監視できる奴はいない。あいつらが見て見ぬ振りをしてくれたら、俺は外に出れた。制限はあったけどな」
執事と世話係なのは知ってるけど、陸奥さんも優一さんも「何者?」と聞きたくなる言葉だ。
先輩の家は超金持ちで、きっとボディーガードも凄腕揃いだろうに、姿を晦ました先輩を見つけられるのは二人だけ。もしかしたら、スーツの下は筋肉もりもり……いや、優一さんに至ってはプールで上半身を見たか。
でも、二人の名前だけで僕は少しほっとした。
「先輩は僕が役者だと知っていたからプールで会った時、驚かなかったんですね」
優一さんは先輩が外に出るのを見逃していただけで、先輩が入った劇場で僕が演じていたことは知らなかった。だから、僕が役者だと知った時、驚いたんだ。
プールでの先輩は何の反応もしなかったから、僕が役者だったとかは興味がないのだと思っていた。
僕は葛湯を一口飲んだ。
あ、美味しい。
「…………飯作る。粥だよな」
「いえ、僕はもうこれだけで……」
「医者に粥食べさせてやれと言われた。葛湯が飲めるんだから粥ぐらい食べれるだろ?」
「じゃあ、帰ってから食べます。先輩にこれ以上気を遣わせるわけにはいきませんので」
まだ終わっていないはずの話を逸らされたのは分かった。先輩は僕を前々から知っていただけで、きちんと“何故”について話していない。
だけど、ちらりと見たカレンダーの日付は僕が空港でぶっ倒れてから2日は過ぎていた。
明日は金曜日。
それも三連休前の金曜日だ。
明日こそ仕事を休むわけにはいかない。
先輩が言いたくないのなら…………もういいんだ。
今の僕の夢は国都で新しい僕に変わり、改めて決めた弁護士への夢を追い掛けてお金を貯めることだ。
「今日お借りした衣類は洗濯して返しますので」
「………………」
僕が空港で着ていた服は洗われてきちんと畳まれていた。葛湯を貰う前に僕はそれに着替えたのだ。
なので、眠っていた時に着せられていた先輩のワイシャツは鞄にしまった。
勿論、アイロンを掛けて返すつもりだ。
これ以上、先輩に恩を作ってはいけない。
お金が貯まれば、僕は国都をやめるんだから。
返せない恩を貰う前に僕は先輩から離れた方がいい。
「葛湯美味しかったです。台所借りますね」
台所の鍋には葛湯が余っていた。それも大量に。
えっと…………あれは先輩が飲むだろう。
なら、使ったコップだけ洗おう。
それにしても、綺麗なシンクだな。ピカピカだ。
先輩ってホントに綺麗好きだ。
正気の時の先輩が掃除した客室はピカピカだし。
だらけスイッチが入ると客室で存分にぐーたらし出すけど。
「………………七瀬」
ってヤバい、ぼーっとしてたら先輩に真後ろに立たれていた。
シンクに反射して映った先輩が僕の背後にそっぽを向いて立っているのだ。
「…………はい……」
僕の返事とともに先輩が振り向く気配がして僕は視線を逸らした。シンクを通して見えるのは先輩の肩だけ。
「…………」
先輩は何も言わない。
また無言モードらしい。
だが、今度は僕は黙々とコップを洗って帰るだけだ。
「…………七瀬、一つだけ誤解を解きたい。今更かもしれないが……」
「誤解……ですか?」
何かあっただろうか。
僕はコップを網棚に乗せて先輩を振り返った。
しかし、近い…………日本人の平均対人距離1メートルの約半分だ。
僕は後退できないから、先輩が動かない限り、この距離はどうにもならない。なのに、先輩は僕に一歩近付いた。
なんでだよ!って叫びたい。
「俺はお前のノートを見ていない。信じてくれ」
“ノート”。
僕の“ノート”。
「そうですか、信じます」
それはそれは、本当に今更だ。
だって、あの“ノート”はもう……――
「ですが、ノートは燃やしました」
「燃やした?…………いいのか?大事なノートじゃないのか?」
初めてかもしれない。こんなにぽけっとした顔の先輩を見たのは初めてだ。
そして、僕は微笑んだはずだ。
「いいえ。別に大事というわけではないです。僕の方こそ、早とちりをしてすみません。恥ずかしい僕の夢を公言されてカッとなってしまって…………僕、採用面接で言ったような気がします」
「……そうか」
先輩はどうやら納得してくれたようだ。僕の愛想笑いも少しは国都でレベルアップしたらしい。
「では、帰ります。今回は本当にお世話になりました。先輩の仕事時間を奪ってしまい……申し訳ありません」
最近、僕は先輩の表情を読み取るのが上手くなったと思う。つまり、先輩は僕に何か言いたそうにしている。
でも、僕は先輩に引き留められる前に家に帰るのだ。
鞄を持って帰るのだ。
「七瀬、ワイシャツは返さなくていい……捨てて構わない。俺には小さくなったし、捨てようと思っていたものだから」
「分かりました。ワイシャツは僕の方で処理します」
「あと、お前の家まで車で送る。お前の足、今も覚束ないし、転ぶ前に車で送る」
「いえ、お構いなく。僕は歩いて帰りたいんです。運動がてら――――!?」
廊下を足早に歩いていた僕は先輩に背後から抱き着かれていた。
「ちょっ……放して……」
「俺の仕事時間奪って済まないと思うなら、俺に車で送らせろ」
そりゃあ、申し訳ないって言ったばかりだけど、先輩は国都の持ち主で、一番偉い人で、休んだって誰も文句は言わないだろう?社長出勤的な待遇でさ。
でも、時間を奪ったことには変わらないし、僕の為に医者まで呼んでくれた。
それに先輩はやっぱり尊敬できる上司だから、僕は先輩に対して申し訳ない気持ちになったのだ。
だけど、こんな横暴に利用されるとは思ってもいなかった。
「なら、先輩が僕の散歩に付き合ってください」
「…………………………外は暑い。歩きたくない」
おい!
蝉の逆襲が本当に起きてくれないかと真剣に思った。
「じゃあ、僕は一人で歩いて帰ります」
暑さに弱いなんて先輩はお坊ちゃまだ。
なのに、先輩は未練たらたらみたいに僕に抱き着いて放さない。僕は抱き枕じゃないっての。
「放してください。セクハラで訴えますよ」
「お前が心配なんだ。頼むから送らせてくれ」
「嫌です」
もう恩は作らない。
「俺も嫌だ。俺は上司だぞ、逆らうなよ」
「なんですか、それ。パワハラも追加しますよ」
てか、普通は上司と部下の関係と言えど、こんな親密なものなわけ?
僕にとっては先輩が初めての上司だから分からないが、テレビドラマだと飲み会で肩を組んで騒ぐぐらいだったと思う。
しかし、先輩は折れる気はなさそうだし、埒が明かないから僕が大人になるか。
「分かりました。先輩のお世話になります。だから、放してください」
「また勝手にいなくなったり……しないか?」
僕は先輩のママじゃない。鎖に繋がれた犬でもない。
ただ、早く大人になりたい願望はある。隼人に依存しない……大人に。
「僕は勝手にいなくなりません。きちんと休暇届を出します。まぁ、これ以上休む気はありませんが」
「七瀬、お前は立派に雑務の役割をこなしている。だから……お前ならできると思ってマスターにした。千原はあんな奴だが、仕事は真面目だ。その……………………」
こうなる予感はしていたんだ。
僕の腰に添えられた先輩の手。
僕の腕を掴んだ先輩の手。
顔が近い。
「先輩、どういうつもりですか」
「七瀬……俺はお前が――」
「あの、手を放してください」
「っ…………」
仏頂面に微かな焦り。親に突き放された子供みたいに悲しそうで悔しそうで寂しそうで。
「七瀬、俺はお前が好きだ」
僕と先輩は似ている。
だから、僕は絶対に先輩を好きにはならない。
先輩のキスを許すのも……別に意味はない。本当に意味はない。
「先輩」
「…………俺は本気だ。ずっと前から好きだった。雑務の新人になって、一緒に仕事して……俺は憧れから本気でお前が好きになった。…………付き合ってくれないか?」
「………………」
頭の中が真っ白とかじゃない。
寧ろ、思考が冴えていたから僕は俯いた。なぜか、つま先が寒い。
「何も言わないなら俺はイエスだと思うぞ」
僕には隼人がいる。だから、「付き合えません」と言うべきなんだ。
僕には先輩に恋愛の好きという感情は持っていない。ただ、僕と似た哀れな人だと……。
「七瀬。何も言わないのか?」
そうだ。何か言わないと。
「七瀬………………お前が好きだ」
結局、僕は何も言えなかった。
風切空港、到着ロビー。
スーツを腕に掛け、ワイシャツの袖口を捲った男がスーツケースを手にきょろきょろと辺りを見回している。彼は手元の資料を確認し、男が目的の人物であると分かると、ベンチから立ち上がってまっすぐ男に近付いた。
男の方も自らの方に確信を持って歩いてきた彼に気付いて、ゆっくりと近づいてくる。
徐々に縮まる二人の距離。
最初に口を開いたのは彼の方であった。
赤茶の髪に緋色の瞳。彼は手に掴んだ紙切れをパーカーのポケットに突っこんでから男に頭を下げる。
「初めまして。俺は用心屋店長、崇弥洸祈です」
男は洸祈に笑顔で握手を求め、洸祈はその手を握った。
「初めまして。珠樹隼人です」
男はそう名乗った。