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Apéritif

 身体中が痛い。

 手も足も頭も。



 本当は、雨雲の下に出た僕の目の前を流れていた川に飛び込んでいれば、こんな痛い思いはせずに無に帰れていたはずだ。

 なのに、僕の重たい足はあいつの家へと向いていた。


 全身がびしょびしょで……寒くて、痛い。

 何より、情けなくて愚かな自分に吐き気がする。

「ぅっ……!!」

 僕は急に増した吐き気に口を強く押さえて踞った。

 道端だが、もともとこの地域の人口は小さいし、普段から人通りも少ない。だから、僕はこうしていても誰にも迷惑は掛けない。

 しかし、こんなとこに吐くわけにはいかない。吐けば、今は迷惑にならずとも、いつか迷惑になる。

 ならば、一番近いトイレは何処だ?

 公園、学校、公民館、スーパー……遠すぎだ。

 近場は………………駅だ。

 この坂を降り、右に曲がれば直ぐにある。


 僕はあとは何も考えずに走った。



「…………っは……はぁ……」

 心臓がまだバクバク言っている。でも、それ以上に虚しさが込み上げてきた。

 濡れた服のまま、必死に空っぽの胃の中を出そうとして、便器と正面向いている僕――そんな姿を想像するだけで、吐き気は酷くなる。

 得体の知れない黒くてどろどろした何かが体の奥から溢れ出し、爪先から順に溜まっていく。

 足が重い。腕が重い。

 早く吐き出さないと。

 でも、どんなに必死に首を押さえて食道から扱き出そうとしても、上手くいかない。


 重い……痛いよ…………――。


「やっぱり!咲也(さくや)君!」

「…………へ……?」

 汚れている口許を濡れ雑巾みたいなパーカーの袖口で拭い、僕は振り返った。一瞬、頭に鈍痛が走るが、僕は壁に凭れてその人を見上げた。

 青と白の見慣れた制服と固そうな帽子。

 ここの唯一の駅員さん。

 と言うより、駅長さんだ。

 小さい頃はよく遊んでくれたり、話し相手になってくれたりした。

 今以上に正義のヒーローだった昔の僕は、孤高のヒーローとしてツンツンしていた。と言うよりは愛想も可愛げもない餓鬼だった。

 だから、昔は少なからず駅長の(しろ)さんに不愉快な思いをさせたに違いないと、受験生という名の中学3年ぐらいから会わないようにしていた。

 だと言うのに……。

「あ……えと……」

 僕の名前を覚えててくれたんだ。

 どうしよう。色んなことが頭ん中をぐるぐるしてきた。

 「僕の都合で避けていてごめんなさい」って謝りたい。

 「気にしなくていいです」って言いたい。

 どっちを先に言うべきなのだろう。

 先ずは感謝?

 「昔はとてもお世話になりました」とか?

 それ言うなら、避けてたことを先に言うべきかも。

 いや、吐くなら駅のトイレでとか考えたことに謝罪をするべきかな。

 いやいや、言ったら言ったで、体調のことで気を遣わせたりするかも。

 どうしよう……――

「そんなに濡れて。風邪を引いたらまずい。タオル取ってくるから」

 茫然自失状態の僕を見た代さんはタオルを取りに踵を返した。そして、体が重く、代さんを見上げる態勢で動きの固まっていた僕は、天井を見ながら、代さんが駆けていく足音と扉が閉まる音しか聞けなかった。





 カツカツカツカツ――ヒールの踏み鳴らす音に似たそれは、まるで母のものだ。

 ずっと家に帰ってこない母の……。

「………………待って…………」

 嘘だから。

 僕はお母さんの味方だから。

 お父さんは大嫌いだから。だから安心して。

 だから……昔みたいに撫でてください。


 せめて、僕を見捨てないで。


「待って!!」


 僕を置いてかないで!!!!



「さく!」



 僕の好きな声だ。

「あ…………あの……えっと……何で…………」

 …………隼人(はやと)だ。

 隼人と代さんが僕を見下ろしていた。

 この空気の匂いは多分、状況からも考えて、駅長室。僕はまぁまぁ匂いをかぎ分けるのが上手いのだ。

 代さんがタオルを取りに行ってくれたところまで覚えているから、そのあとで夢の世界に飛んでいたのだろう。

 そして、今は駅長室の長椅子に寝かされている。昔、よくここで寝ながら本を読んでいた。

「何でって、俺の台詞だよ!3日間もどこ行ってたのさ!」

 僕の肩を掴んだ隼人は逆光で顔がよく見えない。

「さくの家の前で駅長さんに会って、事情聞いて来たんだよ!母さんがどんなに心配してたか……父さんがどんなに心配してたか……俺がどんな思いでさくのこと探してたか…………」

 表情は分からないのに、隼人が泣いていることは分かった。

 何故なら、生暖かい滴が僕の顔に落ちてきたからだ。

 僕の頬に落ちたそれは僕の耳朶まで流れた。

「ご……ごめん……」

「“ごめん”じゃないよ!…………ごめんじゃ済まないんだよ……」

 僕に覆い被さるようにした隼人が、そっと僕を抱き締めてくる。隼人の前髪が僕の首もとを擽ってきた。

 隼人の髪からは隼人の家の匂いと隼人自身の匂いがする。

 もう僕の本当の家に帰っても感じることはない家族の匂いだ。

「あ……はや……ぅぅ…………」

 氷っていた胸の内にじんわりと広がる安心感。

「……あのっ……ごめ……ごめん……隼人っ……」

 “ごめん”じゃないはずなのに、何か言わないとと思うと、“ごめん”しか言えない。

「……うん……でも、何より無事でいてくれてありがとう」

 そう言われてから隼人に頭を撫でられると、僕は声をあげて泣いていた。

 声を圧し殺すことはできなくて、逆に、声を大きくすればするほど、痛みや悲しみが和らぐ気がした。

 隼人も僕の頭をずっと撫でていてくれ、僕の顔面がぐちゃぐちゃでもひかなかった。

 隼人は寛大な男だ。







 隼人は僕がお粥にがっついているのを黙って見ていた。

 向かい側に座った隼人の視線に威圧感はなく、僕も気まずさはなかった。寧ろ、隼人に見守られていると思うと、空腹に素直になって食べていた。


 僕はここ3日間は水以外口にしておらず、最初はおばさんのチャーハンを一口で戻してしまった。そして、散々迷惑をかけたというのに、隼人もおばさんも僕を休ませて、僕の失態を顔色変えずに処理してくれた。

 しかし、ネガティブの塊である僕は、それが親切だと分かっていても、それ以降は食べ物を口にする気は失せていた。

『さく、母さん特製の抹茶入り葛湯だよ。これなら大丈夫だと思うから』

『…………要らない……また迷惑かける…………』

 折角、作ってくれたということは重々承知している。

 だけど、また吐いて二人に掃除させるのは嫌だった。

『迷惑じゃない。さくは家族なんだから。それに、吐いても大丈夫なように袋用意したよ。だから、少しでいいから飲んで』

 「お願い、咲也」と名前を呼ばれたら「吐いても知らないから」とぐずりながら抹茶入り葛湯を飲んでいた。

 葛湯はほろ苦甘で美味しく、喉にするすると入った。

 少しずつだが、マグカップ1杯分を飲み干すと、ぐぅと微かにお腹が鳴った。

 僕の腹の虫は隼人も聞こえたらしく、僕の頬に軽いキスを落とすと、「お粥作ってくるね」と微笑んで僕の部屋を出て行った。


 そして、今に至るのだ。

「葛湯沢山あるし、食後に飲む?」

「うん」

「じゃあ、俺も飲もうかな」

 席を立った隼人は台所へと移動し、僕のマグカップと自分のマグカップに鍋からお玉で葛湯を入れる。

「母さんの葛湯が色んなとこで効くんだよ。俺さ、小学生の時に給食の時間に盛大に吐いたことがあったんだ。で、そのあと急に熱が出て、病院に運ばれたんだ。原因は普通の風邪だったんだけどね」

 マグカップを2つ持った隼人が食卓に戻ってきた。

「数日で回復したよ。でも、学校行っても給食は食べなかった。全部残した。……食べたら吐いちゃう気がしてね。お腹鳴っても必死に我慢してたんだ」

 それはさっきまでの僕だ。

 隼人はちょっと垂れ目にして僕を見る。

「そしたら母さんが給食の時間に俺の教室に現れたんだ。で、持参してきた葛湯を俺に無理矢理飲ませてきたわけ」

 くすりと笑う隼人がいつも以上に身近に感じてきた。

「俺が給食食べていなかったことを先生が母さんに電話してたみたいでね。母さんは俺に『学校から帰ったらお腹空いたばっかり言って、どうして給食食べないの?』って聞いてきたんだ。俺、母さんの葛湯が美味しくて美味しくて……理由喋ってたんだ。そしたら、もし俺の目の前で吐いちゃった子がいたら、どう思うのかって聞いてきて…………心配するよ。俺も吐いた時に『大丈夫?』って友達の声が沢山聞こえてたことを思い出してさ。……それからはまた、給食を食べれるようになったんだ」

 隼人は気配り上手の文武両道で、完璧な紳士だけど、小さい時はお茶目なところもあったみたいだ。でもやっぱり、小さい時から愛に溢れていたんだ。

 珍しい隼人の昔話を聞ける嬉しさに僕のお粥をスプーンで掬うスピードも早くなる。

 相槌を打ちたい。

 質問したい。

 もっと話を聞きたい。

 ――だから、早く食べないと。

「あちっ!」

 息を吹き掛けるのも疎かにしてしまい、熱いお粥が舌の上で弾けた気がした。

 …………舌が痛い。

「さく、お腹空いてるのは分かるけど、それで舌を火傷しないでよ」

 確かにお腹は空いてるけど、先のハプニングはそのせいではないんだ。

「僕、食事中は喋るなって強く言われてたから。だから、早く食べて…………あ……その…………昔のことだけど……」

 誤解を解こうとしたら、僕は余計なことを口走ってしまった。

 咄嗟に言い訳をするが…………隼人の目が真剣だ。

「それはさくの両親が?」

 “それ”とは何を指すかは分かる。

 口ごもったせいで、逆に怪しまれた気がする。何でもない風に言っておけば良かった。

「……………………」

 僕には答えられない。

 いや、答えたくないだけだ。

 もし、答えれば……――


 隼人は僕から絶対に視線を逸らさない。けれど、僕は俯いて隼人を見ないふりをした。

「分かった。さくが答えたくないなら答えなくていいよ」

 隼人の顔を見ずに声だけ聞いていると、隼人が秘密ばかりする僕に怒っているように聞こえる。

 嗚呼……隼人は僕を嫌いになったに違いない。

「さく、もう聞かないって。ね?………………顔を上げてくれないのは、俺が嫌いになったから?」

「…………え?」

 僕は顔を上げて隼人を見ていた。多分、随分間抜けな顔で。

 だって、今、隼人は僕が隼人を嫌いになるとかって馬鹿げたことを言わなかったか?

「俺、さくが大好きだよ。さくは?」

 そんなの決まっている。

「僕だって隼人が大好きだ………………でも……僕には答えられない……だって……」

「無理しないで。俺はさくに無理させてまで聞きたいことなんてないよ」

 隼人はいい奴だ。

 扉を少しだけ開けて隼人にエールを送っているおばさんも。

 そんなおばさんにくっついて、自分もリビングの僕達を見ようとしているおじさんも。こんな時間に帰ってきたということは、おじさんは副業を中断してきたみたいだ。

「もし、さくが食事中に喋るのが駄目なら、それでいいよ。でも、珠樹(たまき)家は食事は明るく楽しくがモットーだから、食事中に喋っても構わないからね。さくは珠樹家の立派な一員で家族だから」


 僕は珠樹家の家族。



「あ、あのさ、僕、隼人の小さい時の話をもっと聞きたいんだ!」

 僕は言っていた。

 食事の時、隼人の話におじさんとおばさんが色々尋ねたりしていたが、僕も本当はその輪に入りたかった。今まで、「その黒猫はどこ行ったの?」とか、「隼人の『可愛い』についてもっと詳しく教えて」とか……聞きたいことが山ほどあったんだ。

 でも、食事中に一言でも喋ったら、僕は母を裏切ることになるからと、僕は口を閉じてきたんだ。

「いいよ。そうだなぁ……確か、あれは小6の時の子供の日だったかな……」

「え、なになに?私達も聞きたいわ。ねぇ、(みのる)さん」

 隼人の話に釣られて、おばさんが食卓に顔を出した。興味津々で好奇心に溢れる瞳だ。

 そして、おばさんに呼ばれたおじさんは何かが引っかかるらしく、考え込むような顔をする。

「隼人が小6の子供の日って……………………あ!!こら、隼人、その日は……!」

 爽やか笑顔の隼人と唇の端が引き攣っているおじさん。

 二人は意志疎通したらしい。

「え?何なの?子供の日はいつも旅行よね?」

 きょとんとしたおばさんは自分の分とおじさんの分の葛湯をいれると、マグカップを持って僕の隣に座る。

「俺と父さんが大人の階段を一段上がった日だよ」

「ちょっ!隼人!!!!」

 おじさんが焦っているなんて、初めてかもしれない。それに『大人の階段』って……子供の日に一体、何があったんだ。

「大人の階段……まさか、穂さん…………浮気とかじゃ――」

「違う!俺は時帆(しほ)一筋だ!」


 くすくす。


 隼人は絶対にわざとこの話を振ったんだ。

 だけど、僕も自然と心が晴れてきた。


 いつもありがとう、隼人。

午前中に更新予定でしたが、活動報告が意味をなしていませんでした(*ノωノ)

すみません_(_^_)_

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