手紙
「すみませんでした」
鋭角越えの鈍角で頭を下げた。
本当は180度ぐらいしたいが、体の固い僕には無理だ。
「本当に本当に、申し訳ありません」
申す言い訳などない。
僕の自分勝手だ。
約1ヶ月振りの出勤で、雑務控え室に向かえば、伝えていないのに優一さんと陸奥さんが僕を待っていた。
ぽふっ。
この手のひらは優一さんだ。「よしよし」と僕の髪を撫で、顔をあげるよう肩を押して促してくる。
正直、今、顔を上げるのは嫌だった。
まだまだ自分の中で謝罪が足りないのと、僕が単純に気まずいからだ。
でも、これも僕の逃げだ。
僕は前に進まないといけないんだ。
僕は顔を上げた。
視界に映るのは懐かしい顔。
優一さんと陸奥さんの顔。
「咲也、おかえり」
「おかえりなさい、七瀬さん」
泣きそうになった。
あんなに洸祈君の横で泣いたのに……僕を二人はまだ迎え入れてくれるから涙腺が簡単に緩む。
僕は帰る場所があるんだ。
「泣いてる?」
優一さんの控え目な笑顔。
眩しくて温かい。
「いえ…………あの、ただいまです」
「うん、おかえりな」
「どうぞ、七瀬さんの制服です」
陸奥さんの手にはスーツ。
「これ……」
なんか、胸元のポケットのとこに刺繍が……。
陸奥さんのにも優一さんのにもある。
だけど、僕のは朱で陸奥さんのは紺、優一さんのは深緑だ。刺繍の形も違うし。英語の筆記体っぽい。
「私はConductor、大野さんはEntrance。あなたはMasterです」
「……マスター?」
コンダクターはコンダクターで、エントランスはエントランスで、マスターはマスター…………だから?
「七瀬咲也、あなたをMasterにします」
「優一さん?」
だから、マスターとは?
意味が分からないけど、優一さんが真剣な顔をして陸奥さんから僕のスーツを受け取り、僕と向かい合う。
「これからもMasterとしてお客様を第一に国都で働いてください」
マスターって何ですか!?って聞きたいけど、優一さんと陸奥さんの雰囲気が僕の喉を締め付けた。
「雑務チーフ、高橋八尋から。代理、大野優一」
90度で頭を下げられた。
陸奥さんまで……。
「咲也、着て」
有無言わさずに押し付けられるスーツ。着ないと聞けなさそうだ。
僕は着ていたサボる前日のスーツを脱ぎ、新しいスーツに袖を通した。
「……!?」
なんか違う。
刺繍だけじゃない。
各所に装飾がある。
「咲也、Masterは八尋君からだよ」
「え……」
もう“八尋君”を訂正しない。
うっかりじゃない。
優一さんは“八尋君”と言っている。
「咲也は立派な国都の一員になった。雑務の七瀬咲也になったんだ」
なんで……優一さんは泣きそうなんだ。
「その……先輩は…………」
先輩は会議ですか?
だらだらなくせに仕事には迷いはなくて……先輩は国都にとって大事な人で……だから、このお礼はお預けなんだ。
「………………八尋君は……もういないよ」
「……え?」
もういない?
「咲也、ごめん。ごめんな」
どうして優一さんが謝るんだろう。
分かんないよ。
「優一さん、何がなんだか……説明を……」
「八尋様は昨日、国都をお辞めになりました」
“八尋様”
“昨日”
“お辞めになりました”
「先輩……が……」
仕事には真面目で、僕達部下の教育もしてくれて……なんで?
なんでなんでなんで?
「僕のせい……」
先輩が国都を辞めるなんて、僕しか原因が思い付かない。
僕は沢山ヘマをして、僕は沢山皆に迷惑を掛けて、僕は沢山先輩を怒鳴った。
僕が中途半端に逃げていたから……!
「僕がここにいられるのは先輩のお陰で、先輩が辞めたからですね?」
「あ、いや……八尋君は…………」
歯切れが悪い。
「優一さん!誤魔化さないでください!」
二人は僕に色んなことを隠していた。
僕はそれを見ない振りをしていた。
真実を知り、僕が自分の立ち位置を見失うのを恐れていたから。
「僕は先輩の部下です!」
「咲也……」
部下とも言える立場ではないけれど、僕はもう恐れない。
洸祈君に宣言したから。
それに、だれだか分からないけれど、依頼人の為に。
「お願いします、優一さん、陸奥さん」
ずっとずっと僕は頭を下げていた。
「これ。八尋君からの手紙」
「え?」
桜の便箋。
これは確か……――
「咲也、読んで。ゆっくりでいいから」
ゆっくりなんて無理だ。
僕は二人の目の前で立ったまま封を少々乱暴に切った。
「このような大事な席に……よろしいんですか?」
「よろしいもなにも、お前は家族だ。俺の娘だ」
「…………………………」
「……どうした?」
ぽたり。
一粒の涙が俯いた彼女の前髪の隙間から落ち、彼女のローファーの爪先で弾けた。
彼は背の低い彼女を見下ろすと、ブラウンのその髪に触れ、頭を撫でる。
「あ、あの……僕……お義父様には本当に感謝を……」
ぽたり。
ぽたり。
ぽたり。
「ティファ」
彼は彼女――ティファの名前を呼んだ。
「はい……」
透けるような茶の瞳が彼を見上げる。
「泣くな。お前は笑っている方がいい。折角可愛い格好をしているんだから、笑顔になれ」
「…………はい、お義父様っ」
唇が歪むが、それでもティファは不器用に笑みを見せた。
「美人だ」
彼もまた笑顔で返した。
「煉葉様」
ああ、この呼ばれ方は久し振りだ。
「雛子お嬢様がお待ちです」
「…………ティファ、行こう」
「はい」
俺はティファの手をキツく握り直した。
出会った時、彼女は泣いていた。
俺は彼女の手を引いた。
昔は泥水に汚れた手を。
今は緊張に汗ばんだ手を。
唇の先を噛むティファは頑張っている。
だから俺も、前に進むと決意したあいつに倣って前に進もう。
『行ってらっしゃい』
『行ってらっしゃいませ』
二人に見送られるのは何年振りだったか。
「雛子お嬢様、煉葉様がお越しになられました」
ゆっくりと高さのある重厚な扉が開く。赤い絨毯を這う風が微かに吹き上がり、俺とティファの後ろ髪を揺らした。
「お久し振りです」
ここまで着物が似合うのは教育の賜物。
愛されている証拠。
綺麗な長い黒髪。
1本1本丁寧に……。
『愛してくれるわけではないのに生かされている。それは辛く悲しいこと』
なのに、あの時のあのシーンで泣いたあいつほどに惹き付けられる者に会ったことがない。
「煉葉八尋様、私のこと覚えていましたか?」
目は笑っていないのに、口元は笑っている。
「結城雛子さん。勿論、覚えています」
俺の婚約者。