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会いたい

 その手には青色のノート。

 表紙の所々が擦りきれて白くなっている。


 その手にはライター。

 狭い部屋にカチリと鳴り響く。



 灯火のような火はノートの端を……――







(あき)、どうだった?」

「最後の曲、気に入った」

「本当!?また、一緒に来ようね」

「勉強の息抜きになら」

「うん!」

 二人の青年が脇を通り抜けて行った。

 それから続々と、様々な人が出てくる。大人の男女、中年の男、おじいさん、おばあさん、子供たち。皆がにこにこしながら出てくる。


 僕は味の出ている床板を踏んだ。

 一歩入って、その建物の圧に足がすくみそうになる。

 高い壁は天井に向かって曲線を描く。天井では赤子に羽が生えた天使が飛んでる。照明のないここで、灯りは長い長方形の窓から入る太陽光のみ。

 僕の左右には簡素な木の長椅子が並ぶ。

 そして、正面には銀色のパイプ。

 筒状のそれが遠くの壁を地面から天井に向けて何本も這っている。

 あれが何か知ってる。

 昔、テレビで見た。

 舞台の隅のパイプオルガンの一部だ。


「迷える子羊さんですね」

「…………え?」

 ジーンズに朱色の半袖Tシャツ。僕の背後には、胸の大きさが目立つ体格のガッチリしたお姉さん系がいた。

 パーマの入った黒髪を背中に垂らしている。

「なーんちって。シスターの真似をしてみましたー」

「はあ……」

 なんか返事とリアクションに困った。

「あれ?滑った?」


 滑った。


「えっと……ま、入って入って!」

 ぐいぐいと背中を押され、僕は恐る恐る進んだ。


咲也(さくや)さん!」

 トランペットを丁寧に磨いていたティファちゃんが目を輝かせる。そして、トランペットをケースに入れると、畏縮していた僕のもとへ走って来てくれた。

「演奏聞きに来てくれていたんですか!?」

「あ……その……僕が来たときには終わってて……」

「そうでしたか。お茶とお菓子が残ってますから……皆さん、いいですか?」

 ティファちゃんは楽器を手入れする仲間に訊ねるが、

「いいも何もティティーが用意したんじゃない」

 お姉さん系が笑う。

「ティーのなんだからティーの好きにしていいさ」

 サックスを手入れする白い顎髭のおじいさんが親指を立てた。

 カーネ○おじさんがグッジョブ!ってニヤリと笑っている感じだ。他の仲間達も微笑んでいる。

「ありがとうございます」

 ティファちゃんが笑む。


 ここはなんてあったかいのだろうか。


 追われ追い抜かれ追い抜き蹴落とす世界とは違う。

 ともに歩みながら自由もある。

 …………僕と隼人(はやと)との世界のように。

「では、坂東(ばんどう)さんに賄賂を贈って堂々と食べましょうか」

「…………賄賂?」

「ここは飲食禁止なんです。ですが、今日みたいに僕らが演奏会をしている間は特別に許可してくれるんです。今は演奏会終了しちゃっているので、坂東さんにお菓子の賄賂を持っていき、大目に見てもらおうかなと」

 お茶目に片目を瞑る様は可愛らしい。

「ちょっと待っててくださいね」

 現在、僕達は教会の舞台裏と言おうか……つまり、控え室とも言えない小部屋にいる。

 ティファちゃんはさっきのパイプオルガンのある舞台へ行くドアではなく、別のドアへと進んだ。カチャリと開ければ、緑の草原。

「?」

 入り口は閑静な住宅地の道路に向いていたのに、コンクリートとは無縁の原っぱ。

「坂東さんの許可貰ってきますね」

 お菓子と飲み物を詰めたスーパーのビニール袋を持ったティファちゃんは草を踏み――

「僕も一緒に行く!」

 僕は名乗りを挙げていた。

「え……あ……じゃあ、一緒に行きましょう」

 僕の見え見えの願望を察してくれたのか、ティファちゃんが僕のためにドアを開け放った。



「うわぁ……!!」

 なんて綺麗なのだろう。

 バラだ。

 東京の住宅地にバラ庭園だ。

「ここは坂東さんが毎日毎日お世話をしているお庭です」

「今は雑草との戦いだ。まったく、腰が死ぬ」

 にょきりとバラから生えたのは麦わら帽子と首にタオル。薄手の白い長袖に生地の擦れたジーンズと泥に汚れたスニーカーの人。

「あ、坂東さん!」

 短い黒髪無精髭、日に焼けた肌の彼の名は坂東さんらしい。

「よぉ、丁度いいところに来たな。そこの鋏を取ってくれるか?」

「これですね」

 ビニール袋を僕に託してティファちゃんが地面に置かれた園芸用の小さな鋏を手に取る。

「ったく、最近の雑草は根がぶっとくて困るぜ。だが、除草剤は使わん。ミミズ君を不快にしたくないんでな」

「ミミズさんは土の神様ですからね。ここ切っちゃっていいんですか?」

「ああ。悪いな」

「いえいえ。賄賂持って来ましたから」

 あっさりバラしている。

「賄賂ぉ?」

「あの、僕のお友達の七瀬(ななせ)咲也さんです」

 じろっと今時のちょいワルお兄さんに見られた。というわけで、僕は自己紹介する。

「七瀬咲也です。国都ホテルでティファちゃんと一緒に…………」

 言葉に詰まった。


 だって、無断欠勤1ヶ月目だからだ。


 そんな僕にティファちゃんは何事もなかったかのように接してくれる。

「え?何?」

「あ、七瀬!僕は七瀬咲也です!」

「咲也君…………えーっと、来週と再来週も会いに来てくれたら、多分、覚えられると思う」

 坂東さんに黒より灰色っぽい瞳で観察された。

「それで、坂東さん。咲也さんにおもてなししたくて――」

「じゃあ、俺ん家上がりなよ」

「ありがとうございます!賄賂、マーブルチョコとホワイトケーキ、どっちがいいですか?」

「……賄賂言うんじゃない。お供えにしなさい」

 お供え……ですか。

 教会だけど、縁起が悪くないだろうか?

「それはつまり、食べたいのはチョコ羊羮ですね!」

 和洋折衷の失敗みたいな名前だと思う。

「賄賂でいいから!マーブルチョコくれ!」

 あ、坂東さんがティファちゃんに負けた。

「マーブルチョコですね」

 クスリと一度笑うと、庭の片隅にある蛇口で手を洗い、僕の持つビニール袋を受け取った。

「お先にリビングに失礼していいぞ」

 雑草と格闘しつつ、土を掘っては軽く均す坂東さん。

 髭を剃るよりまずはバラ。

 なんか、いいな。

「お言葉に甘えて、お先にリビングに失礼します」

「失礼します」

「おう」

 肩越しに片手を上げたかと思うと、直ぐに雑草の相手をする。

 バラのためにあんなに必死に……バラは幸せ者だ。





 すぅ……すぅ…………――


「えっと……」

 洗面所を借りて手を綺麗に洗い、リビングへ行けば、ソファーには先客がいた。

 すやすや寝息を発てて心地良さそうに眠っている。

「…………坂東さんのお客様でしょうか。ぐっすり眠っていますし、静かにしませんと」

「というより……この人……――」


「おい、洸祈(こうき)!お前は客人の邪魔すんな!」


 やっぱり。

 洸祈君だ。


 坂東さんは手を水で濡らしたまま、ソファーで眠る洸祈君を足蹴にする。

「うーん……たっさん、痛い」

「たっさん?」

「坂東さんは坂東(たつみ)さんです」

 巽さんでたっさんか。

「いつまでぐーたら寝てるんだ!起きろ!」

 げしっ……と、洸祈君は坂東さんにソファーから落とされた。

 あらまぁ。

「いだっ!!!!たっさん、痛いよ!!」

 涙目で洸祈君が額を擦りながら起き上がる。

「うっせぇ!それくらいで泣き喚くな!」

「泣いてないっ!!たっさんの馬鹿!!!!!!」

 走って部屋を出ていく洸祈君。ついでに、玄関の方から扉の開閉の音が聞こえたので、彼は外へ出て行ったのだろう。

 やがて、庭で白い大きな犬とはしゃぐ洸祈君が窓に映る。

「坂東さん、彼は?」

 ティファちゃんが興味深そうに洸祈君を見つめていた。

 まさか……好みとか?

「ん?あいつか?……あいつは崇弥(たかや)洸祈。ここで療養中だ」

「療養中?」

「ちょっとな」

 坂東さんの歯切れが悪い。

「……心の病気……」

 僕が小さな声で囁けば、案の定、坂東さんは僕を見た。ティファちゃんは首を傾げている。

「………………ティティー、洸祈は心の病気でここにいる」

「心の……病気……」

 ティファちゃんは頑張って理解しようとしていた。

「ちょっと辛いことがあった時、立ち直れる奴もいるけど、立ち直れない奴もいる。立ち直れない奴ってのは色んなこと溜め込んでたりしてな、あいつは色んなこと1人で溜め込んで溜め込んで、心が病気になっちまったんだ」

「溜め込んで……どうして溜め込んでしまったのでしょうか……」

 嗚呼……ティファちゃんが泣きそうだ。

「ティファちゃん、溜め込んでも、こうやって坂東さんのところにいれば、少しずつ溜め込んだものを消せる。で、洸祈君は今、笑っている。それでいいんじゃないかな」

「咲也さん……」

 ぐすりと鼻を鳴らしたけれど、ティファちゃんは「そうですね」と、笑顔で遊ぶ洸祈君を眺めていた。



 坂東さん特製のサンドイッチも貰い、途中で教会にいたWLJのメンバーも加わったりと、とても楽しく過ごした。

「あれ?洸祈君は……?」

 庭を見詰めたティファちゃんが眉間を微かに狭くする。僕も視線を変えれば、確かに洸祈君がいないような。

「あいつ……っ!!」

 坂東さんがキレる。

 そして、リビングを飛び出して行った。

「洸祈君……」

 またティファちゃんが泣きそうな顔をする。

「僕も探してくるよ」

 だから、そんな悲しい顔をしないで。

「…………なら僕も――」

「ティファちゃんはここにいて」

 きっと、洸祈君に会えば……――



「ティファちゃんが汚れる」

 と、文句を言ってみたものの、彼は何処でもない宙を虚ろに見詰めたまま教会の長椅子に寝転がっていた。

 そんな彼すら見守るのが十字架だ。

 僕も見守ってくれているのだろうか。

「……勝手にいなくなったら、皆心配するし、焦ります。何か一言伝えてくださいよ」

「無断欠勤したら、皆心配するし、焦る。待っても待っても一言すらない」

 !?

「七瀬咲也、あんた、1ヶ月間どこにいた?」

 瞳は何も映してないのに……僕を見透かしてる。

 よっこらしょとじじくさい台詞のあと、洸祈君は僕に向き直った。

「……一体、何の話を……」

「ま、谷にいたとは分かってるからいいか」

「僕の跡を付けていた?」

「あんたには逃げても逃げても逃げても逃げても……待っている人がいる」

 洸祈君の瞳が緋色に光ってるように見えたかと思うと、何処からともなく、先の白い犬が現れる。しかし、あれは犬というより獣だ。

 牙を剥き出しにして、僕に威嚇してくる。

 何だよ。

 何だよ、こいつ。

「用心屋、崇弥洸祈だ。俺はあんたがどうしているか調べて欲しいという依頼を受けた」

「依頼?」

 “万屋まがいの用心屋”……誰がそんな依頼をしたんだ。

「……(れん)が?」

「守秘義務がある」

「依頼の話をするのは構わないわけ?」

「選択肢は2つある」

 白い獣は静かに僕の背後に回り込み、襲われるのかとびくびくしたが、教会の出入口へと歩いて行った。

 そして、そこに陣取る。

 出入口は獣、庭への扉は洸祈君。

 挟まれた。

「1、逃げる。2、帰る」

 RPGみたいな選択肢だ。

 “進む”という選択肢がない。

「今のあんたは進めない。事実、あんたはあれから1歩も進んでいない。1ヶ月間、何をしていた?壊しも捨てもせずにぐだぐだとさ……苛つく。なんであんたみたいなのを待ってくれる奴がいんの?」

 その口調は嫌だ。

「あんたは自分から他人を遠ざけてる」

 嫌だ。

「時折寂しくなって他人に近付くけど、近付き過ぎると、途端に他人を拒絶するんだ」


 その声は……吐き気がする。


「黙れ!!母さんみたいに喋るな!!!!」


 また僕は叫んでしまった。

「母さん……嫌い?」

「嫌いだ!大嫌いだ!」


「嗚呼……そう。で、1なの?2なの?」

 ふと、会った時と同じ顔で甘えた声音を出す洸祈君。

「…………何?選択肢って……」

「いや、依頼ね。依頼では君に選択の余地を与えて欲しいって。……あ、“選択の余地”ってとこは守秘義務だから、聞かなかったことにしてね」

 クスリと微笑すると、ウインクした。

 ……乙女モード?

「依頼人は僕がこのまま逃げてもいいと?」

「お前の男としてのプライドが許すなら……とかね」

 にこっ。

 洸祈君は乙女モードだ。

「帰るって選択肢は何?」

「帰るは帰るだよ。自分の家に帰り、明日からは普段通りに仕事をする」

 “仕事をする”ということは少なくとも国都に関係する人間。しかし、用心屋とも関係があるとなると、蓮しか思い付かない。

 蓮が僕の為に?洸祈君と僕を会わせるのが僕の為?

「…………僕は2を選ぶべきだと?」

「知らない。どうでもいいし。俺に合わせたら、君は選択していないことになる。依頼とは違う」

「…………僕は逃げたいさ」

「だけど、君はここに来た」

 ティファちゃんがいると分かっていたここに。

 逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて、結局、僕はここに来た。

「普通は逃げるのは簡単で、帰るのは難しいんだ。だって、社会は逃げる奴は追わない。なのに、君には選択肢がある。そこには逃げた君を迎えてくれる人がいる。君はこの意味を分かっていない」

 洸祈君の優しい眼差し。

「……分かっていないわけじゃないよ」

 僕は分かっているよ。

「僕は愛されてるんだ……」

 こんな幸せな奴はそうそういない。

「だけど……」


 僕には認められない。


「無理だ」


「本当に?」

「?」

「無理なの?不可能なの?」

 質問攻めだ。

「“愛される”は嫌だ?」

「嫌じゃない」

 求めていたこと。

「でも、無理なんだよ!」

「無理じゃない。俺がいるんだから。用心屋は無理なんて言わない。言わせない。だから、依頼して」

「……依頼」



「探しもの、ない?」



 僕が前に進めないのは進みたくないから。

 進めば、離れていく。


 何から?

 誰から?




隼人(はやと)……隼人を探して」



「分かった。依頼人、七瀬咲也、俺があんたの探しものを見付けてくる」

 溢れて止まない涙で何も見えないけど、彼の僕の肩を掴む手のひらの温かさは感じた。

「だから、待ってて。あんたはもう我慢しなくていいんだ」

「隼人っ……隼人に会いたい。会いたいんだ」

 洸祈君の腕の中で僕は泣き叫んでいたんだ。

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