もう何も見えない。
さく、愛してる。愛してるよ。
うん。僕もだよ、隼人……―
「………………あ、ここでいいです。……これ」
運転手に賃金を払い、眠る彼を抱き抱えた。
…………軽い。
片手で彼を支え、もう片手で鞄を掴む。
すると、扉がゆっくりと閉まり、タクシーが発車した。
自動ドアを潜ると、警備員が二人。頭を下げれば、彼らも返してくる。
腰には警棒。決して飾りではない。
そして、ちょっとやそっとでは壊れない大きなガラスの扉が目の前に広がる。縁に金と朱の装飾が施されたドアは鍵と暗証番号、代理石の壁に小さく填まる特殊ガラスの向こうの管理人が許可することで開く。
が、今日は鍵も暗証番号も使わずにドアは開いた。
「…………顔パス?」
「顔パスです」
こちらからは見えない特殊ガラスに開いた小さな穴から、しゃがれた声がする。中には銃器を装備した特殊部隊が不法侵入者に目を光らせている。と、隣人に聞いたことがあるが、どう考えてもおばあちゃんの声だ。
「どうぞ」
「ありがとう」
まぁ、両手がふさがっていたから有難い。
貧血、微熱……か弱いお姫様。
ソファーに寝かせ、汗ばむ額を撫でれば、小さく唇が開く。
「はや…………隼人っ……」
「………………隼人……ね」
また“隼人”だ。
切ない声で、必死な声で……“隼人”。
いつだって、お前がすがるのは“隼人”。
そいつは過去の人間だろ?
お前は今を生きているのに、本当に見ているのは“隼人”だけ。
「お前、時々、死人みたいな目をしてるぞ」
ぼんやりと……何も見ていない。
水に濡らしたタオルを絞って額に触れさせれば、ぶるっと体を震わせ、胎児のように丸まった。
纏った大野のワイシャツは大きく、袖から指先だけがちょこんと出ている。
同じく、大野のジャージのズボンは大きく、足先だけがちょこんと出ている。
まさしく、小動物みたいだ。子犬にも似ている。
トゥルルル……。
「はい」
『あ!八尋君!』
なんだ、大野か。
『咲也はどこ!?誘拐しちゃってたりしないよね!?』
「誘拐じゃない。熱あるから俺の部屋に連れ帰った」
『連れ帰ったぁ!?変態する気!?咲也に手ぇ出しちゃいけません!』
どこのお母さんだ。
「俺は変態じゃない。手も出してない。薬飲まして寝かすだけだ。それより、仕事してんだろうな?」
「薬飲まして寝かす!!!?」
………………めんどくさい……。
「何を勘違いしてるのか知らないが、真面目に仕事をしているのか?」
『咲也は絶対に駄目だからね!あと、仕事はキツい!……高橋さんがやるはずだった面倒事が全部、俺と陸奥さんに来ます。なんで、俺達が高橋さんの反省文を書かされないといけないんですか?』
よくできました。と、内心、褒めておこう。
自らが、新人―大野優一として国都ホテルにいるのだと、少しは自覚し始めたらしい。
「反省文は形式上だ。俺が書くからファックスしろ」
『……上司の尻拭いは部下の役目。陸奥さんと素晴らしい反省文を書きます』
「素晴らしい反省文……?」
『咲也ならそう言いそうだなって。ま、八尋君が自分のプライドをどうにかこうにかひん曲げて書いたかのような反省文を書きますよ』
なんだそれは。
それに、もうため口になっている。年下でもお前の上司だぞ、俺は。
「書きたいなら書け。もう用はないか?」
『用…………そうだ、八尋君の誕生日!なんかあやふやになっちゃったし、来週の休みにもう一回やらない?』
「誕生日はもういいだろ。七瀬もこんなだし」
『咲也ともっと仲良くなるきっかけになるじゃん』
熱を出すきっかけになっただけだ。
それに……――
「誕生日はもう……祝いたくない」
『………………俺と陸奥さんと咲也だけでも厭だ?ケーキ囲んで、蝋燭の火消して、ケーキを食べるだけでも厭だ?』
大野は時折、子供をあやすみたいに声音を柔らかくする。
俺をあやす為に、昔から……。
「……………………厭じゃない」
『うん。…………あとさ、ティファちゃんには会ってあげなよ。今回のこととは関係ないんだし。今朝もスッゴい暗い顔してた』
「ティファが?……ああ…………結局、約束すっぽかしてた」
『ほらぁ、早く会いなさい』
だから、どこのお母さんだ。
『今夜は咲也の体調とティファちゃんの為だけに使うこと。明日は俺が愚痴でもなんでも聞くから』
「聞いてもらう愚痴なんてないが?」
『はいはい。それと、陸奥さんが八尋君の代わりに八尋君の家に行ったよ。内密にとか言ってたけど、過保護にしてたらバレた時に八尋君のプライドがズタズタだから、言っちゃうね』
……………………大野も陸奥も過保護だ。
「10月はお前の誕生日会するからな。11月と12月、3月も」
『11月は陸奥さんの、12月はティファちゃんだろ?3月……あ、咲也?』
「3月は……」
七瀬じゃない。というより、七瀬咲也の誕生日を知らない。
(本人曰く)変態である俺の部屋に連れ込まれてしまっている七瀬に関して、俺が知っているのは外見と名前ぐらいだ。これは“知っている”とも言わないのかもしれない。
『咲也はきっと、チョコレートケーキ派!食べ放題とか好きそう!』
「……………………」
『八尋君?』
「……お前、七瀬の好きなの分かるのか。凄いな」
俺は何も知らない。
『凄い?そう?八尋君があげてる飴とか、この前、缶に貯めてるって言ってた。俺も金平糖あげたら喜んでくれたし。だからきっと、咲也はお菓子が好きだ!そう思うよ』
「そう思う」でいいのか?
もしかしたら、ケーキみたいな甘いのは駄目かもしれない。飴は好きでも、洋菓子などは駄目かもしれない。和菓子が好きかもしれない。
細々と一人で生活する原因――暗い過去に触れてしまうかもしれない。
「やっぱり、七瀬を家に置いてくる」
『……………………は?熱ある咲也を家に独りぼっちにすんの?』
「……七瀬は俺を嫌ってる」
『意味分かんないんだけど。八尋君だよね?咲也を俺の家から連れてったの』
「俺が馬鹿した。だから、お前の家に返す」
本当に、俺は何がしたいのだろう。
『…………八尋君は咲也を咲也の家に連れてって。俺の家に連れてくるより早いから。そしたら、あとは俺が咲也の世話するから』
大野は世話好きで……そうだ、それがいい。
「分かった。今すぐ七瀬を連れて――」
『八尋君。俺、会長に七瀬咲也を辞めさすように言うから』
「…………え?」
『あのねぇ、八尋君。ホントの大人は皆、自分の尻拭いは自分ですんの。でも、大事な大事な八尋君の場合は、八尋君の尻拭いは周りの奴がすんの。……八尋君にとって七瀬咲也は邪魔だ』
“邪魔”
水槽に取り付けたポンプの音が妙に煩く感じる。
『上司権限で俺をクビにしてもいいよ。でも、筆頭世話役として、会長に七瀬咲也のクビを進言するから』
“筆頭世話役”の肩書きがあれば、会長はきっと……。
「駄目だ!!」
『“駄目”とか“厭”とか聞き飽きた。子供じゃないんだから。それか、大人として見てほしいなら、八尋君なりの言葉で俺を止めてよ』
突然何だよ。
子供とか大人とか。
『役員皆を差し置いてまで我が儘言って、そのくせ簡単に放り出す。咲也もそんな情けない上司の下に居たくないさ』
「知った風な――」
『それは古い脅し文句だよ。今時はね……』
愚図野郎。
「――!!っ……大野!!」
『ほら、何も言い返せない。八尋君は考えたことある?他人のこと。咲也のこと』
「突然……」
『咲也がもし俺達のこと知ったら?咲也がどうして国都に入れたのか知ったら?俺は……裏切られた気分になる。がっかりとかじゃない。……辛いよ』
「………………」
『でも、八尋君の最初で最後の我が儘なんだよね。ならさ、咲也のこと守ってよ。咲也のこと守りたいなら、先ずは咲也のことをもっと知ろうとしなよ』
だが、俺は七瀬咲也の上司でしかない。
『俺は八尋君の教育係でもあるから…………八尋君が必要としないなら、咲也はもとの生活に戻してあげるのがベストだよ』
それがベストなのかもしれない。
だけど…………――
「七瀬には……夢があるんだ」
『夢……?』
「七瀬は他人を救いたい……その為に力が欲しい……」
“ヒーローになりたいです”
「な……何で先輩が……何で知って……」
七瀬がソファーから体を起こして目を見開いていた。
赤い頬に濡れた瞳。
唖然と開いた口。
「何で……僕の夢を……だって、その事は……」
「っ!!」
俺は受話器を振り投げて乱暴に電話を切っていた。
「何で……何で何で何で先輩が!!」
唇の間から歯が覗く。
眉間にシワが寄る。
「何で先輩が知ってるんだよ!!!!」
今までに聞いたことがないような大声。
七瀬の拳がローテーブルに落ちた。
鈍い破裂音と微かな震動。
七瀬が本気で怒っている。
負の感情を露にして。
憎しみを剥き出しにして。
「あんたは隼人じゃない!なのに知ってる!あんたは僕のノートを勝手に読んだんだな!!!!」
ワイシャツの襟首を掴まれて引き寄せられる。背の低い七瀬に対して、俺は自然と前屈みになった。
「机の中にしまっていたノートを!!!!」
震えるまで力を込めた七瀬の手のひら。
見える。
深い傷痕が。
手のひらに横一線。
虐待の傷痕が。
「よくもよくもよくもよくもよくもよくも!!!!」
左手が小さな拳を作る。
嗚呼…………俺を殴れ。
すまなかった、七瀬。
もう何も見えない。
長い長い彼の告白はこの言葉で終わっていた。
海上結城さんのリクエストにお応えして、「幸せ者」を短編投稿しました!他連載作品、「啼く鳥」番外編になりますが、よろしくお願いします。
*pc不在で4月は投稿できませんでした。すみませんm(_ _"m)