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疑惑

「せんせーっ!!」

 少女は母親の手から離れると、左右から垂れる三編みを揺らして駆けた。走り様に抱き付き、ぱふりと彼の白衣に顔を埋める。

「病院で走っちゃ駄目だよ、涼子(りょうこ)ちゃん」

 優しく注意した彼は、反省の色もなく、笑いながら「ごめんなさーい」という彼女の頭を撫でた。

「ねーえー、せんせーからいい匂いがするー」

「俺から?どんな?」

「甘い……」

 くんくんと鼻を鳴らした涼子は少しだけ彼から体を離し、しかし、手は彼の白衣を掴んだまま目を閉じる。

「甘い匂い……」

「はい、これ。退院おめでとう」

 チョコだ。

 彼は白衣のポケットから小さなチョコの包みを取り出してみせる。

「くれるの?」

 くりくりした少女の瞳。

「うん。でも、食べたら歯磨きするんだよ」

「はーい!先生大好きっ!!」

 彼女は手のひらにチョコを乗せて満面の笑みを見せる。そして、きゃっきゃと結んだ髪が乱れるのも構わずに彼に擦り寄っていた。

「もう、涼ちゃん。先生はお仕事中なんだから、それくらいにしないと。……先生、お仕事の邪魔をして申し訳ありません。チョコありがとうございます」

 涼子の母親は爽やかな笑顔の絶えない彼にペコリと頭を下げる。

「いえいえ。お仕事中と言っても、俺はまだ学生ですので、学んでいる最中です。涼子ちゃんにも沢山学ばせてもらいました」

「私からー?」

「夜な夜なベッドを脱け出す子についてね」

「まぁ!涼ちゃん、皆さんに迷惑かけてたの!?」

「むうぅ……先生、酷いよ!」

 ぷっくりと頬を膨らませた彼女は意地悪く舌を出して笑む彼を睨んだ。

「でも、小さい子達をよく纏めてくれたよね」

 しゃがんで少女の目線と合わせた彼は「ありがとう」と感謝する。すると、涼子は大きく頷いて母親の腕に入った。

「先生なら本物の先生に絶対なれるよ」

 茶色の長袖から出た手のひらで彼に手を振る彼女。

 オレンジと赤のチェックのスカートを揺らす彼女。

 涼子は母親の手を握って歩いて行った。



「お!いたいた!澤谷(さわたに)先生が学生呼んでる。飯奢ってくれるって」

「奢って?…………お説教かな……」

「嫌なこと言うな」

「冗談だよ。澤谷先生はお説教は座禅組ませるから」

「うわ……よく知ってんな。…………てか、澤谷先生に世話になったんだっけ」

「俺の命の恩人だよ」

「………………」

「気にした?」

「あ……まぁ…………」

「いいんだよ。俺は今、真っ直ぐ前を向いて歩いてるから。だから、いいんだ」

「………………そっか。だよな」

「ああ」

「じゃあ、早く行こうぜ、珠樹(たまき)

「そうだね、先生を待たせちゃいけない」









「Good morning.」

「グッドモーニング」

「Good afternoon.」

「……グッドアフタヌーン」

「Good evening.」

「…………グッドイブニング」

「……………………」

「……………………」

「……あのな…………――」

 鈍感な僕でもその気持ちは察することができるぞ。

「――……お前、発音下手くそだ」


 だがしかし、僕は日本人だ。


 と、言い訳しよう。



 Good morning.

 My name is Sakuya Nanase.

「ハローハローハロー!」


 ごつッ。


「お前はアホか?アホだな」

 最近、よく喋る先輩は僕の額に拳骨をぶつける。

 痛い。暴力反対。

 これはきっと、セクシャルハラスメントならぬバイオレンスハラスメントだ。

 言いづらい“ハラスメント”だけど。







 さてさて、ハロー。

 今朝は担当空き部屋を先輩と一緒に回りながら、ついでにスパルタ教育を受けていた僕だ。

 基本文法を黙々とこなし、並立して基本英文を覚える。

 Good morning.

 Good afternoon.

 Good evening.

 この3文は最も大事らしい。

 ま、僕も挨拶は基本だと思う。

「お前の発音は日本人だ。アメリカ人になれ」

 そんなの無茶だ。

「日本語は母音が重い」

 あ行は重いのか。

 ま行よりも…………重い?

「“おもい”もダブルで重い!?」

「寒いジョークだな」

 酷いですよ、先輩。

 洗面所の備品を確認する先輩の背後でピカピカの棚やら何やらを磨く。

「ジョークはさておき、日本語に対して、英語は母音が軽いんだ。つまり、母音はほとんど発音しない」

 “かるい”はちょっと軽い――なんちゃって。

「例えば、『morning』だ」

 モーニング?

「くどい日本語にすると、『もおぉにんぐ』になる」

「…………っ……」

「………………笑うな」

 努力します。

 でも、『もおぉにんぐ』はツボだ。……ツボ過ぎる。

「で、英語ならいっそのこと、『モニング』でいい」

 モニング……マジで?

 先輩はクルリと振り返ると、きゅっきゅと磨いていた僕を見下ろす。間は1メートル弱。

 苦手な距離だ。

「Repeat after me.……Good morning.」

「グッド……morning.」

「俺は“ド”を言ってねぇよ」

 先輩に口をむんずと掴まれた。間は40センチ強。

 変態と間近だが、色気も何もない。

 先輩の目が怖い。

「Repeat!!Good morning!!」

 声は爽やかなのに顔が……顔が怖いです。

「グ……ググ“Good morning”………………」

 オーケー、ティーチャー?

「上々だ、七瀬(ななせ)

 クシャリと頭を撫でられた。

 36階3612号室のツインルームの隅でクシャクシャと……先輩が微笑している。

 二人きりだし……。

「………………うう……」

「七瀬?顔赤くないか?」

「だ、大丈夫です!」

 何赤くなってんだよ、僕。

「これで最後だし、飯にするか」

「…………はい」

 僕は頷くしかない。





 その話題が出たのは、優一(ゆういち)さんと陸奥(むつ)さんとともに消耗品の在庫がどれくらいあるか調べていた時だった。

「明後日は八尋(やひろ)く……高橋(たかはし)さんの誕生日じゃん」

 八尋君ね、八尋君。

 まず、出会って3ヵ月ちょっとで上司の誕生日を知ってる時点で“高橋さん”の仲じゃないことは分かるから。

 普通は上司の趣味とか…………あ、僕は知らないや。

 てか、やっぱり先輩は僕より年上だった。時々、子供みたいに駄々捏ねるのに。

「7月27日。水曜日だから、俺達午前だけだし。午後から誕生日パーティーとかどうよ?」

 誕生日パーティーってアレだよね。

 魅惑の一大イベント。

 しかし、このイベントは年数が経つほど輝きが薄れていったりする。

 10才――わあい!

 15才――僕は家で一人。

 17才――隼人(はやと)家で盛大に祝われて照れる。

 18才――バイト探し。

 21才――寝込んだけど、(れん)がケーキを買って僕の家に訪問。

 22才――21才の誕生日と同じ。

 きっと、蓮は繋がりが消えるまで律儀に僕を祝ってくれるのだろう。

 だが、正直、僕は僕の誕生日を忘れてた。蓮が1年1年祝ってくれなきゃ、26才ぐらいで自分がいくつか分からなくなると思う。

「もう25……早いですね」

 “もう25”?

 “早いですね”?

 それはまるで、陸奥さんと先輩は長い付き合いがあるかのような言い振りじゃないか。

 僕は先輩が好きな食べ物も嫌いな食べ物も知らないのに……。

 年齢なんていうデリケートな話題を上司とはしないものだと考えていた。

太國(たくに)のじっちゃんのとこで寿司とかどう?」

「高橋さんは太國さんのお寿司が好きですからね」

「で、帰りに林洞のカフェに行ってケーキ!」

「そうですね」

 楽しそうな優一さんと、こくりこくりと頷く陸奥さん。

 もう僕は二人が先輩とつい3ヵ月前に会いましたとか信じない。

 しかし、一体、この二人は先輩とどういう関係だろう?

 雑務新人として会う以前から知り合いだとしたら、何で“初めまして”な雰囲気だったんだ?

 わざわざ隠す必要が?

 何のために?


 隠すとしたら誰から隠す?

 ……………………………………僕から?


「――――咲也?……咲也、お前はどう?」

「え………………あ……いいと思います」

「じゃあ、明後日まで秘密な!サプライズって楽しみだな!」

「そうですね」


 僕は一瞬、二人を疑った。すごく恥ずかしいことだと分かっているけど、だ。



 4人組のはずなのに、僕は先輩や優一さん、陸奥さんと隔たりを感じたのだ。




 なんか遠いな。



 僕はそう感じてしまった。

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