飴玉
『嗚呼……あなたのお名前を……どうか、あなたの……』
『名などありません。私は名無しです』
『名前が……ない?それではあなたは昨夜の……』
『マリア様、お逃げください。追っ手は私が』
『でも……――』
『マリア!行ってください!』
『っ………………なら、約束して!』
『?』
『…………死なないで』
死なないで、騎士様。
「名もなき騎士……か。キザ過ぎないか?」
「失礼な!晴子さんの劇作はかの有名な菊池寛の劇作に負けず劣らずと言われているんですよ!?」
「セレクトが渋い」
我が劇場の劇作家の晴子さんと菊池寛大先生に謝れ!
と言いたいとこだが、僕もキザ過ぎやしないかとは思っていた。
さりげなくマリアのこと呼び捨てにするし。
いや、分かるよ。
仮面の下はイケメンの騎士に呼び捨てされるなんて、現代女子からしたら「きゃあ!(好意)」だよ。
だけど、だからって、キザだ。
男の僕からしたらキザだね。
「キザでいいんです!キザな分、女性客は喜ぶんですから!」
これは蓮曰くの言い訳で、一番しっくりくる言い訳だ。
所詮、劇は金儲けであり、金儲けだからこそ、手を抜くことは許されない。
劇はサービス業の一種であって、サービス業ではない。本に文字を残す作家とも違う。
結局、一夜……その場かぎりの幻想だ。
しかし、劇を見ても空腹は変わらないのに、劇にお金を払う人がいて、劇でお金を貰う人がいる。
『人は自らのお金を食べ物でも衣服でもなく、芝居に使う。芝居が彼らの腹を満たす?芝居が彼らを温める?否だ。ならば、彼らは何にお金を払う?』
癒しだ。
『河合さんは僕に毎月4万は払う』
蓮は高給取りだったりする。
『僕は悲しくなるよ。だって、僕は一回の芝居で河合さんの心が一生満たされるようしてるつもりなんだ。だけど、足りないんだ。河合さんには週3で芝居を見ないとダメなんだ。僕の声はまだまだなんだよ』
そんなことを蓮が言ったら、僕は猿真似か何かになるんじゃないかな。
『咲也。僕はこの劇場に誰も客が来なくなればいいと思う』
と、役者あるまじき発言を蓮はばっさりとした。
『それってつまり、皆心が満たされてるって意味だろう?』
言われてみれば、蓮の言葉が正しく思えてきた。
劇場に来るのは何かが足りないから。
何かが足りれば、来ることはなくなる。
『僕はその日が来るまで、試行錯誤を繰り返しながら舞台に立つよ。それで、また誰かが芝居を必要とした時の為に、僕はここで歌い続けるつもり』
毎年、イブは蓮が歌を歌う。2時間ほどぶっ続けで歌うのだ。
時にカップルの為に、時に近所の子供達の為に、時に満たされない心を抱える人の為に。
彼はクリスマスイブに劇場の誰よりも過酷な仕事を進んで引き受ける。
『あなたの心に光あらんことを』
蓮はそう締め括るのだ。
「大事なのは、お客様が劇場に来て何かを手に入れられることですから」
見えない何かをあげられること。
「あ、それ分かる」
……………………………………。
「え?」
今、先輩が賛成した?
ローテーブルを挟んで向かいの先輩はパンも食べ終え、平然とコーヒーを啜っている。
それにしても、姿勢を崩してコーヒーを飲む姿は、これでも気を遣っている僕より寛いでいる。
「新聞とってねぇの?」
ほら!
僕の家で僕より楽にしてるし!
「ラジオを聴いて下さい」
年代物と言うか……。
先輩は僕の指差した先を見、その箱型機械を物珍しそうにつついた。
「お前、ラジカセの時代なのか」
あんたより年下だよ。多分。
それに、CD入れられるところもあるし。
ウォークマンとか何とかとか、あれはカセットテープもCDも使えないじゃないか。
だから、
レコードみたく、いつか、カセットテープも価値が出る。
と、願ってる。
「なら、先輩はレコードプレーヤー時代ですか」
言い返してみたつもりも、
「家にあるぞ?」
僕はラジオのつまみを回して楽しむ先輩に言い返された。
所謂、『墓穴を掘る』だ。
だって、家にレコードがあるなんてカッコいいじゃないか!
想像してみてほしい。
煉瓦積みの暖炉からはパチパチと木々の弾ける音。赤とか朱色とか、幾何学模様の入った絨毯。インテリアソファーは座ると体が沈むのだ。
湯気の漂うコーヒーに口を付けながら、目を閉じて耳を澄ますと……。
モーツァルト!
ああ、湯気が私のふわふわお髭を撫でるぜ。
「七瀬って妄想癖あるよな」
「へ?」
「妄想はそこまでにして、早く支度しないと遅刻だぞ」
「え!?」
皮肉にも、見上げた時計は遅刻ギリギリだ。あと10分以内に出ないと遅刻決定となる。
徒歩辛し!
しかし、定期代には変えられん!
「やばっ!」
僕はハンガーに掛かる新品スーツセットを乱暴に手に取った。
「昨日何してたわけ?」
「昨日ですか?……用事があって書き置きを……」
「用事って?新しい薬あったけど、お前、悪化したのか?」
早歩きしながら、先輩が欠伸して聞いてきた。
『悪化したのか?』と訊かれて『悪化しました』と答えたら、クビだ。それくらい僕でも分かる。
しかし、この人に嘘は通用しない。
「悪化したと言うか、僕、まだ仕事に慣れてないから疲れが溜まって、薬の量を増やしちゃって、少し足しただけで……」
僕は何を言いたいのだろう。
言い訳がましいような、愚痴のような。なんか、こんな時に先輩に話すのは卑怯な気がした。
「っと、問題ないです」
「そうか?なら、これ」
これ(紙束)はまさか……。
「昨日の課題。いつもより減らしたから、お昼にでもやっとけ」
なんとまぁ、鬼畜な先輩!
「こっちは昨日くれたやつ。間違いは見直しとけよ」
なんとまぁ、バツが多い僕!
「バツばっかり……」
マルは一体どこだ?
「あとこれ」
次は一体何なんだよ!朝っぱらから僕のテンションを地に落とす気ですか!?
と、思いきや、
「これ…………」
「しゅわしゅわサイダー飴。宿題やってきたご褒美」
包みに入った飴玉がころりと僕の手のひらに乗った。
先輩は絶対に僕を子供扱いしている気がする。
物凄くムカつくが、僕の中の主婦精神(節約のみに役立っている)が『貰えるもんは貰っとけ』と叫び、僕は飴玉をポケットにしまっていた。
嗚呼……僕の貧乏性め!!
でも、サイダー飴とかシュワシュワする飴とか、案外好きだったりするのだ。
「お?それ宿題?」
「まあ」
「偉いな、咲也は」
お昼休みに職員用食堂で隣に座る優一さんは僕の頭を撫でた。
「咲也の字、綺麗だな!」
と、僕の字を褒められたのは素直に嬉しい。
よくあることだが、自分がそれなりに得意だと思っていることを人に褒められると、御世辞だとしても喜ぶアレだ。
僕は字が綺麗だ。
男の中では上位100人に入るぐらい綺麗だと自負しているぐらいだ。この字のバランスはアートと自称してもいいと思う。
「習字とかやってたのか?」
「僕、何かを書くのが好きで、紙に漢字を沢山書いてたんです」
“パパの名前”から“ママの名前”まで、沢山、沢山……。
「へぇー。あ、この赤ペンは高橋さんの?」
間違いの数だけある赤は憎たらしい。
「ほんのちょっとのスペルミスでバツとか……」
「文法上は当たってるな。でも、詳しい解説付きじゃないか」
そうなのだ。
厳しすぎる赤は憎いが、ボールペンで模範解答だけでなく、僕が使おうとした単語に合わせた解答も書いてあるのだ。
それも、僕程ではないが、字はまあまあ綺麗。
繰り返すが、“僕程ではないが”だけどね。
この行為が面倒なのか楽なのかは判らないが、時間が掛かっていることは事実で、僕は困惑中だ。
お陰様で、先輩が変態野郎ということを忘れそうだ。
いや、考えたら逆にあの時のあれが脳裏に鮮明に……!
そうだ、あのキスは遠慮がちだが、舌を……舌をぉおおお!!!!
敵と言うか、腹黒悪魔から飴玉を貰ってるなんて、僕の馬鹿!
「愛されてるなぁ、咲也。俺なんか『先輩』って呼んだら殴られた」
なんじゃそら。
先輩は『先輩』をわざわざ求めて来たのに。
てか、それって愛されてるって意味なの?
キス魔が益々ムカつくからもう『先輩』って呼ぶの止めようかと思った。
なのに、
「ぶっぶー。ふせーかい」
と、意地悪そうな笑顔で頭上から言われたら、
「教師が宿題の邪魔しないでください、先輩!」
と、つい呼んでる僕がいたのだ。
どうせ、七瀬咲也は馬鹿ですよーだ!
「でも、字綺麗だな。昨日、採点しながら思った。今日の報告書書くか?」
ふん!馬鹿を馬鹿にする馬鹿正直な人の提案なんて聞くか!
とか、思ってたのに、
「か……書きます」
照れ屋さんっぽく、僕は頷いていた。
誰か、褒め言葉に弱い僕を殴って欲しいよ。
「本当に綺麗な字です」
先輩の隣に立つ陸奥さんも僕を褒めてくれるし、僕はマジで赤面していた。
が、
報告書を書くという面倒事を押し付けられたと理解したのは、美しくを念頭に今年一番の力作となった報告書を作り上げたあとだった。
「騙しましたね!」
「お、ありがとうな。ほら、しゅわしゅわコーラ飴」
コロコロと飴玉が2個。
そして、僕は本日計4個の収穫に上機嫌でスキップしたりしていた正真正銘の馬鹿であった。
だから何で僕は飴玉で喜んじゃうんだ!?