泣かない約束
あれから1週間。
「咲也、こっちは終わったけどー?」
「ひは……ゆっ……優一……さん…………!」
「お、大丈夫か!?」
「し……死ぬ……ぅ…………」
現在、僕は布団の中で溺れていた。
「天然もここまでくるとドジだな」
何でこの人は一々人の神経を逆撫でしてくるんだろ。才能なのか?だとしたらどんだけ性格が曲がってんだか。
「トイレなんて言ってサボってた先輩に言われたくないです」
トイレに1時間とか、腹壊したとか言ってもサボりにしかならない時間だ。第一、神経の図太い先輩が体調を崩すとか絶対にない。
しかし、今の僕は心中で憤慨しながら、黙々と山積みになった布団を畳むだけだ。
優一さんと陸奥さん。
そして、僕と先輩。
二人一組で別れて、今日は雑務らしく第一倉庫の掃除と第五倉庫への搬入をしていた。
普通はフロントとかボーイとか、ある特定の仕事を皆専門にするけれど、雑務は違う。雑務は仕事内容が決まってない。だから、他の仕事の緊急要員であり、ただの雑用係でもある。仕事が決まってない分、要求される能力は高く、適応力も応用力も必要。
最初は掃除や掃除や掃除。
完全にホテルの下っ端だ。
しかし、それなりのベテランになると、お得意様や御要人の滞在中の一切を任されたりするそうだ。そこまでいくと、貰えるマネーもかなりのものとか。
つまり、
益々、何で並かそれ以下の僕が雑務に配属されたのか分からない。
ということになる。
さて、あれから1週間、国都従業員の心得その2の『常に清潔であれ』に従って毎日シャワーを欠かさず、支給されるクリーニングされたワイシャツとスーツを着て、僕は掃除という掃除をやりまくっていた。勿論、心得その1の『気持ち悪いくらい笑顔を振り撒くべし』という気持ち悪い心得に従って。
確か、昨日まで先輩は雑務の仕事を休んでいた。僕のヘマの次の日からだから、気にならないと言えば嘘になる。僕の首は切れずに済んでるし。まさか、先輩が監督責任で…………とか。
それを訊いたら、
『サボり』
と、サボるようなテンションを持ち合わせてない僕は先輩にイラついた。
今日の仕事はでかい倉庫の壁に取り付けられた棚に部屋ごとに決められた布団を仕舞うと言うもの。
これが細かい。
キングサイズのベッドがあるスイートルーム用とか、特定の素材でアレルギー症状がでる人用の部屋とか、泊まる人には優しくても従業員には優しくない。
大きなケースに入れられ、更にビニールに梱包された布団をいかにも高そうな機械に倉庫まで運ばせた。新品の靴下を穿いてヨチヨチと重いケースを1つ抱えて入った倉庫のフローリングの床はピカピカしていた。
「流石……国都?」
「なんで疑問符付けるんだよ」
「凄すぎて……うまく考えられな……あ!!!?」
綺麗過ぎて靴下で滑っ……て!?
「七瀬!」
視界が眩しい蛍光灯を捉えたと思えば、逆光の中に先輩の顔。鼻筋が通ってて端正な顔立ちにカッコいいなとか思った自分にムカついた。
隼人の方がカッコいいし!
「ど、どうも」
「ホント、お前は危なっかしいな。間が抜けてんぞ」
「~~っ!!」
だから、一言余計なんだよ!てか、間抜けって言えばいいじゃん!
「じゃあ、そこの端の換気扇を強めて」
僕からケースを取った先輩はさっさと倉庫の奥に運んだ。先輩は運んではまだあるケースを取りに行ったりと、僕も手伝わなきゃと先輩が指差した場所に走った。一瞬、転び掛けたが、どうにか体勢を保つ。
そして、ボタンだらけのコントロール板を注意深く見、換気扇を強めた頃には先輩はケースを開けていた。
僕がいかにトロいか証明された時だった。
「そこにハサミあるだろ?それでビニール切って、タグと同じ棚に仕舞う。リストもあるし、簡単だろ?」
それくらいなら僕でもできるさ。なんて思って……棚の多さに、今更だけど唖然とした。
「W-B-4658-22?……W-B……えっと…………」
「お前の右の棚の左から2列目、下から3段目」
だ、そうだ。
持ってこうとしたら、先輩がちゃっちゃと持って行ってしまった。
これじゃあ……足手まといだ。
「………………」
「…………次はこれ」
「………………はい」
僕は手元のリストとタグを見比べる。
L-Y-2752-13……。
「右の数字から見るんだ。13だろ?ほら、ここから1から順になってる。それから左のをアルファベット順に見て、Lだろ?で、またアルファベット順に見て、Y。この2752は通し番号だから意味はない」
リストと棚を指差して丁寧に教えてくれる先輩。
「最初からそう教えてくれればいいじゃんか」とか思ったりした向上心のないアホの自分に呆れながら、助けてくれた先輩をちょっと見直した。
「……ありがとうございます」
「ん。あと、焦らなくていい。時間を掛けていいから、正しいことを体や脳に覚えさせるんだ」
本当は優しい人なのか、ただ仕事に生きる人なのか……先輩はよく分からない。
「次はこれだ」
でも、先輩は僕に時間を割いてくれている。
それだけは分かった。
僕と先輩は黙々と作業に没頭していた。僕が布団運びに疲れてくると、見計らったように交代してくれる。
そして、
「ちょっとトイレ」
とか言って消えた。
先輩のいない間に少しでも沢山進めてびっくりさせてやろう。
と、意気込んで、50分。
「どんだけトイレ長いんだよ!」
先輩もどんだけ意気込んでんの!?
僕のやる気は約15分前から既に雲の彼方へと飛んでいっていたが、先輩の精神持久力は恐ろしい。ここで雑務チーフを務めるだけはある。
という前置きがここまであって……――
「僕もトイレに行こっと…………っあ!?」
ツルツルの床を滑った僕は布団という布団を巻き込んでずっこけたのだ。
僕はドジだ。
「ドジっ子」
「あーもう!昼食にまでついてこないでくださいますか!!」
「ストーカー行為ではなく、俺は昼食を食べようと食堂に来たら、昼休みの時間が同じお前とほぼ必然的に出会しただけだ」
「隣に座る必然性はないかと思われますが!」
「上司として部下とのスキンシップをはかるという重要重大な任務があるからな」
暫く見なかった先輩はよく喋る。それに、相変わらずだけど、何かと僕の世話を焼いている……のか?
今、僕は食堂にいる。
食堂と言っても、料理人がいて食券だかで注文するのではなく、昨日の残り物が無料かつセルフサービスで置かれているだけだ。
僕としては残り物と言えど美味しすぎる匠の味を無料で食べられるここは天国としか考えられない。
「午後は……空いてるな」
「空いている?」
「今日は午後は暇みたいだ」
「マジで!?」
先輩ではない僕の隣に座る優一さんがポテトサラダを頬張りながら目を剥いた。
「マジだが食べたまま話すな」
マジなのか……ポテトサラダ美味しそう。
僕が席を立つと、先輩も立ち上がる。
僕が歩くと、先輩も歩く。
「あの、ポテトサラダ取りに行くだけですが……」
「金平取りに行くだけだ」
男の僕が言うのもどうかと思うが、
僕―先輩が否定しても―先輩にストーカーされてない?
ストーカーとまで言わずとも、なんか視界に入る。トイレと帰宅後以外、なんか近くにいるのだ。
上司だからよく見掛けて当然だが、二手に分かれても陸奥さんと優一さん、僕と先輩だ。
誰が決めたわけじゃないのにだ。
キスのことも(認めないけど)含めると、これはもう、先輩は僕が好き…………なんてあってたまるか!
分かってるんだよ。
先輩は絶対に僕に何かしらの好意を抱いてる。じゃなきゃしつこいぐらい見てるはずがない。
「食べ終わったか。ほら、薬」
そうだよ。
「ほら、薬」って言ってくるぐらい僕はまるで先輩に飼いなされてい……――
「いーっ!!!?」
「午前のドジで頭どうかしたか?」
「どうにもなってません!何で先輩があたかも主治医の如く僕の投薬管理してるんです!?子供じゃないんだから自分で管理できます!」
それも、今朝は仕事が早くて薬を飲む時間を早めたことまで考慮されている。
「ドジっ子にドジされたら困るからな」
自分の薬でドジするほど究極のドジ―いっそ重病―にはなってない!
僕は先輩に口に錠剤を入れてもらって水で飲みながら、心中でツッコミをいれた。
「なー陸奥さん」
「はい。大野さん」
「咲也って、最近慣らされてきてるよな?」
「高橋さんにですか?八尋様にですか?」
「どっちも」
「お二人は仲良くなられましたね」
「仲良くはないでしょ。上司権限行使のかなり一方的なスキンシップに見える」
「それを拒まず……七瀬さんはお強い方ですね」
「あー……まぁそうだけどさ……」
「なぁ、咲也知らない?」
優一は裏をぐるぐると、咲也を探していた。
「咲也……七瀬咲也?えっと……チーフと一緒にいるの見た」
名前だけで既に顔を思い出せる同じ新人に、咲也が見つからないことも入れて、優一はげんなりした目を同僚に向けた。優一だとナリからホストのような出で立ちになってしまうスーツも、彼は着こなし、はや1週間ちょっとで国都の雑務になっていた。
優一は益々げんなりする事態だ。
「八尋とお墨付きならティファのとこだぞ、付き人」
「“付き人”じゃなくて大野ですよ。あと、咲也は“お墨付き”じゃないし」
「ほぉ。そうか」
他の班長が缶コーヒー片手に休憩していたようで、優一の噛み付きを軽く流す。
「咲也のお陰で非常階段の安全性の見直しが図られたんだし、咲也は咲也自身で頑張ってる」
「…………。俺はお前が真っ先に七瀬咲也の採用を反対すると思っていたが?」
「………………反対したさ。でも、咲也はいい加減な奴じゃないし。寧ろ…………八尋君が選んだんだから、俺は信じる」
体育会系の体をそれなりに上手くスーツに収める古株は遠くから優一に向かって歩いてくる陸奥をじっと見詰めた。
「八尋君八尋君。八尋君の言いなりか。さっき自分は大野だと言っといて、お前はまだ“付き人”だ」
「っ……」
「雑務の仕事しろよ、付き人君」
ひらひらと手を振った男は空き缶をゴミ箱に捨てて優一に背を向ける。その際、彼は唇の端に意地悪な笑みを浮かべるのを忘れなかった。
「~~っ!!このやろ――」
「大野さん」
「陸奥さん!?」
「年上に“野郎”は駄目ですよ」
「……………………あの些か鼻につく男め」
陸奥に指摘されて優一は言い替えたが、あまり変化はなかった。
「ティファちゃん、咲也と高橋さん知らない?」
「優一さん、灯さん、こんにちは。二人なら知ってますよ」
「優一君でいいのに。新鮮だったし」
「それじゃあ、優一君。奥の部屋にいますよ」
6時から開くバーは薄暗く、ティファが片隅に置かれたグランドピアノに付いた埃を拭いていた。
「奥の部屋……密室……二人きりで密室に!?ヤバくね!?」
「大野さん、妄想が激しいですね」
「普通ですよ!」
咲也ぁと声を絞り出す優一は案内のティファの後ろからついていく。ティファがドアを開けようとして、優一がドアノブに手を掛けた。
そして、ほんの少しだけ開けて中を覗く。
……………………パタン。
「優一君?居ませんでしたか?」
「いや……いた」
神妙な顔の優一にティファと陸奥が背後をついてバーのカウンターへと戻る。
「探しに来たんじゃないんですか?」
ティファが訊ねる。
「ここらへん知らないって言ってたから穴場でも紹介がてら遊ぼうかと思ってたけど……」
「大野さん?」
陸奥が先を促す。
「今入ったら八尋君に悪いなと」
「?」
ティファが首を傾げ、陸奥は悟ったように微かに笑みを溢した。
「大野さん、私達二人だけで行きましょうか」
「陸奥さんの食べたいもの第一希望ってなんでしたっけ?」
「パフェですよ」
「…………ああ……パフェでしたね。あまりに衝撃的で頭真っ白で忘れてました。……行きますか」
「はい」
若いお兄ちゃんと初老の二人がなんだかすっきりした背中を並べて歩く姿にティファはちょっと驚いた。
眠ってしまったようだ。
ただでさえ苦手な英語の教科書を先輩の監視下で読むなど……――
『英語ですかぁ?』
『1からか?』
『そ、そんなわけ……“掘った芋弄るな”?』
『分かってしまう俺が憎い。1からだな』
『…………言い返せない僕が憎いです』
と、中学、高校と習いながら、社会人からまた英語を1から気に食わない先輩に習うことになったのだ。
一対一の個別授業に折角の休みを取られた僕はそう……いつの間にか……。
「有り得ない……」
有り得ないだろ。
何で僕は英語の教科書を掴んだまま先輩の肩に凭れて寝てたわけ?
「ん……」
「わわ……先輩寝てるよ……」
先輩は先輩で僕に凭れて……。
先輩でも寝顔見せるんだ。赤ちゃんの頃から目を開けて生まれたんだと思ってた。それも有り得ないけど。
大の男が……――
「可愛い顔……なんて言ったら怒られるんだろうなぁ……」
ぴょこんと髪を跳ねらす先輩をどうしようもなくて、目を瞑って僕も先輩に凭れた。
眠ってしまったようだ。
「……七瀬……?」
七瀬が眠っている。
可愛いな。
なんて言ったら怒るだろうが。
こんな近くで寝顔を見れるとは。
「俺は……もうお前が悲しむのは見たくない」
『世界が……あなたが泣かない為の約束を』
「お前は……誰かの力になれるんだ。それに気づいてくれ」
八尋は咲也の頬を伝う涙をそっと拭った。