きみがいるから
彼女は咄嗟に自分を抱き抱えた男の後頭部を両腕で抱き締めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……助けて……」
彼女は忙しい姉が折角決めてくれたドレスを所々汚して涙を溢していた。赤く腫れた両腕を床に横たわる青年の胸に乗せ、ぽろぽろと雫を落とす。
「助けて……助けて…………」
どうすればいいのか分からない。
お姉様、分からないよ。
普通は誰かが直ぐに助けてくれるのに。
どうして普通じゃないの?
「助けて……助けて……助けて……」
この人、動かないよ。
分からないよ。
「助けて…………助けてよぉ!!!!」
バタンッ。
非常階段の踊り場にいた彼女は勢い良く開いた扉の向こうに息を切らすスーツの男を見た。
“誰か”だ。
彼女は涙で顔面をぐしょぐしょにして、膝を突いた男の胸に飛び込む。
「助けて助けて助けて」
男は彼女を離してポケットから取り出した純白のハンカチで彼女の顔を拭くと、無言で携帯を弄り始めた。彼女は電話を掛ける男の腕を引く。
「何ですか?……お怪我をされて……」
彼女の腫れた手首を見詰めた男。
だけどそうじゃない。
今伝えたいことはそんなことじゃない。
「助けて、あの人、ベルのせいで……」
こんなのレディじゃないって分かってる。だけど、助けてくれたヒトを助けなきゃヒトじゃない。
「ベルが……意地悪したから……」
お父様はお仕事で、お母様はお父様にくっついる秘書様で、お姉様はお父様とお仕事のお勉強。だけど、ベルにはしなくちゃいけないことが1つもない。なのに、皆はベルに「小さい頃から大変ですね」って言う。
でも、違う。大変なのはお父様やお母様やお姉様だ。ベルじゃない。ベルはそんな言葉はいらないから、ベルは皆と遊びたかった。
次女で、ただいるだけなら、ベルは目一杯遊びたかった。お姉様が「できるうちにできるだけ遊びなさい」と悲しそうに言うから、沢山遊びたかった。
だから、ここのホテルの人達と遊びたくなった。
ベルがいなくなったら、きっとホテルの人達はベルのかくれんぼに参加してくれる。だけど、全然探しにきてくれなくて、ベルは探さなくていいってお父様が言ったのかもしれないって思って、辛くて、そしたらあの人がやってきた。
きっと、ベルと遊んでくれる。
そう思ったから。
意地悪は遊びじゃないのに……。
「ベルの……ベルのせい……」
「いいえ、お嬢様のせいではありません。我が従業員の不手際です」
不手際?
そんなの…………あんまりだ。
「違うの!ベルが階段を踏み外したから!あの人はベルを庇って……」
「では、先ずはご家族のもとへ案内いたします」
「ベルは一人で帰れるから!あの人を…咲也さんを助けてよ!」
ベルは甲高く叫ぶ。掠れた声で強く叫ぶ。
と、
「ベル」
「……ぇ……っ…………おね……さまっ」
漆黒のドレスにブロンドの髪が映え、紅の瞳の彼女、ベルの“お姉様”のリゼ・ナイトは泣き叫ぶ妹を抱いた。
「ベルっ……どうしよぉっ!」
今までに見たことがなかった混乱する妹の姿にリゼはそっと彼女の頭を撫でると、意識を失ったままぐったりしている青年を見る。
色素が薄く、茶に近い髪。細い手足。貧弱と言えば貧弱な男。
「この人……」
「ふぇ?お姉様、知っているの?」
「七瀬咲也さんかしら?」
ベルが家族に保護されたのを見届けて、倒れた咲也を介抱する男にリゼは訊ねる。
「はい。今日入ったばかりの新人の七瀬です」
「お姉様、ベルのせいで……ベルを庇って……死んじゃったよぉ!」
「ベル、七瀬さんは生きてるわ。それに、私の知り合いの友達みたい。腕の立つ医者だから、電話してみましょう」
咲也の頬に触れ、「ベルをありがとう」と囁く。その時、彼の表情が柔らくなった。
「ほ、ほんと?生きてる?」
「ええ。でも、皆さんに迷惑を掛けて、ダメでしょう?」
「ごめんなさい……お姉様」
しゅんと縮むベル。
「電話をお借りできるかしら?」
「どうぞ」
男からすらりと伸びた指で携帯電話を借りたリゼは番号をてきぱきと押してそれを耳に当てた。
「ベル、ちゃんと状況説明をしてあげてね」
「う……うん」
死ぬ時はたった一人で自分で掘った墓穴で眠るのだとかなり本気で決めていた。
誰かの迷惑になるのは嫌だったから。
自分の限界を知るからこそ、自分がどこまでもマイナスだと知るからこそ、死ぬ時ぐらい一人でやることがせめてもの償いだと思っていた。
生まれてしまったことへの償い。
母さんと父さんの人生を滅茶苦茶にしたことへの償い。
ごめんなさい。
生まれてしまってごめんなさい。
『さく、俺はお前を一人にしない。絶対に』
ああ…………お前はそう言ったのに。
お前は僕の傍にいない。
「ありがとう。君が守ってくれたから彼は頭を打つことはなかった」
「咲也さんは大丈夫?」
「大丈夫。所々の打撲だけだから。もうすぐ目を覚ますと思うよ」
「良かったぁ」
誰かが喜んでる。物凄く喜んでる。
なら、良かったね。
「…………ん……」
「ほら、起きたよ」
「咲也さん!」
何故かガチガチと固い体を起こせば、小さな何かが腹に抱き付いた。それは予想外で、僕は受け身を取れずに背後に傾く。と、背中を受け止める感じ慣れた手のひら。
「………………蓮」
車椅子に座る蓮が僕を支えていた。
「君の後先考えない行動に彼女の手首の捻挫が君の頭を守ってくれたんだよ」
彼女?
「咲也さぁーん!!」
両腕に湿布の彼女、ベルちゃんが鼻を赤くし、目蓋を腫らして泣いていた。
なんだ、年相応の表情をするんじゃないか。
「ごめんなさい!ベル、もっと遊びたくて……だから……」
「ありがとう、ベルちゃん」
「あ……あのね…………ありがとう、咲也さん」
素直な女の子はなんて愛らしいんだ。
僕はどさくさに紛れてベルちゃんの頭を撫でようとしたが……――
「嫌だわ、七瀬さん。その子の姉の前で断りもなく私の愛らしいベルにいちゃつこうだなんて」
“私の”のところでわざわざ息継ぎをされてしまった。
それよりも、“いちゃつこうだなんて”って何!?
言葉の意味が分からないわけじゃないけど、どうして“いちゃつく”まで拡大解釈されているのかが不明だ。しかし、ベルちゃんのお姉さんとやらは目が冗談じゃなかった。
「まあまあ、オズ……リゼさん、咲也は大丈夫ですよ」
「彼は幼女には興奮しない質でしたわね」
なにこの会話。
さすがの蓮でも殴りたいと思ったよ。なんてことを教えているんだ。
僕が幼女に靡くことはないと?
隼人みたいな優し可愛かっこいい草食と見せ掛けて隠れ肉食系純情男子に釘付けだと?
否定はしないけど……。
「咲也」
蓮が真っ直ぐ僕を見てくる。
これは……――
今回は絶対にお説教だ。
ベルちゃんを守ろうとして、寧ろ、危うく大惨事になりかけた僕の振り返りも立ち止まりもしない突発的行動に褒め言葉があるとは思えない。
「お説教」
やっぱり。
蓮の後ろで董子さんが小さくガッツをしている。そこから少しだけ力を貰う。
「どうぞ、蓮」
僕は腹をくくった。
「咲也、薬はどうしたの?」
そうきたか。
「えっと……あのですね……」
「正直、咲也が階段から転げ落ちただけでよかった」
正直ですね。でも、次に蓮が言いたいことが分かる気がする。
「発作なら確実に死んでたよ」
率直な言い方。蓮は本当に言いたいことでは周囲にも相手にも気を遣わない。
嫌い。
駄目。
死ぬ。
気を遣っていたら、何か起きた時には手遅れだと知っているから。
「お願いだから、薬はいつでも手の届くところに置いといて。ここの人がなんと言おうが、クビにするってんなら、僕が他のホテルを責任持って探すから」
蓮は親友だ。
「ごめん。……と、ありがとう」
「咲也は僕の大切な友達なんだから」
蓮はいつの間にか僕の傍にいるんだね。
「なくした!?」
「う……うん」
だって問答無用で引き摺るから。
「どこで!」
蓮は思いの外、焦っていた。やはり、死に物狂いで探した方が良かったのかも。
「あれ、2ヶ月分だけど、作るのに1ヶ月はかかるから……」
これはピンチ?僕は死の淵にいるってこと?
「多分……ホテルの中なんだ。探そうとしたけど、道が分からなくて」
「蓮様、私が探してきます」
「白い蓋で拳大の瓶」
「分かりました」
「え……僕が……」
自己責任だからと断ろうとしたが、董子さんはさっさと行ってしまった。僕も探そうと今朝と同じ長椅子に手を突いて立ち上がろうとした。しかし、それを蓮が止めた。
「だーめ。咲也は寝てなきゃ。熱っぽいし」
「でも、大丈夫だか……――」
深い青。
深海の色。
蓮は僕をじっと見下ろす。鈍い金髪がさらさらと頬を撫でていて、屈んだ上体が僕に傾く。
「咲也はもう一度眠るんだ」
ゾクリと響く歌姫の声。
歌うように……。
「…………蓮……」
蓮の目が光ったように見えたかと思ったら、ベルちゃんに抱きつかれたまま僕は眠ってしまった。
あ…………先輩だ。
薄目を開ければ、先輩が僕の傍でパイプ椅子に座ってミュージックプレイヤーのイヤホンを耳に、どこか遠くに顔を向けていた。
それに隼人が重なる。
隼人もこんな風にして何かを考えていた。
大体が他人のこと。時々、自分のこと。
ふと先輩が僕に視線を投げた。
もう少しさっきの状態が続いていたなら、自然と起きれたのに、タイミングを失った。
狭い視界に先輩の腕が入り、綺麗な指が僕の額を撫でる。前髪をどかしているのだろうか。ひんやりと気持ちがいい。
目蓋を下ろして心地好い闇に落ちていると、指は離れた。
どうしたのだろう?起きようか?
再び薄目を開ければ、僕に掛かっていたらしい毛布が首まであげられる。そして、先輩の顔が僕に近付いた。
冷たくて、野生の狼みたいな目。だけど、何だか寂しそうだ。
お前はひとりぼっちの目をしてるね。
『さくは悲しくないの?』
僕はただただ先輩の唇が僕の唇に触れているのを感じていた。
「咲也!」
がしり。と、首が……。
「大野さん、七瀬さんが苦しいですよ」
「だってお前、突然迷子で医務室って、心配したんだぞ!」
「ひぁ……く、くるし……あ、ごめんっ……なさっ」
ごめんなさい、優一さん。
ごめんなさい、陸奥さん。
今日2度目の医務室の長椅子。そして、今日2度目の優一さんのハグ。パタパタと手で優一さんの背中をはたけば、やっと放してくれた。
「あの…………蓮は……」
って、優一さんも陸奥さんも知らないか。
「これを飲め」
先輩だ。
先輩が水の満ちたコップと薬を持っていた。董子さんは見付けてくれたのだ。
「起きたら飲ませてくれと言っていたからな」
僕はつい疑って口を閉じると、ぐいぐいとコップを押し付けてくる。
何したいんだ、こいつは!
「飲め」
「咲也、薬は飲まなきゃな」
優一さんが先輩の味方とは。
「七瀬さん、飲まないと病気と闘う力がつきませんよ」
陸奥さんまで……。
「…………」
流れてくる水。錠剤を受け取ろうとすれば、先輩が自らの手で飲ませてきた。強引に。
「ん!?」
過保護というか、舐めんな!
僕の口に付いたんだから間接キスか!
変態が!!
「あ、それ、間接キスですよ!」
「大野、煩い。医務室で騒ぐな」
「八尋君が照れちゃって」
ん?
「八尋……くん?」
何でこんなにも優一さんはこの堅物さんとフレンドリーになれるんだ。
「大野!」
あ、先輩が怒鳴った。医務室で煩いなぁ。
「ああ、すみません」
ぺこりと頭を下げて反省の色がゼロの優一さん。
「大野さん、仮にも上司ですよ。八尋様にそのような態度は……」
仮ではないと思うけど……。
「八尋……さま?」
「陸奥!」
あ、先輩が怒鳴った。医務室で煩いなぁ。
「誠に申し訳ありません、高橋様」
“様”って全然変わっていない気が。
「陸奥……もういい。お前ら帰れ」
陸奥さんに命令!?
「え、厭ですよ!咲也と帰ります!」
僕達そんなに仲良しになっていたのか。優一さんは本当に優しさ一番ですね。
「高橋様、私めが先に帰宅など畏れ多いですが、失礼致します」
“私め”!?もう一体どこに突っ込みを入れればいいのか分からない。先輩も同じようで自分の髪をむしゃくしゃと掻き回して、手で払う仕草をした。すると、鋭角に背中を曲げた陸奥さんは優一さんを引き摺っていった。
そして、僕達はあれだ。
今朝と同じシチュエーションだ。
しかし、無音の室内で僕は咄嗟に身構えたが、先輩は僕に掴み掛かるように見えて、僕にしっかりと薬の瓶を握らせた。無言で。
これは謝るのが常識か。
「すみません。迷惑ばかりかけて。あの、僕が採用されたのきっと手違いです。ごめん……なさい」
『生まれてきてごめんなさい』
僕はどうしてこんなにも後ろ向きなのだろうか。変わりたいと願ったはずなのに……。
涙が……止まらない。
「七瀬……」
「え……あ、僕も帰ります。頭がぼーっとして泣くとか、熱の典型的パターンですよね。明日には治すんで。無理はしませんし。その、お先に失礼します」
陸奥さんのように頭を下げるのだ。きっちり下げてけじめをつけるのだ。
僕は明日にはどうせクビなのだから。
多分、僕のことが話し合われる。情緒不安定の薬を常備してないと走ることもままならない僕の採用取消しについて。
あーもう、愛想笑いは疲れたな。
僕は感情を殺すことに慣れてきたのかもしれない。いや、諦めが早くなってきたのかも。これがいいのか悪いのか分からないけど、変わったということになるかもしれない。
そうだ、クビになったら故郷の誰もいないだろう廃屋と化した我が家で家族ごっこしてみようかな。お菓子買ってテーブルに広げて食べる。
『ありがとう、さくちゃん』
『お、ご飯作ってくれたのか。偉いな、咲也は』
『えへへ、偉いでしょ』
偉いでしょ、パパ、ママ。
僕は先輩の腕の中にいた。
知らない人の匂いがして、それがじわじわと体を温めてくる。僕の氷った心を必死に溶かそうとしているのが分かった。
「謝るな」
あんたは命令ばっかりだな。
「泣くのは構わない。けど、謝るな。罪もないのに謝るな」
嘘つき。
僕は罪の塊なんだ。
「七瀬は悪くない」
嘘つき。
あんたが一番僕の被害を受けているくせに。
「七瀬は悪くないんだ」
嘘つき。
嘘つき嘘つき嘘つき!
「嘘……つき」
「七瀬は悪くない。悪くないんだ。お前が謝る必要はないんだ」
嘘つき……変態。
「お前に感謝している人がいるんだから」
背中を擦って、髪を整えて、涙を拭って、僕は子供のように扱われることに苛立ちは感じなかった。
そして、不本意ながら、僕は先輩の胸に凭れて眠っていた。
「チーフ!ぼくの救世主はどちらに?」
「煩い。おい、ティファの居場所知らないか?」
「ティティーちゃんならバーでピアノ弾いてますよ。あ、その子ですよね!お嬢様を見付けてくれた人!うわぁ、可愛いなぁ!」
「折角大人しくなったんだから静かにしろって」
「ほっぺ触りたいな」
「やめろ」
「ティティーちゃんの部屋よりぼくのマンションの方がよくありません?男同士だし、ちゃんとここに近いし」
「厭だ」
「ちぇ」
「そういうの直せ」
「相変わらずチーフは厳しい」
「常識だ」
「常識で言えば、この子、随分な難病持ちとか?言っちゃ悪いけど、どうしてここに入れたんですか?コネがあるとか?」
「千原、今度そういうこと言ったら清掃に回すぞ」
「厭だなぁ。あの桐様を任されたぼくですよ?清掃は苦手ですし。チーフはよっぽど気に入ったんですね。あの二人もこの子の為とか?」
「お前の救世主に随分だな」
「可愛い子は逆境で益々可愛くなりますもん。泣き顔とかいいんだろうなぁ」
「サディストが」
「それ褒め言葉ですよ。ねぇチーフが来てもいいんですよ?ぼくの部屋」
「行くか、ど阿呆」
「チーフはツンしかないんですね。でも、ティティーちゃんをじぃ様が返すかな?」
「俺が代わりに弾いてもいい」
「そのビジュアル超いいですね!ぼく、バーに泊まっちゃいますよ。ピアノを弾くチーフ、英才教育の賜物ですか」
「英才教育か……。千原、明日のゲストは?」
「華の霜様です。3日間の滞在予定」
「分かってるな?」
「霜様はぼくらのお世話をお嫌いになられます。だから、ぼくらは霜様と他の男性のお客様が接触しないようにすることに細心の注意を払わなければなりません。お部屋はスイート、お食事は個室を用意致しました」
「よし。明日は10時に桐様、11時半にナイト様がチェックアウトされる予定だ。お前の担当なんだから早く寝ろよ」
「チーフはその子と夜更かしですか?ズルい」
「0時から2時まで会議だからな」
「うわ、ハードスケジュールだ。それじゃあ、お休みなさい」
「んー」