Over (9)
目の前にいる男が嫌で仕方がない。
嫌すぎて直視できない。
「生意気なその口、塞いでやる」
生暖かい息がかかり、唇が塞がれておぞましい物が私の口中を這い回った。
イヤ!イヤだ、イヤだっ!!
男の舌を思いっきり噛み、哲を突き飛ばした。
「っ!?この女!」
哲は口を押さえて立ち上がり、力任せに私を蹴った。
「イヤ!梨桜ちゃん、梨桜ちゃん!!」
「梨桜さん!」
蹴り続けられて哲の足が胸に当たった時に、覚えのあるイヤな感覚が背中を走った。
‥肋骨やっちゃったかも‥‥
「やめて!梨桜ちゃんに酷いことしないで!!」
麗香ちゃんが狂ったように泣き叫んでいて「大丈夫」と言いたかったけれど呼吸する度に胸が痛くて何も言えなかった。
「うるせえ!その女を黙らせろ!!」
「私に触らないで!梨桜ちゃんに酷いことしないで!!藤島先輩と宮野君が来てくれたらあんた達なんか潰されるんだ!」
圭吾が麗香ちゃんを部屋から連れ出そうとしたけれど、麗香ちゃんがそれに抗い、圭吾の手を振り払って噛みつくように叫ぶと、圭吾はそれに被せるように大声を上げた。
「来ねぇよ。朱雀は来ない!」
まるで、自分に言い聞かせるように言う彼に悲しそうな顔で麗香ちゃんは話しかけた。
「ねぇ、圭吾は良く私に朱雀の話をしてくれたよね?藤島先輩は圭吾が話してた通りの人だよ。強くて、優しい人だよ。だから、絶対に来てくれる」
ホントに来てくれるかな…
胸が痛くて浅い呼吸しかできない。体のあちこちが痛い…
「へぇ、泣けるんだ」
こんな奴らの前で泣き顔を見せたくなかったけれど、痛くて、苦しくて、悔しくて…涙が浮かんでくる。
「その泣き顔、ソソるな」
哲が私を見下ろしながら腕を伸ばして来た時、バァン!と鉄に何かが当たるような物凄い音がした。
「なんだ!?」
間に合った‥‥
男達の喚き声が聞こえると、扉が開いて派手な頭をした男達が飛び込んで来た。
「青龍と朱雀がっ」
助かった、と思った時、ぐいっと腕を引かれ半身を起され、喉元に冷たいものが当たった。
「梨桜ちゃん!」
真っ青になった麗香ちゃんの様子から、ナイフが私に向けられたのを悟った。
本当に卑怯なんだね…冷めた気持ちで目だけを動かして哲の顔を見上げると、焦った様子で扉を見ていた。
「哲さん!宮野と藤島が来ます!」
「動いたら刺すからな」
そう言うと、ナイフが喉に食い込んだ。
どこまで愚かで卑怯なんだ‥‥この男に総長を名乗る資格があるのだろうか?
「梨桜!」
葵の声が聞こえて、その声に力が抜けそうになった。
たった数時間しか離れていなかったのに、物凄く長い時間会わないでいたような気がした。
「ふっ、ハハハ!」
哲の笑い声に鳥肌がたった。
おぞましい‥
「梨桜」
私を見た葵の目が見開かれて、動きが止まった。
ごめんね…
「ごめん、足手纏いになっちゃった」
私が言うと、ぐいっとナイフが押しつけられて、ぷつっという感触があり、痛みがじわりと広がった。
「てめぇ、傷つけんじゃねぇ!」
葵の顔が青ざめている。こんな顔をさせるのは2回目だね、ごめんね。
「青龍が先に来たか。おい、この男と縁を切ってオレのところに来い」
哲が私に言った。
本当にバカじゃないの?この男
「あんた頭悪すぎでしょ」
私が言うと、豊が呆れたように言った。
「お前の方が頭悪いんじゃねぇの?自分が置かれている状況分かってる?」
分かってる。
だけど、腹が立って仕方がない。
「言っておくけど、葵と縁を切るとかあり得ないから。私と葵の関係で誰かに命令されたくないんだけど?」
豊を睨みつけて言うと、バタバタと足音がした。
「梨桜!」
――来てくれた。
寛貴と愁君が部屋に入ってきて、その後に拓弥君と悠君が続いた。
私と哲を見てみんな動けなくなってしまった。
「ねぇ、こんなに集まってきちゃったけど、どうするの?」
「だからおまえが人質なんだろ」
呼吸をすると胸が痛くて苦しいけれど、黙ってはいられない。
豊には無理かもしれないけれど、この頭が悪そうな哲が相手なら隙を作れるかもしれない。
「でも、どう考えてもあんた達が不利でしょ」
脂汗が背中を伝って行く。
この感覚は去年、肋骨を骨折した時と同じで、これからの治療の事を考えるとうんざりした。
「立て」
――無理。
顎にかけられている腕がぐいっと引かれた。
「いっ、――た‥‥」
痛みにぎゅっと目を閉じると葵が私を呼んだ。
「梨桜!」
喉にかかる痛みと背中の痛みが一緒になって、汗と一緒に涙が流れた。
「女が刺されてもいいのか?どけよ」
無理矢理立たされて、引きずられるようにして歩いた。
誰も私達に近寄れなかった。
「あお‥い‥」
息を飲んで葵に手を伸ばした。
そっちに行きたい。葵の所に帰りたい!
「動くなっつってんだよ!…ざまぁねぇな!紫垣だったチームが女一人のことで総長二人が動けなくなるなんてな!」
寛貴が悔しそうに眉を顰めた。
「てめぇ…」
悔しそうに言うと、哲が寛貴達にナイフを向けて笑った。
「お前等のその顔が見たかったんだよ!」
楽しそうに笑う哲の顔を見上げようとした時、葵と目が合った。
咄嗟に両手で哲の腕を掴むのと同時に葵が動いた。
「梨桜、目ェ閉じてろ!」
ぎゅっと目を閉じると“ガツッ”という音がして、肩を強く引かれた。
「痛っ」
「ごめん。少しだけ我慢して」
その声に目を開けると、愁君が私の肩を抱いていた。「女の子は見ちゃ駄目だよ」そう言ったけれど、愁君の肩越しに見えてしまった。
哲を殴りつけている葵と、豊を殴っている寛貴。麗香ちゃんを助けている悠君と圭吾を殴っている拓弥君。
愁君が私を支えながら床に座らせてくれると「葵」と呼んだ。
葵は哲から離れて私の傍に来ると、自分が着ていたシャツを脱いで私に着せてくれた。
「コジ君が怪我をしているの。私の所為なの」
「…」
葵は何も言わずに、豊に切られた髪の毛に触れると、その手を哲に殴られた頬に当てた。
悲しそうな目で私の顔を見る葵が涙を見せずに泣いているような気がして、葵の目元を指で撫でると目を閉じた。
「ごめんなさい」
そう言うと、目を開けていつものように優しく笑った。
「ほら…」
腕を差し出されて、いつものようにぎゅっとしてもらいたかったけれど、体中が痛かったから額を葵の胸につけた。
そろそろ限界かも。葵と寛貴達が来てくれて気が抜けた…
「呼吸が不自然なのはどうしてだ?」
「哲に蹴られた。‥上手く呼吸が出来ないの」
そう言うと、私の背中に腕が当たらないように抱き上げてくれた。
「桜庭が迎えに来ているから‥涼さんのとこに行こうな」
「ん」
その言葉に安心して目を閉じた。