均衡 (6)
……ここから逃げてしまおう。
作業が終わったファイルを資料室に戻しに行く。鬼王子と寛貴の視線から逃れる手段はそれしかない。
これ以上ここにいたら、絶対に余計なことを言ってしまうような気がする。
うん、そうしよう。雨も降りそうだし、早く終わらせて帰ろう。
「梨桜、どこに行くんだ?」
ファイルを両腕に抱えて席を立つと、寛貴に声をかけられた。
目ざとい…
「資料室にファイルを置いてくるの」
「悠、代わりに行ってこい」
寛貴に言われた悠君は少し嫌そうに眉を顰めた。
今、彼と二人で資料室に行くのは躊躇われた。あんな風に睨まれた後ではさすがに気まずい。
「一人で行けるよ、脚立に登らないから。それでいいでしょ?」
慌てて言うと、寛貴は疑わしそうに私を見た。葵は“脚立”という言葉に眉を顰めて私を見ていた。
「机に置いて来るだけだから。じゃあね!」
寛貴の返事を聞かずに部屋の扉を閉めて資料室へ向かった。
廊下を歩きながら窓を見ると、さっきよりも空が暗くなってきていた。
雷が鳴りそう…
こんな空を見ていると、昔を思い出してしまう。
ウチは両親が共働きだったから、いつも葵と留守番をしていた。
慧君と一緒に暮らしていた時期もあったけれど、それ以外は本当に葵と二人きりだった。
宿題をして、二人でご飯を作って食べて‥両親の食事の用意もしていた。
ママは母親というよりも仕事に生きるタイプの人で、家事は苦手だった。
ママが入院するまで、料理は葵が作っていた。葵が料理上手なのはママに美味しいご飯を食べてもらうためだったんだよね…
資料室に入り机の上にファイルを置くと、さっきまで登っていた脚立を見上げた。
棚の奥に隠した、慧君の名前が載っているファイルを取りたい。
寛貴もいないし……登ってもバレないよね?
安易に考えて、脚立に手をかけた時、扉が開いた。
まさか…寛貴?私が脚立に登るのが分かったの?
「寛貴?」
声をかけたけれど返事はなかった。
寛貴じゃないの?
部屋に入ってきたのは悠君だった。
「悠君、どうしたの…?」
声をかけたけれど、彼は何も言わずに私を見ていた。何かを言いたそうにしているけれど、口を開こうとはしない。
ただ私を見ているようにも見えるけれど、睨んでいるようにも見えた。
言いたいことがあるのなら言って欲しいと思う反面、何を言われるのだろう?と怖くもある。
彼が口を開かないのをいいことに、私は彼に背を向けてファイルを片付けることにした。
「危ないからやめて欲しいんだ」
やっと口を開いた彼の顔を見た。
危ない?
「寛貴に言われたから脚立には登ってないよ?」
顔を強張らせているように見える悠君に笑いかけた。いつもならニコッと笑い返してくれるのに今日は怖い顔をしたまま。
「そうじゃない」
そう言うとまた黙ってしまった。
彼の言葉を待っていると、窓際で稲妻が光った。やっぱり雷が鳴り出した。
こんな日は二人で窓際に座って、稲妻が光るのをずっと見ていた。葵と一緒に見る雷は怖いと感じなかった。むしろ、好きだった。
また、昔の事を思い出していると、悠君が何かを決めたように一瞬目に力を入れたように見えた。
「東青の生徒会と親しくしないで欲しいんだ。梨桜ちゃんの住んでいるところは青龍のシマだって言ったよな?利用されたら――」
彼の言葉を遮った。
「葵や愁君が私を利用するの?」
「何かのきっかけでそうなるかもしれない。―――だから、危険だから…」
だから…親しくしないで?そう言いたいの?
葵が私を利用する?悠君、それだけはないよ。私も葵を利用することはない。
…もしも、葵が私を利用するのだとしたら、それはそうせざるを得ない状況だということだよ。
その時は私を利用すればいい。
いっそのこと、全てを話してしまいたいけれど、今更だ。
私は彼等に嘘をついているのだから…