背中越しの温度 (5)
掴まれていない方の手で、尚人君の肩を必死に押して唇が触れそうになるのを防いだ。
「梨桜はオレの彼女だ。そうだろ?」
「ヤダ…」
「梨桜!」
葵の声がしてホッとすると、急に尚人君が離れて“ガツッ”という音がした。急に自由になった身体は尚人君の身体を押していた反動でバランスを崩した。
「大丈夫か?」
コンクリートの床に尻餅をつきそうになったところを、背中から支えられてゆっくりと床に降ろされた。
「梨桜?」
寛貴に顔を覗き込まれたけれど、泣き顔を見られたくなくて、両手で頬を覆った。
「もぉ‥‥やだ」
強く掴まれた手首が痛い、唇が触れそうな距離が嫌だった…
「怖かった…」
床に座り込んだまま、震える体を自分で抱き締めながら小さく呟くと「悪い」とすまなそうな声が返ってきた。
寛貴が謝る必要はないのに、掌で涙が伝っている頬を拭っていた。
何故か涙が止まらなくて寛貴の前でボロボロと涙を流していると、呻き声が聞こえてドサッと床に倒れ込む尚人君が見えた。
葵が尚人君の襟元を掴んで体を引きずり起こして睨みつけると、怯えた顔をした彼は後ずさりをしながら逃げようとしていた。
「葵を止めて」寛貴を見上げると「三浦」と愁君を呼び、呼ばれた彼は葵の手を掴んで耳元で話をすると、手を上げて何かの合図をしていた。
私の手を引いた寛貴に「立てるか?」と聞かれて、頷いて立ち上がろうとしたんだけど…
「寛貴、あのね…」
「ん?」
どうしよう?
立てない…足に力が入らない。
「私、もう少しここにいる」
じっと私を見て溜め息をついた。
「それだけ怖かったんだろ。我慢するな」
「うわ‥‥」
寛貴は私を抱き上げると、歩き出した。
急にされると驚くよ。
寛貴に抱かれたまま階段を降りると階段の踊場に由利ちゃんと拓弥君がいた。
由利ちゃんが泣いて、拓弥君が慰めているようだった。
「拓弥」
寛貴が声をかけると拓弥君は顔をあげてニヤリと笑っていた。
…どうしてその、黒い笑み?泣いている女の子を慰めているんじゃないの?
「拓弥君っ私っ」
由利ちゃんがしゃくりあげて拓弥君を見上げていて、寛貴から抱き上げられたこの位置から見ると…
え?泣き真似…?
拓弥君が見ている方向に由利ちゃんの顔が向けられ、私と目が合った。
「梨桜‥‥」
由利ちゃんの顔が一瞬、般若に見えた。
「梨桜ちゃんどうした?足でも捻挫したか」
拓弥君の問いに由利ちゃんの顔が変わった。さっきまでの泣きじゃくっていた女の子の顔…
「梨桜、ごめんね!尚人が私と別れたいなんて、私の自業自得だよねっ梨桜の事傷つけて尚人のこと追い詰めて‥‥ごめんね」
何て、器用なんだろう?変なところに感心していると、寛貴が私の耳元に口を寄せて「この女演技が下手だな」そう言って、喉の奥で笑った。
拓弥君は由利ちゃんの後ろでニヤニヤ笑ったままで…この場で、私はどういう顔をしたらいいのだろうか?
「梨桜、本当にごめんね!尚人は悪「藤島っ何やってんだ!おまえっ」
由利ちゃんは突然聞こえた葵の迫力のある声にビクッと肩を震わせた。
「梨桜、来い」
葵は私に向けて手を伸ばした。
「寛貴、もう大丈夫かも。降ろして?」
床に降ろしてもらうと、寛貴が支えてくれていた手を離しても立っていることが出来た。
「歩けるか?」
「うん、大丈夫みたい」
力の入らなかった膝を擦って、歩けることを確かめていると
「梨桜っごめんね!本当にごめん!」
「うわっ」
由利ちゃんに飛びつかれて、
ゴン!‥て凄い音がした。
「っ‥‥」
壁に頭を打ちつけて涙が出た。
「痛い‥‥」
「梨桜ごめんね、私の事許してっ」
すがりついて泣く真似をする由利ちゃんを直視出来なかった。
拓弥君、良く相手ができるね。ちょっとだけ感心するよ。…そんなことよりも頭がズキズキする。
葵が怖い顔をして近寄ってきた。本気で怒ってる…
「由利ちゃん、離れて」
彼女の身を心配して言ってあげているのに、涙を溜めた目で私をジッと見て声を震わせた。
「梨桜、許してくれないの?」
演技を止めようとしない由利ちゃんは、愁君に襟首を掴まれて、べりっと音がしそうな勢いで私から引き離された。
「失せろよ」
彼の一言に私も固まった。
間近で言われた由利ちゃんは顔色を失くして怯えている。普段、こういう顔を見せない彼が不良の顔を見せると凄く怖く感じる。
「梨桜ちゃん、頭打ったろ?見せて」
私の顔を覗き込む彼は、いつもの愁君に戻っていた。
「いたっ!愁君痛いっそこ、触らないで!!」
「‥‥病院に行かなくても大丈夫だとは思うけど、冷やした方がいいな」
頭に手で触れるとポコッと腫れていて、こぶになっていた。
今日はなんて散々な日なんだろう…
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