もののあはれ
人の眼は見たものを見たいようにしか見ないもので、もののあはれを感じるようにしか出来ていないのが本懐なりて。そう、それが遊園地であっても。
と言う事で遊園地にやって来た。いや、どう言う事? と言われれば、子供に「連れていって」とせがまれたからだ。子供にせがまれては仕方ない。因みに子供は可愛らしい女の子である。
日本と言うものは娯楽に尽きないお国柄ならば、全国各地に遊園地ならあるもので、とは言え昨今の不景気の影響で、閉園した遊園地も少なくないそうだ。またここにももののあはれありて。
「やっぱり遊園地に来たらあれだよね!」
娘が指差した先は、遊園地の外からでも目立っていた遊園地の代名詞であるジェットコースターかららしい。乗りたい乗り物から乗ろうと言う魂胆のようだ。
「はあ」
思わず溜息が漏れる。絶対嫌だと言う訳ではないが、あの曲がる時のGの掛かり方やら落ちる時の浮遊感はどうにも。
近くに寄って見上げれば、中々に複雑な構造をしている事が分かる。登り降り、右へ左へ、時に一回転までするのだから、それを支える基礎や支柱は、頑丈なトラス(三角形を組み合わせたもの)構造をしており、正に縁の下の力持ちと言った印象だ。
その上に乗っているレールを走るライドやビーグルと呼ばれる乗り物からは、客たちの悲鳴が遊園地中に木霊している。何ともまあ、まるで人生の浮き沈みのようではないか。
人様の人生、登り調子もあれば、降り調子もあるのは当然。一度レールに乗ってしまえば、自ら降りる事叶わず、ただ濁流が如き人生の荒波にその身を委ねる他ないとは、ままならない事至極である。
「何ぼーっと見上げているの? 早く乗ろうよ」
娘に言われ、列に並ぶ。
人生とは斯くも━━、うん。ジェットコースター、見ると乗るとでは大違い。分かっていた事だ。何事も体験しなければその本質は理解出来ないものだなあ。
「次あっち!」
娘に手を引かれて行った先は、これも遊園地の名物、メリーゴーランドだ。これも謎な存在だ。ただ回るだけなのだから。カルーセルと言う回転木馬に乗って、ぐるぐる回る。何を示唆しているのか。人生とは出口もなく、同じ事を日々繰り返すだけのものだとでも言いたいのだろうか? 螺旋であれば少しは成長もあろうに、ただ回転するだけと言うのは……空虚な人生の哀しみに通じる。これに乗って笑顔で私に手を振っている娘に、私はどんな顔を向けているのだろうか?
メリーゴーランドの後にコーヒーカップってどうだろう? うちの娘、回るの好きなのかな? ……ご免、一瞬「滑稽に踊るピエロかな?」って思ってしまったのはここだけの話にして欲しい。
お化け屋敷、ホーンテッドハウスと言うのは一時期より遊園地の定番となって久しい。そんな事を口にすれば自分も老けたなあ。と幼少時代に親に遊園地に連れて行って貰った時の事を思い出す。あの頃の私は今と違って擦れておらず純粋に遊園地を楽しんでいたものだ。とは言え、お化け屋敷は懐古する場所ではない。
「きゃあ!!」
自分から行きたいと口にしておいて、いざお化けにふんしたキャストが脅かしてくれば、私の脚にしがみついて悲鳴を上げるのだから、可愛いものだ。仕方ないので、娘を持ち上げて抱っこしてお化け屋敷を進む。
「ふう」
お化け屋敷から退散した後、一息吐く為にフードコーナーの一角に腰を落ち着ける。娘から飲み物食べ物の希望を聞き、それを注文して受け取って、テーブルに並べて食べ始める。食べカスを口元に付けながらもりもり食べる子供と言うのは、それだけでほっこりするから不思議なものだ。ここで子の成長に想い耽るももののあはれと言うのは、産んでくれた彼女に失礼と言う話だ。あはれと感じるならば喜びと感謝を。
その後も様々な乗り物や催し物を体験した娘と私。どうやらこの遊園地で遊んできて分かってきたが、私の娘はこのような非現実的体験がとても好きなようだ。目を背けたくなる現実からの逃避先として、光と音と体験に溢れたこの遊園地と言う場所は、確かにそれを満たしてくれる場所だと、彼女と付き合っていた頃以来にやって来た遊園地で実感出来たのは嬉しい発見だった。
「また来ようね!」
「ああ」
夕日に照らされる中、観覧車の中でそんなベタな会話をするのは、しかしやはり感傷的な気持ちが心の奥から湧き上がり、ぼやけた視界の中の娘に彼女を重ねてしまい、だから自戒としてもののあはれと締めるとしよう。




