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「水くさい女」と笑われたので、井戸の鍵を返して辺境伯の水路へ行きます  作者: 九葉(くずは)


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第2話 空の水差し

朝食の水差しは、空だった。


銀の水差しは、食堂の真ん中で堂々としている。

堂々としているだけで、中身はない。


貴族社会ではよくあることだ。

中身のないものほど、よく磨かれている。


「水は?」


父が言った。


食卓についてすぐの第一声である。

おはようでも、昨日は言いすぎたでもない。


水。


たいへん分かりやすい。

父の中で私がどの棚に入っているか、朝から札を貼られた気分だった。


給仕の少年が顔を青くする。


「申し訳ございません。鍵は書斎にございます。ただ、受け渡し帳に旦那様の署名がなく、水番が使ってよいものか分からないと」


父の眉間に、昨夜より深い谷ができた。


「署名?」


「昨夜、書斎の小卓に置きました」


私はパン皿の横で、手を膝に置いたまま答えた。


「受け渡し帳にも記しました」


「私の欄が空白だ」


「はい」


「なぜ空白なんだ!」


なるほど。

自分の手が動かなかったことまで、私の担当らしい。

水利管理の範囲が広すぎる。


食堂の空気が硬くなる。


母がいた頃なら、こういう時には必ず温い白湯が出た。

胃に悪い話の前には、せめて胃に優しいものを、という考えだったのだと思う。


今は白湯どころか、水差しが空だ。


優しさは人が死ぬと一緒に減る。

水と違って、井戸から汲めない。


「リナ」


父が低い声で呼ぶ。


「西井戸の鍵はどれだ」


「書斎の小卓にあります」


「どれかと聞いている」


「受け渡し帳に鍵の名称を書いております」


「読めば分かるということか」


「はい」


「朝から私に帳面を読めと?」


水を飲むより難しいらしい。

伯爵家当主というものは大変だ。


厨房の方から、焦げた匂いが流れてきた。


ああ。

銅鍋だ。


空焚きした時の匂い。鍋底に昨日の豆の煮汁が薄く残っていて、それが焦げると、妙に甘くて苦い匂いになる。


料理長があとで泣く。

鍋を磨く下働きも泣く。

水がない朝は、涙だけが豊富だ。


「お嬢様!」


食堂の扉が開き、侍女のマラが飛び込んできた。


父が眉を吊り上げる。


「食堂で走るな」


「申し訳ございません! ですが厨房が、厨房が!」


「落ち着きなさい」


私が言うと、マラは一度だけ口を結んだ。

目だけがまだ走っている。


「厨房裏の井戸が開きません。洗い場も詰まっていて、灰壺も満杯で、下働きが鍋を焦がしました。あと、薬湯用の水を取りに行った者が、鍵番が誰か分からないと」


「鍵番はお父様です」


私は父へ視線を向けた。


マラもつられて父を見る。


給仕の少年も見る。


全員が見る。


父は、見られることには慣れている。

称賛なら。


「私を見るな!」


はい。

分かりやすいお答えである。


私は食卓の端に置かれた硬いパンを見た。

昨日の残りだ。表面が少し湿っている。いや、湿っているのではない。湿っているように見せるため、布をかけてごまかしたのだろう。


水のない朝に、湿ったふりをするパン。


涙ぐましい。

パンも大変だ。


「リナ、今日だけだ」


父が声を落とした。


「今日だけ、お前が鍵を持て」


今日だけ。

いい言葉だ。

今日だけの我慢。今日だけの手伝い。今日だけの譲歩。


そう言われ続けたものは、大抵、年単位になる。


「できません」


「リナ!」


「私は昨日、井戸鍵を返しました。受け渡し帳にも記録がございます。今朝からの管理責任は、私にはありません」


「家族だろう!」


出た。

家族。


血のつながりを持ち出す時は、だいたい帳簿が赤い。

気持ちの話に見せかけた未払いである。


「家族でしたら、昨日のうちに私の話を聞いていただきたかったです」


父の口が止まった。


言いすぎた。

いや、足りないかもしれない。

判断に困るところだ。


私は椅子から立った。


「お父様。朝食の前に、書斎で受け渡し帳へご署名ください。鍵の保管場所を水番へ伝え、厨房裏の井戸を先に開ければ、昼食には間に合います」


「命令するのか」


「説明しております」


「娘が父に向かって」


「水は、父娘の順番を待ちません」


給仕の少年が、ほんの少し肩を震わせた。

笑ったな。

いい。笑える時に笑っておくといい。水が出ない日は笑いも節水になる。


父は怒りを飲み込むように、息を吐いた。


「お前は、ヴィクトル様との婚約もある身だ。勝手なことをして困るのは自分だぞ」


ヴィクトル様。


名前を出せば戻ると思われている。

犬笛のつもりだろうか。残念ながら私は犬ではない。昨日、嗅ぎはしたが。


「承知しております」


「承知しているなら」


「ですから、支度をいたします」


「支度?」


「出ます」


食堂の空気が、今度こそ固まった。


マラが「え」と声を漏らす。


父は私を見た。

ようやく、少しだけ私を見た。


「どこへ」


「まだ決めておりません」


嘘ではない。

行き先はある。けれど、決まっていると言えば止められる。

貴族の家では、正直は美徳ではなく隙になることがある。


「馬鹿なことを言うな!」


父の声が食堂に跳ねた。


私は礼をした。


「失礼いたします」


返事を待たず、食堂を出る。


背中に父の声が刺さる。

戻れ。話は終わっていない。家を何だと思っている。


家。


湿った廊下。焦げた鍋。空の水差し。署名されない帳面。

それから、昨日の広間に置かれていた白い手袋。


いろいろ混ざる。

混ざると、水は濁る。



私の部屋は、北向きの端にある。


朝は寒い。昼も少し寒い。夜は遠慮なく寒い。

夏だけは多少ましだが、それは部屋の手柄ではなく季節の善意だ。


机の引き出しを開ける。


中には、古い青い手袋。

母のものだ。


指先が擦り切れて、布の色も少し褪せている。けれど、内側の縫い目はまだしっかりしていた。


私は手袋を膝に置き、針箱を開けた。


「お嬢様、本当にお出になるのですか」


マラが扉の近くに立っていた。


「鍵番はお父様になったもの」


「それはそうですが!」


「水利管理家の当主です。肩書きと実務が、ようやく同じ部屋に入ったわ」


「その言い方!」


マラは泣きそうな顔で怒った。

器用だ。人は追い詰められると、感情を二つ同時に持てる。


私は小さな鞄を出した。


立派な旅行鞄ではない。

角が擦れて、留め金が少し甘い。

けれど軽い。逃げる時、立派さは邪魔になる。


「着替えは二枚で足りますか」


「一枚」


「足りません!」


「なら二枚」


「三枚!」


「マラ、私は馬車で避暑へ行くのではないの」


「分かっております! だから三枚です!」


押し切られた。


こういう時の侍女は強い。

貴族令嬢の意地など、実務を知る女の前では薄い紙だ。


マラは下着と薄いドレスを畳み、私の鞄に詰める。

手際がいい。少し乱暴で、少し優しい。


私は机の奥から、小さな木箱を取り出した。


中には、小瓶が四本。


濁った水を入れたもの。

底に黒砂が沈んだもの。

藻の匂いが残るもの。

それから、母が亡くなる前の年に取った水。


全部は持っていけない。


割れたら終わりだ。

見つかっても終わりだ。

持ちすぎる証拠は、証拠ではなく荷物になる。


私は二本を選んだ。


黒砂の瓶。

母の年の瓶。


残りの二本は、机の底板を外して、いつもの隙間へ押し込む。


マラが息をのむ。


「それは」


「水」


「見れば分かります」


「見ても分からない人が多いのよ」


私も、全部は分かっていない。


だから持っていく。

だから置いていく。


矛盾している。

人間なので、仕方がない。


青い手袋は、鞄の底へ入れた。

その内側の縫い目に、水路図の写しが隠れている。


母は、針目が細かかった。

父は気づかなかった。

父は、女の縫い目を見ない。ドレスの値段は見るのに。


「お嬢様」


マラが小さな包みを差し出した。


「厨房からです。焦げていない方のパンと、塩漬け肉を少し」


「厨房が?」


「料理長が。鍋を焦がしたのは水がなかったせいだ、と言いながら」


「それは私への恨みでは」


「半分くらいは」


正直でよろしい。


私は包みを受け取った。

温かくはない。肉は硬い。パンも硬い。

でも、食べ物の重みがある。


急に、喉の奥が詰まりそうになった。


いけない。

こういう時に泣くと、荷物が増える。涙は拭く布が必要になる。


「ありがとう」


「私ではありません」


「では、料理長に」


「伝えます」


マラは唇を噛んだ。


「どちらへ」


「北門から出ます」


「行き先は」


「言わない方が、あなたを守れる」


「お嬢様!」


「マラ」


私は彼女の手を取った。


マラの指も荒れている。洗濯場ほどではないが、湯と石鹸で赤くなっている。


「お父様に聞かれたら、知らないと言って」


「本当に知らないのは腹が立ちます」


「では、腹を立てたまま知らないと言って」


マラはとうとう少し笑った。


泣かれるより、ずっといい。



廊下へ出ると、屋敷は朝から壊れた楽器のようだった。


厨房では鍋を磨く音。

洗濯場の方からは、誰かが「先に水を使った」と叫ぶ声。

水番の少年が鍵の許可をもらうために走り、執事が父を探して走り、父はたぶん署名欄を見て怒っている。


人間は、水が出ないだけでよく走る。


昨日まで、私は走る前に止めていた。

今日は、走っていただく。


玄関広間へ出ると、ヴィクトル様がいた。


なぜ。


朝から胃に悪いものが多い。

焦げた鍋、空の水差し、そして婚約者。


「リナ、話をしに来た」


「朝早くから、ありがとうございます」


「昨日のことだが」


謝罪だろうか。


いや、期待はよくない。

期待は濁った水より腹を壊す。


ヴィクトル様は私の鞄を見た。


「どこへ行くつもりだ」


「少し外へ」


「少し、という荷物ではない」


「三枚です」


「何が?」


「着替えが」


ヴィクトル様は困った顔をした。

困った時に困った顔ができる人は、まだ幸せだ。

本当に困っている人は、桶と鍵の数を数える。


「リナ、意地を張るな。父上も君のお父上も困っている」


「でしょうね」


「君が戻れば済む話だ」


「済むのは、どなたの話でしょう」


「何?」


「水差しでしょうか。厨房でしょうか。洗濯場でしょうか。ヴィクトル様のご面目でしょうか」


ヴィクトル様の目が少し細くなった。


「君は、昨日から言い方がきつい」


「昨日から水が止まりましたので」


「冗談を言っている場合じゃない」


「私もそう思います」


会話が噛み合わない。


いや、違う。

噛み合っている。

ただ、向こうが噛まれたことに気づいていない。


ヴィクトル様は一歩近づいた。


「ミレーヌも気にしている」


出た。

本日の水差し二本目。中身はない。


「そうですか」


「君に悪いことをしたと」


「どの点を?」


「それは」


「井戸の匂いでしょうか。席でしょうか。控え室でしょうか。水くさい女でしょうか」


ヴィクトル様は口を閉じた。


項目が多いと、人は謝りにくくなるらしい。

覚えておこう。使える。


「リナ、君なら分かってくれると思っていた」


「分かりました」


「なら」


「ヴィクトル様が、私に戻ってほしいのではなく、戻ればご自分が楽になるとお考えなのは分かりました」


玄関広間が静かになった。


近くにいた執事が、目を伏せる。

聞こえなかったふりが上手い。長年の訓練だ。


ヴィクトル様の頬がわずかに赤くなる。


「君は変わったな」


「水がないと、人は変わります」


「そうやって、何でも水の話にする」


「実際、水の話ですので」


私は礼をした。


「失礼いたします」


ヴィクトル様が手を伸ばしかけた。

けれど、私の鞄を見て止まる。


鞄には、母の手袋と小瓶が入っている。

触らせない。


触らせたくないものがある時、人は背筋が伸びる。

令嬢教育より効く。



玄関を出た。


朝の空気は冷たく、石段はまだ湿っていた。

北門へ向かう途中、井戸場が見えた。


水番の少年が、父から受け取ったらしい鍵束を抱えて立っている。

鍵の数が多すぎて、どれを使えばいいか分からない顔だった。


気の毒に。


本当に気の毒だ。

父ではなく、少年が。


私は一瞬だけ足を止めた。


教えれば早い。

西井戸は三番目の薄い鍵。左へ少し傾ける。

言えば済む。


言えば、また戻る。


私は唇を噛んだ。


水番の少年がこちらに気づく。


「リナお嬢様!」


走ってくる。鼻先は今日も赤い。


「西井戸は」


私は言いかけて、止めた。


少年の目が揺れる。


ずるい。

大人の責任は、いつも子どもの顔をして追いかけてくる。


私は鞄から小さな紙片を出した。


昨夜、受け渡し帳の控えとして書いておいたものだ。

西井戸、東洗い場、厨房裏、薬湯用小井戸。鍵の特徴と注意点。

ただし、開け方の細かな癖は書いていない。安全に扱うための最低限だけ。


「これを執事へ渡して。あなた一人で開けないこと。必ず大人を呼びなさい」


「お嬢様は」


「私は、もう鍵番ではないわ」


少年は紙を握った。


「でも」


「でも、手を挟まないで。西井戸の蓋は重いから」


「はい!」


よし。

泣かれるよりいい。


私は北門へ向かった。


門の外に、見慣れない馬車が止まっていた。


黒い車体。飾りは少ない。車輪に泥が乾いている。

王都の貴族馬車ではない。実用の馬車だ。長い道を走るためのもの。


扉の脇に、灰青色の紋章。


水門と狼。


ラグナート辺境伯家。


私は足を止めた。


馬車のそばに立っていた男が、こちらを見る。

年は三十前後。文官らしい外套を着ているが、靴は泥に慣れていた。


男は礼をした。


「セルノア伯爵家のリナ様でいらっしゃいますか」


「はい」


「ラグナート辺境伯より、水利台帳の確認について書状をお預かりしております」


今、この門で。

この荷物を持った私に。


間の悪さというものは、時々、間が良すぎる顔をして来る。


「父は屋敷におります」


「当主への書状は別にございます」


男はそう言って、もう一通を差し出した。


封蝋には、水門と狼。


宛名は、私だった。


リナ・セルノア様。

水利記録の実務担当者へ。


私は封筒を見つめた。


実務担当者。


婚約者でも、娘でも、水くさい女でもない。


実務担当者。


たったそれだけの言葉に、指先が少しだけ動かなくなった。


男が静かに言う。


「辺境伯は、記録を実際に扱っていた方のお話を求めております」


私は屋敷を振り返った。


奥から、また父の声がした。


「誰だ、薬湯用の鍵を西井戸に差したのは!」


ああ。


さっそくである。

鍵は正直だ。違う穴には入らない。人間より礼儀がある。


私は封筒を鞄の上に置き、両手で受け取った。


「拝見します」


男は、私の袖口を見た。

それから、鞄の持ち方を見た。

何も言わなかった。


ただ、道を少し空けた。


その沈黙は、昨日の広間のどの言葉よりもましだった。


私は北門の外へ一歩出た。


靴底に、黒い泥がつく。


屋敷の泥ではない。

北へ続く道の泥だった。

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