第13話 台帳は湿気のせいにできない
朝の匙が、やけに重かった。
豆粥をすくうだけの道具なのに、まるで小さな鉄槌である。
持ち上げる。
口へ運ぶ。
飲み込む。
それだけで、少し疲れる。
昨日、自分の意思を書いた。
私、リナ・セルノアは、監査局に不当に引き留められているのではありません。
自分の意思で、ここにおります。
たったそれだけのことなのに、夜が明けたら体のあちこちが痛い。
文字を書くにも筋肉を使うらしい。
いや、使ったのはもっと別の場所だ。名前が分からない。分からないが、そこがぐったりしている。
「食べられませんか」
エッダが向かいから聞いた。
「食べています」
「匙が止まっています」
「考えています」
「粥を?」
「粥と人生を」
「人生は冷めても困りませんが、粥は冷めます」
正しい。
私は匙を動かした。
薄い豆粥は、昨日より少し塩が強かった。
たぶん厨房の人が間違えたのだろう。けれど、今朝の私にはちょうどよかった。
味がある。
それだけで助かる。
「返書は、もう出ましたか」
「夜明け前に」
「早いですね」
「早く出しておかないと、こちらが迷っていると思われます」
「迷っていないように見えましたか」
エッダは少しだけ私を見た。
「迷いながらでも、出したように見えました」
それは、どちらなのだろう。
でも、たぶんそれでいい。
迷いがない人間なんて、井戸の底に落ちた石くらいのものだ。
あとはみんな、どこかで揺れている。
揺れながら歩いている。
たまに転ぶ。
事故報告書に書かれる。
私は粥を飲み込んだ。
温かい。
まだ、喉を通る。
「今日は、セルノア家への提出命令の返答が来る予定です」
エッダが言った。
匙が止まった。
「水利台帳の」
「はい。北側客間の使用記録、古い水利台帳、井戸鍵の受け渡し記録の写しです」
父の書斎が頭に浮かんだ。
革張りの椅子。
閉じられない帳面。
小卓に置いた鍵。
父の眉間のしわ。
それから、書棚の下段。
古い水利台帳は、いつもそこにあった。
大きくて、重くて、革の表紙に水瓶と百合の焼印がある。
私は子どもの頃、あれを踏み台にして上の棚の紙箱を取ろうとして、母に怒られたことがある。
「記録は踏み台にしないの」
母はそう言った。
その時の私は、記録より砂糖菓子の箱が大事だった。
浅はかである。
でも、子どもとしては正しい。
「リナ様」
エッダの声で、私は顔を上げた。
「顔が、書斎に行っています」
「戻りました」
「なら、食べてください」
監査局は、心の外出まで見張るのか。
私は粥をもう一口食べた。
◇
セルノア家からの返答は、昼前に届いた。
封蝋は、また少し潰れていた。
父は焦ると力が入る。昔からそうだ。ペン先もよく折る。折れた羽ペンの罪は、なぜか私に回ってくる。
封筒を机に置いた時、私は少しだけ息を止めた。
自分の家からの手紙が、こんなに怖いものになるとは思わなかった。
いや、嘘だ。
昔から怖かった。
呼び出しも、手紙も、父の咳払いも。
ただ、それを家族という布で包んでいただけだ。
布は便利だ。
包めば形が見えなくなる。
中身が刃物でも、しばらくは持てる。
ユリウス様が封筒を見た。
「開けるか」
「はい」
「君が?」
「……いいえ。エッダ様にお願いします」
逃げた。
でも、今は逃げたと記録されてもいい。
紙を開けるだけで手が震えるなら、震えない人に任せればいい。
エッダは何も言わず、封を切った。
中には、父の字の書面が一枚。
それから、薄い写しが数枚。
少ない。
少なすぎる。
私は紙束の薄さだけで、嫌な予感がした。
エッダが読み上げる。
「古い水利台帳については、長年の湿気による傷みが激しく、現在確認に時間を要する。見つかり次第提出する」
湿気。
便利な犯人が出てきた。
水利の家が、水利台帳を湿気のせいにする。
なかなか味わい深い冗談である。笑えないが。
「北側客間の使用記録については、当家では該当する来客記録なし」
なし。
また流行語だ。
「井戸鍵の受け渡し記録については、家内の一時的な管理変更であり、監査局への提出対象には当たらないと考える」
家内。
一時的。
管理変更。
言葉をきれいに畳むのが上手い。
中で何が潰れているかは見せない。
エッダが写しを確認した。
「添付は、最近三か月分の来客名簿と、水利台帳の表紙部分の写しのみです」
「表紙部分?」
私は思わず言った。
「中身ではなく?」
「はい」
エッダが差し出した写しを見る。
革表紙に、水瓶と百合。
たしかに、古い台帳の表紙だ。
中身はない。
見事な空箱。
「湿気で傷んでいるのに、表紙だけは写せたのですね」
自分でも驚くほど、声が乾いていた。
エッダの羽ペンが走る。
リナ・セルノア、表紙写しのみ提出に疑義。
記録が早い。
さすがである。
私の皮肉まで拾わなくてもいいのに。
ユリウス様が写しを見た。
「この表紙は、古いものか」
「はい」
「君は見覚えがある?」
「あります」
「最後に中を見たのは」
私は記憶を探った。
書斎。
雨の日。
母の咳。
父の不機嫌。
私の袖口のインク染み。
「一月ほど前です」
「一月?」
エッダが顔を上げる。
「はい。父に頼まれて、北枝水路の古い接続線を探しました。使わなくなった線だと言われて」
言ってから、私は止まった。
使わなくなった線。
母の地図の、途切れた細い線。
アストン家の粉挽き場へ向かう線。
あの時、私は見ていたのか。
見ていたのに、意味を知らなかったのか。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「その時、台帳は傷んでいたか」
ユリウス様が聞いた。
「端は古かったです。でも、開けないほどではありません。少なくとも、湿気で確認に時間を要する状態ではありませんでした」
「記録できるか」
「できます」
私は自分の指先を見た。
少し震えている。
でも、書ける。
「一月前、父の書斎で古い水利台帳を開きました。北枝水路の接続線を確認しています。台帳は閲覧可能な状態でした」
エッダが書き取る。
「証言として残します」
「はい」
父の嘘を、私は証言にした。
胸が痛い。
痛いけれど、どこかで冷めてもいる。
湿気のせい。
母の咳も、気鬱のせい。
台帳の不在も、湿気のせい。
誰も悪くない顔をした言葉たち。
もう、その顔に騙されたくない。
◇
「リナ嬢」
ユリウス様が、表紙写しを机に置いた。
「この台帳の保管場所は分かるか」
「父の書斎、下段右の書棚です。革の紐で縛ってあります。表紙の焼印の百合の下に、母がつけた小さな切れ目があります」
「切れ目?」
「台帳が多いので、見分けるために」
「なぜ知っている」
「私がつけたからです」
言って、少し恥ずかしくなった。
「子どもの頃に、間違えて別の台帳を出して父に叱られました。それで母が、次から分かるようにしなさいと。百合の下に小さく切れ目を入れました」
母はそういう人だった。
失敗を、ただ叱るだけにしなかった。
次に間違えないための目印を作らせた。
その目印が、今、役に立つ。
やめてほしい。
役に立つたびに、母が遠くから手を伸ばしてくるみたいで、息が詰まる。
「その切れ目は、表紙写しにあるか」
エッダが写しを目元へ近づけた。
私も見る。
焼印の百合の下。
ない。
切れ目がない。
「……ありません」
声が小さくなった。
「これは、うちの古い水利台帳の表紙ではありません」
エッダの羽ペンが止まった。
ユリウス様の目が細くなる。
「別の台帳の表紙か」
「似せたものか、別冊です。少なくとも、私が一月前に見た台帳ではありません」
机の上の紙が、急に薄く見えた。
父は、表紙の写しだけを送ってきた。
しかも、それは本物ではない可能性がある。
湿気で確認できないと言いながら。
胸の中で、怒りがゆっくり立ち上がった。
昨日のように燃えるのではない。
底から水位が上がる感じだ。
静かで、逃げ場がない。
「お父様」
口の中で、名前ではなく呼び方が出た。
まだ、父。
まだ、そう呼ぶ。
それが少し悔しい。
「リナ嬢」
ユリウス様の声が、低く落ちた。
「ここからは、セルノア伯爵家に対して正式な提出命令を出す。拒否すれば、保全命令も可能だ」
「保全命令」
「台帳や関連書類を動かせなくする」
「父は怒ります」
「怒るだろう」
「屋敷中に当たります」
「その可能性もある」
「使用人が困ります」
「だから、先に通達する。証言者や使用人への不利益な扱いも監査対象にする」
私は顔を上げた。
ユリウス様は、私を見ていた。
正面から。
「君が心配するのは分かる。だが、君が戻って火消しをする話ではない」
言葉が、まっすぐ来た。
痛かった。
私は、まだ戻ろうとしていたのかもしれない。
体では戻らない。
言葉でも戻らない。
でも、誰かが困ると聞くと、心だけが屋敷の廊下へ走っていく。
マラ。
水番の少年。
料理長。
洗濯場の女たち。
父が怒れば、火の粉はあの人たちへ行く。
だから私が戻って、なだめて、頭を下げて、鍵を探して、帳面を開いて。
そう考える道が、まだ体の中にある。
嫌になる。
使い慣れた道は、塞いでも足が向く。
「……はい」
声が詰まった。
「分かっています」
「分かっていても、走りそうな顔だ」
「顔に出すぎではありませんか」
「出ている」
「困ります」
「なら、座れ」
「またですか」
「走る前に座れ」
言い方。
でも、私は座った。
椅子の木が固い。
監査局の椅子は、座った者を甘やかさない。
今はそれでよかった。柔らかい椅子だったら、たぶん沈んでしまう。
◇
夕方、マラから手紙が届いた。
監査局の正式経路ではなく、洗濯場のターニャ経由だった。
手紙というより、布に包まれた小さな紙片だ。
エッダはそれを見て、眉を上げた。
「非公式連絡です」
「はい」
「読めます。ただし、記録するかどうかは内容次第です」
「分かりました」
私は布をほどいた。
中には、マラの字。
お嬢様。
旦那様は怒っています。
でも、料理長が水番の子を厨房に逃がしました。
私は無事です。
書斎の右下の棚は、昨日の夜から鍵がかかっています。
古い台帳は、見えません。
あと、旦那様が「リナが戻れば済む」と三回言いました。
三回です。数えました。
腹が立ったので数えました。
最後で、少し笑ってしまった。
マラ。
あなた、そんなところを数えなくていい。
でも、ありがとう。
笑ったら、目の奥が熱くなった。
今日は忙しい。笑うのか泣くのか、どちらかにしてほしい。
エッダが静かに聞いた。
「記録しますか」
私は紙片を見た。
マラの無事。
水番の子。
書斎の棚の鍵。
古い台帳が見えないこと。
父の発言。
記録すれば、マラの名前が出る。
出したくない。
でも、台帳の所在には関わる。
「マラの名は伏せて、屋敷内関係者からの非公式情報として記録してください。原本は私の保管で」
「承知しました」
エッダはうなずいた。
「それから、ターニャ経由で返事は?」
「書きます」
私は紙を出した。
マラへ。
無事だと聞けて安心しました。
水番の子を厨房に置いてくれてありがとう。
書斎には近づかないで。
棚を開けようとしないで。
旦那様が何を言っても、あなたが答えなくていい。
三回数えたなら、もう十分です。次からは逃げて。
そこまで書いて、少し迷った。
最後に、何を書く。
ありがとう。
ごめん。
元気で。
どれも薄い。
マラはたぶん怒る。
私がごめんと書けば、「謝るところではありません!」と怒る。
目に浮かぶ。
私は最後にこう書いた。
手が荒れたら、洗濯場の共用棚の軟膏を少し使って。
すると、急に自分が少し戻ってきた気がした。
私は水利台帳だけの人間ではない。
母の小瓶だけの人間でもない。
まだ、マラの手荒れを心配できる。
よかった。
それが、やけにありがたかった。
◇
夜、正式な保全命令が出された。
セルノア伯爵家の古い水利台帳。
北側客間記録。
井戸鍵受け渡し帳。
関連する使用人記録。
動かすこと、破棄すること、書き換えることを禁じる。
紙は冷たい。
けれど、その冷たさが屋敷の火を少しでも抑えてくれるなら、今は頼りたい。
ユリウス様が命令書に署名した。
筆跡は、思ったより荒くない。
硬いが、急いでいない字だ。
父の封蝋とは違う。
「明朝、監査官をセルノア家へ入れる」
「私も行きます」
言った瞬間、エッダがこちらを見た。
ユリウス様も見た。
二人とも、同じ顔をしないでほしい。
まるで私がまた井戸に飛び込むと言ったみたいではないか。
「危険ですか」
「危険というより」
エッダが言葉を選ぶ。
「負担が大きいです」
負担。
やわらかい言葉だ。
でも、中身は石だ。
私はうなずいた。
「大きいと思います。でも、台帳の見分けは私が一番早いです。表紙の切れ目も、棚の位置も、父の書斎の癖も分かります」
「君を連れていけば、伯爵が感情的になる」
ユリウス様が言った。
「連れて行かなくても、父は感情的です」
「それはそうだろうな」
認めた。
少しだけ笑いそうになったが、笑えなかった。
「行きたいのか」
ユリウス様が聞いた。
行きたい。
行きたくない。
どちらも本当だ。
あの屋敷に戻りたくない。
父の書斎の匂いも、広間の椅子も、井戸場の冷たい石も、今は全部怖い。
でも、台帳を見たい。
母が見ていた線を、自分の目で確かめたい。
父が何を隠したのか、知りたい。
そして、マラと水番の少年の顔を見たい。
それも本当。
「行きたいです」
私は言った。
「でも、怖いです」
言ったあと、目を伏せなかった。
怖いと言った。
ちゃんと言った。
それでも行くと言った。
ユリウス様はしばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「なら、行く条件を決める」
「条件」
「単独行動なし。伯爵との会話は記録係同席。使用人への接触は短時間。体調が悪ければ即時退出。台帳の確認は君が行うが、運搬は監査官がする」
「はい」
「それと」
「はい」
「君が戻れと言われても、返事はその場でしない」
喉が詰まった。
戻れ。
その言葉だけで、体が少し固くなる。
でも、私はうなずいた。
「はい」
「言えるか」
「……戻れと言われても、その場で返事はしません」
「もう一度」
厳しい。
でも、必要なのだろう。
「戻れと言われても、その場で返事はしません」
今度は少し強く言えた。
ユリウス様はうなずいた。
「よし」
よし。
子ども扱いのようで、少し腹が立つ。
でも、胸のどこかが助かった。
◇
部屋に戻ると、机の上にマラへの返事が置いたままだった。
私は封をして、ターニャ宛ての布包みに入れる。
それから、母の青い手袋の木箱を開けた。
手袋は薄紙の中で静かだった。
私はその横に、今日のマラの紙片を入れようとして、やめた。
違う。
これは母の箱だ。
私の今の怖さまで、全部ここへ押し込めるのは違う。
マラの紙片は、別の封筒へ入れた。
私の机の引き出しへ。
自分のものとして。
小さなことだ。
でも、小さなことを間違えると、あとで大きく絡まる。
糸も、家も、たぶん同じ。
窓の外で、水路が鳴っている。
明日は、セルノア家へ戻る。
戻るけれど、戻らない。
屋敷に足を入れる。
でも、鍵束を腰には戻さない。
私は寝台に座り、腰に手をやった。
痛みは、まだ少しある。
でも、何も下がっていない腰は、軽かった。
怖い。
怖いまま、行く。
私はそう決めて、灯りを消した。




