【4】
歪んだ笑みを浮かべた吉野さんは、スポーツバッグの肩紐の位置を整え直し、ひらりと右手を挙げた。
「じゃあな。オレが有名になったら『吉野と喋ったことがある』って自慢してくれていいぜ」
「そうさせてもらいます。また機会があれば展示を見に行きますね」
「社交辞令はいらねーよ。ルイの絵を称賛する奴に本物の才能は理解できねーさ」
踵を履き潰したスニーカーをパタパタと鳴らしながら、吉野さんが去っていく。彼の背中が遠ざかったところで、春斗くんが私の前に回り込んできた。
『感じの悪い人でしたねー』
「さっきは『すごーい』とか褒めてたくせに」
『そうでしたっけ? 記憶にないなー』
「あ、そう。それにしても随分ナルシストな人だったね。『世界が俺の才能に気付いてない』なんて」
『あの物言いだと、売れっ子だったルイに嫉妬してた可能性もありそうですね。実はライバル関係だったとか』
吉野さんにもらった習作に目を落とす。
春斗くんも覗き込んできた。
『ホントにルイの直筆なのかなー。ルイっぽさは全く感じられないですけど』
「嘘を言ってるようには見えなかったけどな。先に天海ルイの名前を出したのは私だし、都合よく《Louis》なんてサインの入った絵を持ってるとは思えないよ」
というわけで、この絵は本物だという結論に落ち着いた。習作を四つ折りにし、ウインドブレーカーのポケットにおさめる。すっかり冷えてしまった身体を軽いジャンプでほぐした。
「私も行くよ。日が沈む前には帰りたいから」
『そっか、ジョギング中だったんですよね。俺は適当に散歩と取材を続けるので、また近いうちに会いましょう』
春斗くんが鼻歌交じりで歩き出す。
良いフレーズが浮かびますようにと祈りつつ、私もジョギングを再開した。
+ + +
星ひとつない暗い夜。
遠くに見える山が燃えている。
私は小高い丘の上から、その様子を眺めていた。
ただ、呆然と。
「助けて」
ふとそんな声が聞こえ、振り返る。
私の後ろに枯れた大木が立っていた。
太い枝には、若い男性がロープで逆さ吊りにされている。
彼の顔は苦痛に歪み、瞳からは鮮血の涙が流れていた。
嫌だ。
助けて。
苦しい。
死にたくない。
悲痛な叫び声が脳内に響き渡り、眩暈がした――。
+ + +
ハッとして上半身を起こす。
視界に部屋の壁が映り、夢を見ていたのだと気付いた。夢見が悪かったせいか、心臓がバクバクと蠢いている。カーテンの隙間からは太陽の光が差し込んでいた。
枕元にあるスマホを取り、時間を確認する。
午前十一時を回っていた。
今日は日曜。バイトは午後四時からでアラームをセットしなかったとはいえ、随分ゆっくり眠っていたようだ。
『凛花さーん』
突然の呼び声にビクッと震える。
玄関の方から聞こえた声は春斗くんで間違いない。
『お邪魔しても良いですかー?』
「ま、待って、まだ駄目! 上がりたいなら三十分後くらいにして!」
『はーい』という返事を最後に部屋が静まり返る。溜め息をつきつつ布団をはぎ、ベッドから降りた。
正午近いが室内は冷え切っているため、エアコンの電源を入れる。その足でトイレ、洗面所、キッチンと順に向かい、お茶を注いだマグカップを手に部屋へ戻った。
あとで春斗くんが再来訪するはず。
着替えてファンデーションを塗るくらいのことはしておこう。
バイト用の格好――白いブラウスと黒のパンツに身を包み、朝食兼昼食のバタートーストを食べながらタブレットでニュース記事をチェック。起床から一時間ほど経過したところで春斗くんが訪ねてきた。『どうも』と爽やかに挨拶した彼が、私の正面に胡坐をかく。
『あれ? 凛花さん、なんか元気ないです?』
「怖い夢を見たんだよね。遠くの山で火事が起きて、それをぼんやり眺めてて……」
『山火事? もしかしてそれ、吉野さんにもらったルイの絵の影響で?』
「……そっか、たぶんそのせいだ。昨日の夜、吉野さんのことを調べてみたんだよね。私たちが疎いだけで、現代アートの世界ではそれなりに名の通った人なのかもしれないと思って」
『結果、どうでした?』
「《美術 吉野》とか《ホラーギャラリー魔界 吉野》とか《ホラーアーティスト 吉野》とか思い付く限り検索してみたけど、あの吉野さんらしき人のことは分からなかったよ」
『じゃあやっぱり、有名な人じゃなさそうですね』
吉野さんにもらった習作はチェストにしまっておいた。捨てるわけにはいかない、だからといって飾りたいものでもないから。
「ところで春斗くん、何でうちに来たの?」
『今日は仕事ですか?』
「うん。三時半から閉店まで」
『じゃあ今日の計画実行は無理か』
「何、その不穏なワード」
『頼みがあるんですよ。歌詞の件とは別で』
「……なんか急に嫌な予感がしてきたんだけど。もしかして幽霊絡みで何か頼もうとしてる?」
『おぉー。凛花さん、察しが良いですね』
春斗くんは朗らかに拍手しているが、どう考えても面倒事だ。聞かなかったことにしようと思ったが、彼は私の返事を待たずして話を進めた。
『俺と一緒に来てほしいんです。中総の中にある美術館まで』
中総――中央総合公園か。
アパートから車で十分くらいの場所にあり、何度か訪れたことはあるが、美術館へ踏み込んだことはない。
『実は、その美術館で幽霊の女の子と出会いまして。その子が抱えている未練を解消してあげたいなって』
「……そんな気はしてたよ。私のことは、もうその幽霊に話しちゃったの?」
『はい。「人間の友達がいるから何とかしてくれるよ」って』
「勝手に友達を名乗らないでよ。そんな期待だけさせちゃって、『やっぱり協力できないのでさようなら』なんてことになったら目も当てられないじゃん」
『何のアテもないのに引き受けたわけじゃないですよ。この内容なら凛花さんも協力してくれるかな、と思ったので』
「……どんな未練なの?」
『その子、ルイのファンなんですよ。俺と違って、かなり熱心な追っかけらしいです』
彼女の名前は美琴ちゃん。
高校三年生の美術部員。
美琴ちゃんは天海ルイの大ファンで、お小遣いの全てを彼につぎ込んでいた。自室には絵画のポスターをいくつも飾っていたそうだ。天海ルイの写真や絵に囲まれた部屋が、彼女にとって一番の癒し空間だったという。
『ルイの死亡ニュースを知ったとき、美琴ちゃんは目の前が真っ暗になったらしくて。放心状態でふらふらと歩いていて、赤信号に気付かず道路に出たところを車に』
「……そんな切ない話を聞いちゃったら、スルーってわけにもいかないよね。私にどんな協力をしてほしいの?」
ここで登場するのが、さっき話題に上った習作。美琴ちゃんは『もっと天海ルイのことを知りたかった』という思いでこの世に留まっているそうだ。件の習作は公に発表されたものでなく、ファンにとって貴重な資料。美琴ちゃんに習作をプレゼントしてあげよう、というのが春斗くんの計画らしい。




