【3】
「――そこの彼女」
突如、背後から聞こえた男性の声。
驚きで悲鳴が飛び出すと同時、前方へ転びそうになった。
「悪い。ビビらせちまったな」
声を掛けてきたのは長身の男性だった。黒いシャツに紫色のダウンジャケットを羽織っている。右肩に掛けているのはブランドのマークが刺繍されたスポーツバッグ。赤茶色の短髪に黒縁眼鏡が印象的な、三十代半ばくらいの男性だ。
「オレが立てた看板をじーっと見てるから。ちょっくら声を掛けてみようかと」
「あ、その、すみません。これを立てたの、あなただったんですね」
しどろもどろになりながらも答える。
春斗くんとの会話――傍から見れば私の独り言は聞こえていなかったようで安堵した。春斗くんも空気を読んでくれたのだろう、私の後方へと下がっていく。
「オレは吉野、アーティストやってる。メインは絵、立体アート」
「この立札、吉野さんの作品を展示している場所なんですか?」
「あぁ。興味あるか?」
「えっと……そうですね、それなりに」
「気ぃ遣う必要はねーよ。現代アートに興味ないならそれでいい」
「あ、でも。画家の天海ルイなら多少知ってます。しょっちゅうテレビに出てたので」
「……お前、ルイの作品が好きなのか?」
私が知っているのはインターネットで検索した絵画の写真だけだ。好きというほどではないが、綺麗だと思ったのは事実。「はい」と返すと、吉野さんは肩に掛けているスポーツバッグを開けた。そこからプラスチック製の書類ケースが取り出される。スケルトンのケースには、ノートの切れ端が大量に入っていた。ケースの中から一枚のルーズリーフが抜き取られる。
「これ、やるよ。天海ルイがルネサンス時代の画家に影響されて描いた習作だ」
「習作?」
「本番前に練習で描く絵のことさ」
差し出された紙を両手で受け取る。鉛筆で描かれたと思しき絵は、粗いスケッチ画だった。馬に乗った騎士ふうの男性が、ドラゴンを倒そうと剣を振り上げているシーン。その後ろには木々の群れが描き込まれている。用紙の右下には《Louis》とサインがあった。
「もちろんコピーじゃなく直筆だぜ? この習作には《悪夢の夜》という仮タイトルが付けられていた」
「凶暴なドラゴンが現れた悪夢、ですか?」
「いや。背景の森、あとで山火事に描き替えるつもりだったって話だ。一夜にして灰と化す無残な山」
斜め後ろから絵を覗き込んできた春斗くんが『ホントにルイの作品かなぁ』と呟いた。確かに、私が見たどの絵とも印象が異なる。癒しを与えるような煌めきは感じられず、《悪夢の夜》というタイトル、山火事というワードも天海ルイのイメージにそぐわない。そもそも何故、吉野さんが天海ルイの練習作品を所持しているのだろう。
言葉に困り沈黙してしまったためか、吉野さんは苦笑した。
「本当にルイの絵なのか、とでも言いたい顔だな」
「いえ……。天海ルイはファンタジーテイストな風景画のイメージだったので、ちょっと意外で」
「そりゃ誤解だな。あいつは〝風景画ばかり描いていた〟わけじゃなく〝風景画しか描けない〟奴だったのさ」
それはまるで、天海ルイをよく知っているかのような物言いだった。
「もしかして、天海ルイのお友達なんですか?」
「芸術の世界にはいろんな繋がりがあるんだよ」
後方から『すごーい』と呑気そうな声が聞こえた。つい反応してしまいそうになるのを堪え、受け取った習作に視線を集中させる。
『この人、ルイの知り合いなんだ。世間って案外狭いですねー』
お願いだから喋らないで――と春斗くんに注意することはできないが、このまま黙っていたら不自然だ。実際、吉野さんは怪訝そうな面持ちで私を見ている。何か言葉を繋がなければ。
「あ、でも……こんな貴重な絵をいただいていいんですか?」
「ちょっとした落書きみたいなモンだ。大した価値はねーよ」
「そうじゃなくて。天海ルイは亡くなってるので……」
「だからこそ、お前みたいな奴が持ってた方がいいだろ。死してなお自分の作品が必要とされ、語り継がれる――芸術家にとって幸せなことさ。と言っても、その習作はあいつにとってゴミみたいなモンだった」
「失敗作ってことですか?」
「あぁ。ゴミは他にもたくさんあったが、捨てるくらいならとオレが受け継いでやった。いずれもっと良い形で表現してやるってな」
「……そうですか。芸術家として、天海ルイと深い繋がりがあったんですね」
「言っとくが、あいつよりオレの方が優れたアーティストだぜ? 今はただ、世界がオレの才能に気付いてねーだけさ」




