【8】
午前八時半。
フロントでチェックアウトを済ませ、ホテルの駐車場へ向かった。頭上に広がる青空に反し、心の中はどんよりと曇っている。溜め息をつきつつ運転席のドアに手を掛けた。
……車内に誰もいない。
詩織ちゃんがどこかへ行ってしまったようだ。
周囲を見渡すと、ホテルの正面玄関から春斗くんが歩いてきた。挨拶してくれた彼に車に乗るようアピールする。春斗くんが助手席側へ回り込むと、私も車に乗り込んだ。
「詩織ちゃん、私が来たときにはいなかったんだけど。春斗くんのところに来なかった?」
『いえ。昨日凛花さんと一緒にここで別れて、それきりですよ』
「……もしかして、記憶を取り戻そうとして出て行ったとか? このあたりが地元だと悟った彼女が、少しでも早く自分の家を見付けたくて……昨日の様子を思うとその可能性が高い気がしてきた」
『すみません、やっぱり俺も車中泊すればよかったですね。連れ戻せなかったらどうしよう』
「春斗くんのせいじゃないよ。取りあえず昨日通ったところ……手芸用品店があったかもしれないっていうところまで行ってみよう」
エンジンを掛けてホテルの駐車場を出る。十分もあれば目的地に着けるはず――と思っていた矢先、詩織ちゃんの姿を発見した。宿泊したホテルから車で一分足らずの場所。歩道に並ぶ街路樹の傍で、車道の方を向いて立っている。
幸い交通量は少ない。
ハザードランプを焚いて車を寄せると、春斗くんが窓から顔を出して詩織ちゃんを呼んだ。声に気付いた彼女がこちらへ駆けてくる。詩織ちゃんは会釈しながら後部座席に乗り込んだ。
『勝手に出て行ってごめんなさい』
「気にしなくていいよ。散歩でもしてたの?」
詩織ちゃんの目線が車道の方へ逸れる。そういえば、春斗くんが声を掛ける前も同じ方向を見ていた。何かあるのだろうかと思い私も目を向ける。反対車線側の歩道には三人の男性がいた。そのうち一人が肩を抱かれ、介抱されているかのようだ。
『あの……わたし、さっきあっち側にいたんです。あの真ん中の人、たぶん酔っぱらって、歩道で寝てて……。立ち上がったと思ったら、わたしの目の前で急に吐いたんです。他の二人は友達みたいで、吐いた人を怒ってました』
「そっか。あんなふうになるまで飲むのは大人として恥ずかしいね」
『わたし、ちょっと前にもあんな人たちに遭遇したことがあって。だからなんか……可哀想だけど、すごく気持ち悪くって。お酒って嫌だな』
「そう思うのも無理ないよ。嫌なことは一旦忘れて調査を頑張ろう。ね?」
詩織ちゃんは『そうですね』と力なく呟いた。
改めて車を発進させる。
「そうそう、今日の予定だけど。午前中は昨日と同じく南北ローラー作戦、今度は逆から走ってみるね。昨日通ってない箇所も通ることになるはずだから――」
言い終わる前に、珍しく詩織ちゃんが口を挟んできた。
『実はわたし、さっき思い出したことがあるんです。学校が休みの日は那奈と二人で遊んでたんだけど、いつも那奈の家で集合してて。那奈の家は同じ形のマンションがいっぱい建ってる場所で、最初のうちはよく迷ってました』
話を聞く限り、那奈さんが住んでいたのは団地ではないだろうか。本人は引っ越してしまったかもしれないが、この近くで団地を捜し、そちら方面へ車を走らせてみよう。
飲み物調達も兼ねてコンビニの駐車場に入り、ナビの表示を切り替える。周辺地図を見ていくと、近くに大きな団地が一ヶ所存在していることが分かった。そのあたりを目的地としてセット、案内開始ボタンを押しておく。
コンビニでペットボトルの紅茶を購入して車に戻ると、ナビの案内に従って出発した。詩織ちゃんの様子に変化はなく順調に進んでいく。『目的地周辺です』と音声案内が流れた頃にはマンションの連なる通りに突入していた。交通量は少なく、ちらほらと通行人の姿がある。
『そう……確かここ……』
呟く声に気付き、バックミラーで詩織ちゃんの様子を窺う。彼女は表情を強張らせていた。また頭痛に襲われやしないかと不安になる。
スピードを落として走っていると、《さくら団地》と書かれた看板の傍――団地A棟の入口で掃き掃除をしている女性が目に入った。オレンジ色のエプロンが華やかな、眼鏡を掛けた六十代くらいのおばさん。団地の住人かもしれない。
団地の周囲には路上駐車している車が複数ある。その中に自分の車を紛れ込ませた。春斗くんたちに車内待機をお願いし、ショルダーバッグを掛けて外に出る。
掃除中のおばさんがこちらに気付き、「おはようございます」と会釈してくれた。感じの良さそうな人で助かった。私も挨拶を返し、おばさんの元へ歩み寄る。この団地に那奈さんが住んでいるか定かでないが、堂々としている方が怪しまれないだろう。
「すみません。佐伯那奈さんのお宅はどちらでしょうか?」
「那奈ちゃん? あなた、どちら様かしら」
おばさんは那奈さんのことを知っているようだ。詩織ちゃんが呟いていたとおり、彼女の住居はこの団地内、もしくはその近所かもしれない。
「私、川上凛花と言います。オカルト関係のYouTube配信者を目指していて、都市伝説や心霊スポットについて調べているのですが。那奈さんはその筋の有名人というか、情報通だという話がありまして……」
「じゃああなたもバケモノが好きなのね」
「ば、ばけもの……。えっと、そういう感じです、はい」
「あらそう。おばちゃんね、那奈ちゃんが赤ちゃんの頃から知ってるのよ。明るくて人懐っこい子だけど、オバケだとか妖怪みたいなものが好きで、子供の頃はいつもカメラをぶらさげていてね。おばちゃんにも『オバケの写真が撮れたら見せてあげる』って話してくれたことがあるの」
「実際に見せてもらったことがあるんですか?」
「まさか。那奈ちゃんは一生懸命だったんだろうけど、正直ちょっと怖かったかな」
「怖い、とおっしゃいますと?」
「黒いペンで全身にお経みたいな文章を書いたり、頭から黒い布を被って歩き回ったり、悪目立ちしてたのよ。ずいぶん変わった子だって、団地の子供たちの中で浮いてる時期があったわね。大人になるにつれてそういうこともなくなったけれど」
おばけが好きな変わり者……か。
詩織ちゃんの話から熱心なオカルトマニアだということは理解していたが、近所の人から見てもそうだったらしい。そしておばさんの発言から、那奈さんがこの団地の住人で間違いないことも分かった。




