【22】
《魔界》の中は天海ルイの作品や私物で溢れている。人格の入れ替わりに影響を及ぼさないよう、ここを離れた方がいいかもしれない。今後どうするかはさておき、一旦私の部屋に来てもらおう。
吉野さんの手を引いて立ち上がる。
しかし彼は、突き飛ばすようにして私の腕を振り払った。
「何するんですか」
「違う、僕じゃ――!」
言い終わらないうちに、吉野さんの表情が苦悶に歪んだ。よろよろと後退し、私たちに背を向ける。彼は頭を掻きむしっていた。
「早く、逃げてくれ」
「嫌です! 私たちと一緒に来てください!」
「このままじゃ、二人に危害を加えてしまうから」
「でも!」
「これは僕が自分で決めたことだから、君たちは気にしないで。むしろ感謝してる。凛花さんの想いが僕をもう一度表に出してくれたし、自分の身体で、殺人を繰り返されることも阻止できるんだから。どうせ心臓提供がなければ僕は……心臓を提供してやったんだから、オレのモンなんだよ!」
十字架の手前で立ち止まった吉野さんが、くるりと振り返った。
その様は先ほどから一転して俊敏だ。
カッと目を見開き、全身を震わせている。
そのおぞましい顔は確実に春斗くんを捉えていた。
次の瞬間、吉野さんが春斗くんに突進した。
突然のことで避けることができなかったのだろう。春斗くんが仰向けに倒れ、その上に吉野さんが馬乗りになる。
間違いない、あれは天海ルイの人格だ。
春斗くんを助けたい一心で、天海ルイの腕を引っ張った。しかし簡単に力負けしてしまい、後方へふっ飛ばされる。身体を打ち付けた痛みで一瞬、視界が弾けた。
天海ルイの手が春斗くんの首を締め上げる。
床に左手をついて腰を上げようとしたが、脳天を貫くような激痛が走った。突き飛ばされたときに左手首を捻ってしまったのか。
歯を食いしばり、右手で身体を支え立ち上がる。
無我夢中で天海ルイに体当たりした。
その弾みで春斗くんを解放することに成功したようだ。
天海ルイはうずくまっている。
首をさすりながら咳込んでいる春斗くんをフォローしつつ、天海ルイから距離を取った。
「僕は大切な友達を守れなかった。せめて凛花さんたちのことくらい格好よく守らせてくれよ――調子こいてんじゃねーよ、この心臓はオレのモンだ――駄目だ、この肉体は渡さない。お前の人格を消滅させて全てを終わらせる――うるせぇ消えろ――嫌だ。現実世界じゃ凡人だった僕が、如月サトルみたいに女の子を救うヒーローになるんだよ――黙れ、生きるのはオレだ」
おそらく今、吉野さんの意識は混濁している。
ひとつの肉体の中で、天海ルイと吉野誠の人格が戦っているのだ。
どうしたらいいのだろう。
どうしたら吉野さんを助けられるのだろう。
必死で頭を回転させてみても何も浮かばず、焦燥感ばかり襲い掛かってくる。
『凛花さん! 何やってるんですか!』
突然の罵声で我に返った。
春斗くんは窓のロックを解除している。
すり抜けることができなくなった代わりに、触れることが可能になったようだ。
『ルイに戻る前に逃げないと! 今度は凛花さんに手を出すかもしれない!』
「でも吉野さんが!」
『俺たちを守りたいというのが吉野さんの願いでしょう!?』
吉野さんは苦しそうに呻きながら、ジャージのポケットからスマホを取り出している。
一体何をするつもりだろうか。
友達に連絡?
それともご両親?
しかし彼が何を考えていたとしても、最後に選ぶのは死――そう思うと足が動かない。
『凛花さんが傷付いたら、吉野さんはまた苦しむことになるんですよ!?』
爪が食い込むほど強く拳を握り締める。
溢れる涙を拭うこともできず、アトリエを飛び出した。
背後で「ありがとう」という声が聞こえた気がした。
+ + +
真っ白なスケッチブックに描かれた男性の顔。
苦しそうに涙を流していなかったら、いつまでも眺めていたくなるような素敵な人だ。
――瞬きをした直後、涙の描写が消えていた。
鉛筆がひとりでに動き出し、男性の顔を描き直していく。
彼の表情は確かな笑顔へと生まれ変わった。
優しく、温かな微笑に――。
+ + +
吉野さんと別れた翌日。
彼の様子が気になって仕方なかったが《魔界》へ行くことはせず、不安と罪悪感に押し潰されそうな気分で過ごした。自分一人なら様子を窺いに行っていたと思うが、春斗くんから『絶対に行っちゃ駄目』と念を押されたため、もどかしいながらも我慢していたのだ。
そんな調子のまま夜を迎え、春斗くんが部屋にやってきた。彼の首には、天海ルイに襲われた際の爪跡がくっきりと残っている。とはいえ痛みはないそうだ。私の負傷した左手首も、病院で診てもらったところ骨に影響のあるものではなかった。今は湿布を貼って、できるだけ動かさないようにしている。




