【20】
「人間と霊には絶対的な壁があるんだよ。心を通わせることは赦されない」
「……仮にその話が本当だとしても、春斗くんをモデルとして渡すわけにはいきません」
「じゃあやっぱり、適当に霊を連れてくるかな」
それも嫌だ――言いたいのに言えなかった。ここで反抗的な態度を取れば、間違いなく春斗くんが危ないからだ。
「オレのやり方にケチをつけながらも結局、『友人を差し出すくらいなら見ず知らずの霊がモデルになればいい』ってことだろ? 他人の命はお構いなしじゃねーか」
「そういうわけじゃ……いえ、そういうことになってしまいますよね」
正直に答えたとき、後ろから春斗くんに呼ばれた。囁くような声で、おそらく天海ルイには届いていない。『一旦逃げましょう』という提案――頷くと、春斗くんは壁に向かってダッシュした。私もすぐに身を翻す。
直後、ドタンッという大きな音が響いた。
反射的に足を止めて振り返る。
春斗くんが壁際で倒れていた。
咄嗟に駆け寄ると同時、天海ルイの高笑いが上がる。
「春斗くんに何をしたんですか!?」
「何もしてねーよ。その霊が勝手に、壁に突っ込んだんだろ?」
春斗くんは前頭部をさすりながら上半身を起こし、壁を見上げ目を細めた。すり抜けることができず激突してしまったようだ。今までそんなことは一度もなかったのに。
再び天海ルイへ視線を向けると、彼は可笑しそうに唇を歪め腰を上げた。
「この前その兄ちゃんが飛び出していったのを見て、今後の対策を練る必要があると思ったんだよ。モデルを逃がさないためにな」
「何か細工したんですか?」
「《霊魂界》っていう古いオカルト誌を参考にしたんだ。この家全体に結界を施してある」
「……結界?」
「遥か昔、人間を生贄にすることで悪霊の怒りを鎮める儀式が存在した。儀式の場となる建物から霊が逃げ出さぬよう、そして生贄となる人間が外に助けを求めぬよう、霊体や音を通さない結界が考案されたんだ。外に繋がる窓やドアを開ければ簡単に無効化することもできる。便利だろ?」
天海ルイは腕を組み、蔑むような目で私たちを見下ろした。
「お前たちは知らないようだが、少し前から噂が広まってるんだよ」
「噂?」
「モデルに使った霊がここを出て、他の霊にオレのことを話したらしい。その話が一部の連中に回って、このへんの霊は人間を警戒しているみたいなんだ。……人間も霊も面倒だよな。他人の幸せを妬み、他人の不幸を腹の中で喜ぶクソな存在のくせに、こういうときだけ無駄に結託しやがって」
天海ルイの表情に影が差す。
彼は以前「人間が嫌い」だと言っていた。
それは単なる人嫌いでなく、〝好き〟の裏返しだったのかもしれない。
人の持つ優しさや愛に期待しすぎていたために、欲を剥き出しにして群がってくる人々に絶望してしまったのではないか。事務所に強要されたことをきちんと守るような真面目さが仇となり、より影響が大きくなってしまった――そんな気がする。
哀しそうな面持ちから一転、天海ルイはニタッと意地悪な笑みを浮かべた。
「――ってなわけだ。その霊はオレがじっくり観察して、最高の作品に昇華させてやる」
「嫌です!」
叫びながら立ち上がると、春斗くんを呼んで廊下へ飛び出した。
階段を駆け下りていく――が。
『凛花さん!』という声に振り返った。
春斗くんが階段の前で静止している。
「何やってるの! 早く!」
『分かってる! 分かってるけど、脚が固まって動けないんです!』
――しまった。
春斗くんの制限のことを忘れていた。
彼は〝階段を下る〟という動作ができないのだ。
春斗くんがこの家から脱出するには、二階の窓を開けて飛び降りるしかない。しかし、そうしているうちに捕まってしまうだろう。私が天海ルイの気を引き、その隙に春斗くんを逃がしてあげるしかない。
中ほどまで下りていた階段を駆け上がる。薄暗い廊下で天海ルイと向かい合った。逃走しようとする私たちに怒っているかと思ったが、そんな顔つきではない。
「凛花、お前本当に分かってるのか? その霊に入れ込めば死ぬぞ」
「……そんなの信じません。私は元気です」
「オレはその霊を押さえつけて首をいただくこともできるが、凛花は手さえ握れねーんだろ? 傍に置いておく必要がどこにある」
「春斗くんは大切な友達なんです!」
廊下に余韻を残し、しんと静まり返る。
つい熱くなってしまったが、恥ずかしさに身体まで熱くなってきた。
天海ルイが一歩、また一歩と身を引き始める。
彼の顔は拳で殴られたかのように歪んでいた。ぴくぴくと唇が痙攣しているのが見える。
「大切な、友達……大切な友達……やめろ……」
震えた声でぼそぼそと繰り返しながら、天海ルイがアトリエの方へ入っていく。その足取りは泥酔しているかのようで、今にも倒れそうだった。
『……ルイ、どうしちゃったんでしょうか』
背後にいた春斗くんが、怪訝そうに顔をひそめて私の隣に並ぶ――それと同時、どたんと倒れ込むような音が響いた。床に走る振動が不安を加速させる。急いでアトリエに入ろうとしたが、春斗くんに呼び止められた。
『今のうちに逃げましょう!』
「でもあの人、具合が悪くて倒れたのかもしれない」
『ルイが言ってたことを思い出して! 俺たちを襲うための演技かもしれません!』
「もし演技じゃなかったら? 心臓が痛くなってたら? またくも膜下出血を起こしてたら?」
『それは――』
春斗くんの言葉を待たずアトリエに駆け込んだ。天海ルイがうつ伏せで倒れている。呼び掛けながら隣にしゃがみ、彼の上半身を持ち上げた。仰向けに寝かせたところで、閉じていた彼の目が開く。虚ろな瞳と目が合った。
「……りんか、さん?」
微かに聞こえた私の名前。
天海ルイに呼ばれたのではないと分かった。
「あなた……吉野さんですか?」
首が小さく縦に動き、彼の瞳から涙がこぼれ落ちる。
とても演技をしているようには見えなかった。




