【9】
ぼんやりと天井を見つめていたものの、『凛花さーん』という明るい声に意識を引き戻された。上半身を起こし、玄関に向かって「どうぞ」と返す。春斗くんがひらひらと右手を振りながら入って来た。流していた音楽を切り、ベッドから足を下ろす。春斗くんは私の正面――カーペットの上に腰を下ろすと、小首を傾げた。
『もしかして凛花さん、元気ないです?』
「今日も怖い夢を見たんだよね」
『……また? マジ、俺のせいじゃないですよね?』
「自分でもいろいろ考えたけど、やっぱり春斗くんは関係ないよ。幽霊とのお喋りが原因なら、昔から悪夢だらけだったはずだもん」
『今日はどんな夢を見たんです?』
「雨の代わりにカッターの刃がザァザァ降ってきて、みんなが血まみれで絶叫してる夢」
『地獄絵図ですね……。そんな悪夢を何回も見るなんて、精神的に参ってるとか? 何か心当たりないんですか?』
「うーん……。特に思い当たることはないね」
『でも悪夢って、何らかのサインだとか聞いたことあるような……。どのみち良い暗示じゃないと思うんですよね。俺、凛花さんに近付かない方がいいのかな』
「ホントに平気だから。ワガママで図々しいのが春斗くんの持ち味でしょ? 落ち込んだ姿なんてらしくないよ」
『……そうですね、俺は図々しい男ですから。凛花さんが元気になるおまじない、させてもらっちゃおうかな』
「どういうこと?」
立ち上がった春斗くんが、ベッドの淵に腰掛けている私の前に立つ。
彼は私の頭付近に顔を近付けた。
ほんの一瞬の出来事。
一歩身を引いた春斗くんが微笑する。
「何したの?」
『凛花さんの額にキスしたんです』
「……え、ちょっと! 勝手なことしないでよ!」
『どうせ何の感触もないんだからいいでしょう? お姫様が良い気分で目覚められるようにと祈りを込めて、王子からの口付けです』
「……私、お姫様扱いされるようなキャラじゃない」
『顔が真っ赤ですよ? 実は唇にしてほしかったとか言いませんよね?』
「言うわけないでしょ! この話はもうおしまい!」
春斗くんの妖艶さに振り回されるわけにはいかない。
改めて今日の来訪目的を訊ねた。
『作詞が難航しているので、参考までに凛花さんの好きなアーティストを教えてくれませんか? どんな雰囲気が好きなのか分かれば方向性も見えてくるかなと』
「昔からの推しはRe:pairっていうバンド。最近は女性アイドルグループのANGELSにもハマってる」
『どっちも知らないですねぇ。曲、流してくれません?』
「私の部屋で聴くの?」
『幽霊はスマホ使えないんですから。お願いしまーす』
……ここは〝推しアーティストの良さをアピールする時間〟とでも考えるか。
タブレットでYouTubeを開き、公式チャンネルへアクセス。手始めに一番好きな曲を流すと、春斗くんはキラキラと瞳を輝かせた。気に入ってくれたようだ。自分が好きなものを好きと言ってくれる人が増えるのは嬉しい。
――しかし。
そんな穏やかな気分も、たった半日で呆気なく終わってしまった。
春斗くんが帰った夜、また恐ろしい悪夢を見てしまったのだ。
今回は〝人形が突如破裂し、鮮血が飛び散って自分に降り掛かる〟というグロテスクなものだった。何故人形から出血したのかも分からない。
これで二日連続。
悪夢にうなされる間隔が狭まってきている……?
このまま毎晩悪夢を見るようになったらどうしよう。
万が一そんな事態に発展したら気がおかしくなりそうだ。
一度、心療内科にでも行ってみようか。頻繁に悪夢を見るようになった原因のヒントくらい掴めるかもしれない。そう考え予約を取ったのが一週間後――しかし受診当日まで悪夢を見ることはなかった。
病院では睡眠導入剤を処方してもらった。
結果、ぐっすり眠ることができ体調も良好。
これで頻繁に悪夢を見ることもなくなるはず、と自分に言い聞かせた。
人形破裂の夢を見てから約三週間。
一度も悪夢にうなされることなく二月末を迎えた。
春が近いとは思えないほど冷え込む日が多い。それでもジョギングだけは毎日欠かさず行おうと決めていた。
東公園に入って池の外周を走っていると、木々の傍にしゃがみ込む男性を発見した。背を向けているため顔は分からないが、冬の屋外で半袖シャツ一枚という寒々しい格好に透明感のある身体――春斗くんだ。
彼は最近、三日に一度くらいのペースで私の部屋に来ている。相変わらず歌詞制作は難航しているようで、参考に私の好きな曲を聴いてもらう日々。
このあたりを散策しているということは、今日も部屋に来るつもりだろうか……なんて考えたところで、非常事態が起きていることに気付いた。
春斗くんの両手が真っ赤に染まっている。
彼の前には、木の幹にもたれるようにして女性幽霊が座っていた。その女性が着ている服も真っ赤だ。
思わず春斗くんの名を呼んでいた。
私の声に反応して振り返った彼の顔からは恐怖が感じられる。
『凛花さん! 血が止まらないんです!』
出血しているのは女性だけだった。
彼女は首を垂れている。
意識が朦朧としているのかもしれない。
視線を走らせ出血の元を探ると、左腕の皮膚が一部、何かで削ぎ落とされたかのように欠損しているのが分かった。
春斗くんは出血を抑えるため、ハンカチで傷口を塞ごうとしていたようだ。可愛らしいウサギ柄のハンカチ――女性幽霊の所持品だろう。私には触れられないため、現状を見ていることしかできない。




