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第78話:夜凪 湊と、夜凪 夏花

 1月1日。

 世間が新年のめでたい空気に包まれ、珍しく暖かい元日に、晴れ着姿のカップルや家族連れが行き交う中。

 駅前のオシャレなカフェの一角だけが、まるでシベリアの永久凍土のように、絶対零度の空気に支配されていた。


「…………」


 カチャ、カチャ……。

 最高級の純白の着物を身に纏った天ヶ瀬 陽葵が、虚ろな瞳で、もう完全に冷めきった紅茶をスプーンでかき混ぜ続けている。

 彼女の全身から放たれる『ドス黒い負のオーラ』に当てられ、周囲の客は怯えて席を立ち、店員すらも近づけない異常事態となっていた。


「……あー、ハッピーニューイヤー、陽葵ちゃん。今年もよろしくね……って、言える空気じゃないね、これ」

 向かいの席に座る春香が、引きつった笑顔で冷や汗を流す。

「……新年早々、絶望のどん底。……歩くブリザード。しらんけど」

 隣の美月も、ストローを噛みながらジト目で陽葵を観察していた。


「……お二人とも、あけましておめでとうございますわ」

 陽葵はスプーンを置き、地を這うような暗い声で呟いた。

「……湊くんから、もう丸四日も、メッセージの返信がありませんの……。既読すら、つきませんわ……」


「ええっ!?」

 春香が思わず身を乗り出した。

「四日って、年末からずっと!?合宿ではそんなことなかったじゃん!いったい何があったの!?」


「……私の、私のせいですわ。私が愚かだったせいで、湊くんに嫌われてしまったんですの……」


 陽葵が、ポロポロと大粒の涙をこぼし始める。

 春香と美月が慌ててハンカチを差し出す中、陽葵はポツリポツリと、数日前の『あの日の出来事』を語り始めた。


               ***


 ――それは、温泉合宿から帰ってきて数日後。12月28日のことだった。


 陽葵と湊は、春の出版に向けた原稿の最終チェックのため、大学近くのファミレスで向かい合って作業をしていた。

 合宿を経て、二人の間の不器用な壁は以前より無くなり、湊も陽葵の世話焼きを自然に受け入れるようになっていた。陽葵にとって、それは夢のように幸せな時間だった。


『……湊くん。原稿の修正、とても素晴らしいペースですわ。これなら年内には全て終わりますわね』

『ああ。お前の添削のおかげで、なんとか形になったよ』


 湊がコーヒーを飲みながら、ふっと柔らかく笑う。

 その笑顔に見惚れながら、陽葵は少し頬を染めて、ずっと考えていた年末年始のプランを切り出した。


『あの、湊くん。今年の年末年始ですけれど……天ヶ瀬家の力で、都内の最高級ホテルのスイートを押さえてありますの。一緒に、初詣と新年を迎えませんか?』


 当然、頷いてくれると思っていた。

 だが、湊の指がピタリと止まり、その表情に明らかな『躊躇い』と『気まずさ』が浮かんだのだ。


『あー……悪い、陽葵。大晦日と元日は、どうしても外せない用事があって。……一緒に過ごせないんだ』

『え?外せない用事、ですか?…あ…ご実家に帰省されるとか?』

『いや、そうじゃなくて……ちょっと、人と会う約束があってさ』


 湊が、目を泳がせながら曖昧に言葉を濁す。

 その瞬間、陽葵の心の中に、チクリと冷たい棘が刺さった。湊が、自分に何かを隠している。

 陽葵の脳裏に、合宿の朝に「もっと本気で泥棒猫になってみたくなりました」と不敵に笑っていた、あの同級生の顔がフラッシュバックした。


『……人と、ですか。それは、どなたですの?』

『いや、ただの身内事というか……お前が気にするようなことじゃないから』

『気にするようなことじゃない!?』


 陽葵は思わず立ち上がり、テーブルをバンッと叩いた。


『もしかして……あのチョコミントの女と会う約束をしているんですの!?温泉で私の要塞が完成したからって、今度は年末年始の隙を突いて……っ!』

『は?なんでいきなり宵野が出てくるんだよ!あいつは全く関係ない!』

『だったら、なぜ私に隠すんですの!?私には言えない相手と、年越しを過ごすなんて……っ!』


 陽葵の声が、不安と嫉妬で震える。

 だが、疲労と睡眠不足が溜まっていた湊も、陽葵の聞く耳を持たない一方的な疑いに、つい苛立ちを募らせてしまった。


『だから、宵野は関係ないって言ってるだろ!なんで何でもかんでもあいつに結びつけるんだよ!少しは俺の言葉を信用してくれよ!』


 少しだけ荒げられた、強い口調。

 それは、合宿であれほど心を許し合った後だったからこそ、陽葵の心に深く、鋭く突き刺さった。


『っ……!!』


 陽葵は息を呑み、ショックで顔を蒼白にさせた。

 自分の醜い嫉妬で、湊を心底呆れさせてしまった。嫌われてしまった。その絶望で頭が真っ白になり、これ以上そこにいられなかった。


『……そうですか。……ごめんなさい、私がでしゃばりすぎましたわね。お好きになさい』


 陽葵は冷たくそう言い放つと、カバンを掴み、湊が止める間もなくその場から無言で立ち去ってしまった。

 それから四日間。意地を張って連絡を絶っていた間に年は明け、湊からの連絡も一切ないまま、今日に至ってしまったのだ。


               ***


「――というわけですの。……私、湊くんに少しキツく言われただけでパニックになって、勝手に逃げ出して……最低の女ですわ」

 陽葵はテーブルに突っ伏し、着物の袖が汚れるのも構わずに号泣した。


「うわぁ……それは、二人とも不器用すぎるというか……」

 春香が頭を掻きむしる。

「……湊の言葉足らず。……陽葵の暴走特急。……見事な交通事故。しらんけど」

 美月がため息をついた。


「でもさ」と、春香が不思議そうに首を傾げる。

「夜凪くんが陽葵ちゃんに言えなかった『年末の用事』って、結局なんだったの?陽葵ちゃんのことだから、どうせSPの黒服の人たちを使って、裏でこっそり調べたんでしょ?」


 ビクッ、と。

 陽葵の肩が大きく跳ねた。図星だった。


「……はい。調べさせましたわ」

 陽葵は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、スマホの画面を二人に見せた。

「……湊くんは、年上の、綺麗な女性と……大晦日からずっと、一緒に過ごしていましたわ」


「ええっ!?マジで女の人!?じゃあ陽葵ちゃんの浮気疑惑、当たってたの!?」

「……春香、落ち着いて。……陽葵の顔が、怒りじゃなくて『後悔』で死んでる。……その女性、誰なの」


 美月の冷静な指摘に、陽葵はコクンと頷いた。


「……湊くんの実の、お姉様ですの」

「「お姉ちゃん!?」」


 春香と美月が声を揃える。

 陽葵はスマホの画面をスワイプし、SPから送られてきた一枚の報告写真を見せた。

 そこには、大晦日の夕暮れ時。市外れにある静かなペット霊園で、花を手向けて静かに手を合わせる湊と、その隣で優しく微笑む、湊によく似た面影を持つ女性の姿が写っていた。


「……湊くんのご両親は、彼がこちらに引っ越してくる直前に離婚されて、お母様が親権を持ってお父様から逃げ出しました。一応は今も一緒に住んでいることになっているのですけれど……」

「けれど……?」


 春香が息を呑む。陽葵は、辛そうに目を伏せた。


「……そのお母様は、自分の生活にかまけて、年に数回しか家に帰ってこないそうですの」


 カフェの空気が、シンと静まり返った。

 いつも飄々としている湊が背負っていた、息の詰まるような家庭環境。


「そんなこともあって、お姉様はご自身の『獣医師になる』という夢をあきらめ、湊くんを養うためにすぐ働こうとしたそうですわ。……だけど、そんな時。湊くんが、お姉様にこう言ったそうですの」


『――ましろを救えなかったその手を、俺の世話なんかで塞がないでくれ。姉貴は、その手でもっとたくさんの命を救うんだろ。……俺のせいで夢を諦めたら、俺、一生恨むからな』


「え……」

 春香が小さく息を漏らす。

 それは湊らしい、ひどく不器用で、優しすぎる『脅し文句』だった。


「その言葉に涙したお姉様は、仲の良かった母方のお祖父母様に泣きつき、懇願したそうですわ。事情を聴いた祖父母のお二人が学費を援助してくださることになり、お姉様は無事に獣医学部の大学へ進学できましたの」


 陽葵は一呼吸おいて続ける。


「ただでさえ莫大な授業料が必要で、留年など許されないことで有名な獣医学部です。そして、あの優しさの権化のような湊くんを育てたお姉様ですから……祖父母にこれ以上の迷惑をかけたくない一心で、血の滲むような勉強をこなし、研究室での実習や当直もあるため、なかなかお家には帰れない日々を過ごしていらっしゃいます……」


 陽葵の目から、再びボロボロと涙がこぼれ落ちた。


「……でも毎年、大晦日と元日だけは、必ず……二人きりでましろちゃんのお墓参りをして、お姉様の手作りのお雑煮を食べるのが……誰にも邪魔されたくない、彼らだけの神聖な『家族のルーティン』だったんですの」


 春香も美月も、言葉を失っていた。


「……だから、湊くんは皇 志遠に脅されたとき、自分の学校生活も、プライドも、すべてを投げ出してでも……必死に夢を叶えようとしているお姉様の未来だけは、絶対に守り抜こうとしたんですわ」


 陽葵は、自分の胸をギュッと強く掴んだ。


「湊くんは、私のために、優しさで隠してくれたのに。……私はそれを泥棒猫の影だと勘違いして、彼と彼のお姉様の神聖な時間を土足で踏み躙ろうとして……あまつさえ、彼を責め立ててしまったんですの。……嫌われて当然ですわ……私なんて、湊くんの隣にいる資格、ありませんのよ……っ!」



 自己嫌悪と後悔で、呼吸が浅くなるほど泣きじゃくる陽葵。

 あの絶対的な自信に満ちていた聖女の面影はどこにもなく、ただ愛する人を傷つけてしまったことに怯える、一人の不器用な女の子がそこにいた。


「……陽葵ちゃん」

 春香が、立ち上がって陽葵の隣に座り、その背中を優しく撫でた。


「あの人はね、そんなことで陽葵ちゃんを嫌いになるような、薄っぺらい男じゃないよ」

「……春香の、言う通り。……湊が怒ったのは、陽葵を拒絶したからじゃない。……大切な陽葵に、自分の重い荷物をこれ以上背負わせたくなくて、焦っただけ」


「でも、連絡が……」

「夜凪くんも、キツく言いすぎちゃったって、絶対後悔してるよ!どうやって謝ればいいか分からなくて、部屋で頭抱えてるに決まってるじゃん!」


 春香が、ニカッと太陽のように笑って見せた。

「陽葵ちゃんが、夜凪くんの『重い荷物』も全部愛するって決めたんでしょ?だったら、こんなところで泣いてちゃダメだよ。……ほら、行ってきな!」


「春香、さん……美月さん……っ」


 陽葵は、涙を袖で乱暴に拭うと、バンッ!と勢いよく立ち上がった。


「……そうですわね。私が愛したのは、そういう優しすぎる不器用な人でしたわ。……こんなところで立ち止まっている暇はありませんの!」


 陽葵の目に、再びあの『聖女』としての強い光が戻る。


「私、行ってきますわ!湊くんのお家に突撃して、お姉様にご挨拶をして、誤解を解いて……湊くんの親代わりであるお姉様ごと、天ヶ瀬グループの力で一生養って差し上げますわ!!」

「いや、最後のは絶対引かれるからやめときな!?」


 春香のツッコミを背に受けながら。

 天ヶ瀬 陽葵は、純白の着物の裾を翻し、愛する人の待つ場所へと、冬の寒空の下を全力で駆け出していった。

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