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第77話:宵野 詠も、本気です

 翌朝。

 太平洋から昇る眩しい朝日が、超高級旅館『天水閣』の大広間に燦々と降り注いでいた。


 広大な畳敷きの部屋に用意された、伊勢海老の味噌汁や焼き立ての干物が並ぶ、豪華絢爛な朝食の御膳。

 その席に先についていたのは、昨夜の卓球の筋肉痛で少し動きがぎこちない春香と、優雅に緑茶を啜る美月、そして淡いミントグリーンの浴衣をきちんと着こなした宵野 詠の三人だった。


「……ふわぁぁ。美月ちゃん、私、右腕がパンパンだよ……」

「……自業自得。……スマッシュ千本ノックの代償。しらんけど」

「ふふっ、お二人とも昨日は遅くまで楽しんでいたみたいですね。……夜凪さんたち、遅いですね。昨晩は『原稿作業』でお忙しかったのでしょうか」


 詠は小鉢のほうれん草のお浸しをつつきながら、意味深な笑みを浮かべて入り口の襖をチラリと見た。

 昨夜、VIP室という絶対領域に『チョコミントアイス』の遠隔攻撃を仕掛けた彼女は、その爆弾がどれほどの修羅場を生み出したのか、今朝の二人の顔を見るのを密かに楽しみにしていたのだ。


 ピシャッ、と陽葵の怒声が響くか。それとも、疲労困憊の湊が逃げるように現れるか。

 ――しかし。


 スパーンッ! と。

 大広間の襖が、まるで後光が差しているかのような錯覚を覚えるほど、清々しく開け放たれた。


「皆様、おはようございます!!今朝の空気は、世界がひざまずくほどに最高ですわね!!」


 現れたのは、真紅の牡丹の浴衣を身に纏った天ヶ瀬 陽葵だった。

 その姿を見た瞬間、詠と美月は同時に息を呑んだ。


 陽葵の全身からは、隠しきれないほどの『圧倒的な勝者のオーラ』が放たれている。何より異常なのは、その肌のツヤと、内側から発光しているかのような血色の良さだった。普段の聖女の冷たさは微塵もなく、まるで極上の水をたっぷりと吸い込んだ一輪の薔薇のように、妖艶に、そして満たされきった女の顔をして咲き誇っていたのだ。


 そして彼女の後ろから、寝癖を小さく跳ねさせた夜凪 湊が、大きな欠伸をしながらゆっくりと部屋に入ってきた。

 湊の目の下には、くっきりと濃い隈ができている。足取りは重く、完全に体力と精根を使い果たした男の顔だった。だが、その表情にいつもの「陽葵の暴走に胃を痛めている」ような切羽詰まった色はなく、どこか憑き物が落ちたような、ひどく穏やかでスッキリとした顔つきだった。


「……おはよう。ああ、眠ぃ……」


 二人が並んで座った瞬間。

 美月のジト目が、カッと見開かれた。


「(……VIP室での完全隔離。……陽葵の、限界突破した肌ツヤと機嫌の良さ。……対する、精魂尽き果ててフラフラの湊。……そして、二人から漂う、これまでになかった絶対的な『事後』の空気感……)」

 美月の脳内で、名探偵ばりの推論が瞬時に組み上がり、そして一つの確信へと至った。


「……一線、越えた。……大人の階段、全速力で駆け上がった。……陽葵の完全捕食。しらんけど」

 美月が、持っていた湯呑みを震える手で畳に置いた。


「えっ……!?」

 詠の手から、箸がポロリと滑り落ちた。

 普段は冷静沈着な詠のターコイズブルーの瞳が、限界まで見開かれている。


「(……嘘、ですよね?いくらなんでも、早すぎる。天ヶ瀬さんのあの不器用なプライドなら、まだそういう『決定的な行為』には及ばないはず……でも、この二人の間にある、入り込む隙間が1ミリもない空気は……完全に『結ばれた男女』のそれ……)」


 ハンターとしての詠の直感が、全力で敗北の警報を鳴らしていた。

 昨晩のアイスの差し入れが、逆に陽葵の理性のタガを完全に外し、強行突破(既成事実の作成)に走らせてしまったのだとしたら。完全に自分の失策だ。


 大広間の空気が、美月と詠の盛大な勘違いによる戦慄で凍りつく中。

 ただ一人、まったく別のベクトルで元気な声が響いた。


「あ、おはよ!……わぁ、陽葵ちゃん、今日すっごくお肌ツヤツヤで綺麗だね!さすが天水閣の温泉効果!」

 春香だった。

 彼女は、二人の間に漂う生々しい空気に1ミリも気づくことなく、いつもの太陽のような笑顔で純粋な感想をぶつけた。


「ふふっ。温泉の効果もありますけれど……昨晩は、湊くんと『とっても深くて、熱い夜』を過ごしましたから。心も体も、すっかり満たされましたわ」

 陽葵が、頬に手を当てて、うっとりとため息をつく。


(※陽葵の脳内:担当編集として第五章の改稿作業をした、その後朝まで膝枕で寝かしつけた、精神的に最高にディープな夜)


「そっかー!夜凪くん、目の下にすごい隈できてるよ!昨日は朝まで『激しい作業』してたんだね!お疲れ様!」

(※春香の脳内:朝までぶっ通しで原稿のタイピングと改稿作業をしていた)


「ええ、もう本当に激しかったですわ。……湊くんが限界を迎えて突っ伏してしまうまで、私、一睡もさせずにずーっと、覆い被さるようにして『添削』を注ぎ込み続けましたの」

「うわぁ、陽葵ちゃんスパルタ!でも、それだけ『原稿』の出来が良くなったってことだよね!夜凪くん、絞り尽くされちゃったね!」


 春香と陽葵の、全く噛み合っていないのに奇跡的に成立している会話。


「…………っ!!」

 それを横で聞いていた美月と詠は、顔から火が出るほど真っ赤になり、絶句していた。


「(……朝まで激しい作業。……限界を迎えて突っ伏すまで一睡もさせずに。……絞り尽くされた。……春香、なんて恐ろしい隠語を笑顔で……っ!)」

 美月が、顔を覆って天を仰ぐ。


「……あの、夜凪さん」

 詠が、すがるような目で、最後の確認をとるように湊に声をかけた。

「昨晩は……その、本当に、天ヶ瀬さんと『そういうこと』があったんですか……?」


「ん?ああ、そうだな」

 湊は、伊勢海老の味噌汁を啜りながら、なんの気負いもなくあっさりと頷いた。


「……深いところまで全部さらけ出して、ぶつけ合ったよ。おかげで俺の抱えてた空洞も完全に埋まった。……色々と限界突破して疲れたけど、最高に心地いい夜だった」


(※湊の脳内:自身の小説の第五章の添削について)


「「…………っっ!!!」」


 美月と詠のHPが、完全にゼロになった。

 もはや疑う余地はない。事後どころか、精神と肉体の完全なるフュージョンを果たした男の、悟りを開いたような清々しい顔がそこにあった。


「ふふっ。それに、いくら外から安いお菓子を差し入れようと……。結局、湊くんの心と体を最後に満たすのは、私の手作りだけですから」


 陽葵は勝ち誇ったようにそう言うと、自分のお膳から、ふっくらと焼けた出汁巻き卵を箸で摘み上げた。


「さあ、湊くん。徹夜で疲れた脳と体には、タンパク質が必要ですわ。はい、あーん」


 大広間の全員の視線が、湊に集中する。

 普段の湊なら、「やめろ!人前だぞ!」と顔を真っ赤にして拒絶する場面だ。

 しかし。

 湊は、出汁巻き卵を差し出す陽葵をちらりと見ると――ほんの少しだけ照れくさそうに頬を掻き、小さくため息をついてから。


「……ん」


 パクッ、と。

 なんの抵抗もなく、陽葵の箸から出汁巻き卵を直接食べたのだ。


「……!!湊くんっ、美味しいですか!?私が少しだけお醤油を垂らした、極上の卵焼きですわよ!もう一ついかがですの!?」

「いや、自分で食えるから。……でも、美味いよ。サンキュ」


 陽葵が嬉しさのあまり頭から湯気を出しそうになりながら湊の世話を焼き、湊はそれを「仕方ないな」という顔で、けれど一切の拒絶をせずに自然体で受け入れている。

 それはまさに、長年連れ添った夫婦のような、絶対的な安心感と絆の証明だった。


「……完敗。……もう、国境線引き直すレベルの敗北。しらんけど」

 美月が、白旗を上げるように両手を挙げた。


 詠は、箸を持ったまま、その光景を静かに見つめていた。

 肉体的な一線を越えた(と勘違いしている)ことへのショックもある。だがそれ以上に、湊のあの穏やかな目が、陽葵の息が詰まるような重い鎖を『自分にとっての唯一の正解』として完全に受け入れている事実が、何よりも重い敗北だった。


「(……一晩で、何があったんですか。……あんなに脆かった天ヶ瀬さんの結界が、つけ入る隙のない、絶対不可侵の要塞に進化しているなんて)」


 詠は、手元の熱いお茶を一口飲んだ。

 口の中に広がる渋みが、今の自分の敗北を告げているようだった。


 カシャッ、カシャカシャカシャッ!!

 空気を読まない春香が、我に返ったように猛烈な勢いでシャッターを切り始める。

「すごい!すごいよ、なんか原稿の山を越えて悟りを開いたみたいになってる!陽葵ちゃんの大勝利だね!」


「当然ですわ!湊くんの心も体も、宇宙の果てまで私のものですから!」

 陽葵は誇らしげに胸を張り、湊の腕にギュッと抱きついた。


 敗北。完全な、手も足も出ない敗北。

 詠は、ミントグリーンの浴衣の袖の中で、ギュッと小さく拳を握りしめた。

 普通の女の子なら、あの二人の完成された世界を前にして、絶望して諦めるだろう。


 だが。

 宵野 詠は、ゆっくりと顔を上げると、これまでで一番妖しく、そしてゾクゾクするような熱い光を宿して、ふわりと微笑んだ。


「……ふふっ。夜凪さん、天ヶ瀬さん。本当に、ごちそうさまです」


 敗北を認めた。

 けれど、それは彼女の『狩猟本能』に、さらに強烈な火をつけただけだった。


「でも、天ヶ瀬さん。要塞化された愛は、外からの攻撃には強くても……内側から少しずつ『毒』を回されれば、案外脆いものですよ?」

「なっ……!まだそんな減らず口を叩きますの!」

「一度『そういうこと(※一線)』を経験してガードが甘くなった男の人って、意外と他の女の子の誘惑にも弱くなっちゃうって言いますし」


「ななななっ!?なにを破廉恥なことを!!」

「え?破廉恥?何の話だ?」

 一人だけ会話の文脈から取り残された湊が、きょとんと首を傾げる。


「私、もっと本気で『泥棒猫』になってみたくなりました。……覚悟しておいてくださいね、お二人とも」


 詠は、悪びれる様子もなく堂々と、最高難易度の要塞へのリベンジを宣言した。


「きぃぃぃぃっ!!言わせておけばっ!!湊くん、帰りの電車はあの女とは別の車両、いえ、別の新幹線を丸ごと貸し切りますわよ!!」

「だから、貸し切りは目立つから普通に帰らせてくれって……」


 再び始まったドタバタな修羅場。

 俺は、激怒する陽葵の頭を「まあ落ち着け」と優しく撫でながら、窓の外の海を眺めた。


 ――こうして、怒涛の温泉合宿は幕を閉じた。

 陽葵との間にあった不器用な壁は壊れ、俺たちの関係はより深く、より重いものへと変わった。

 だが、俺たちを面白がる悪友二人と、敗北を知ってなお不敵に笑うミステリアスな同級生の存在が、この日常をそう簡単に平穏にはしてくれないらしい。


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