第76話:聖女様は、本気です
太平洋に面した超高級旅館『天水閣』。
その敷地の最奥に位置する、外界から完全に遮断されたVIP専用離れ特別室。
深夜零時を回った和室には、カタカタカタ……という、乾いたキーボードのタイピング音だけが静かに響いていた。
「……湊くん。ここの第五章、ヒロインの行動原理が全く理解できませんわ」
「えっ?どこだ?」
俺がPCの画面から目を離すと、隣に座る天ヶ瀬 陽葵が、持っていた赤ペンで印刷された原稿の束をバンッと叩いた。
彼女は真紅の牡丹の浴衣姿のまま、なぜか銀縁の伊達メガネをかけ、完全に担当編集の顔つきになっている。
「ここですわ!主人公が他の女と親しげに話しているのを目撃したヒロインが、『少しだけ胸がチクッとした』で済ませている部分です!こんなのリアリティがありませんのよ!」
「いや、普通のラブコメの嫉妬描写としては王道だろ」
「甘いですわ!好きな男が他の女と話したなら、最低でもその女の身辺調査を興信所に依頼し、主人公のスマホにGPSアプリを仕込んで二十四時間監視体制を敷くくらいの描写がないと、読者はヒロインの深い愛に感情移入できませんわよ!!」
「できるか!むしろ引くわ!陽葵基準でラブコメを添削するな!」
俺は頭を抱えた。
陽葵のプロデュース能力は確かに本物だが、ヒロインの愛情表現に関しては、彼女の常識が世間とズレすぎているのだ。
「いいですか湊くん。愛とは、相手の全てを把握し、隔離し、自分だけの箱庭に閉じ込めることですわ。……このヒロインの愛は、あのチョコミントのような小娘の薄っぺらい感情よりも軽く見えます」
「そこに対抗意識燃やすのやめろ。……はぁ、分かった。少しだけ嫉妬の描写を濃くしておくから」
俺が渋々タイピングを再開しようとした、その時だった。
『ピンポーン』
静寂を切り裂くように、客室のインターホンが鳴った。
「「……えっ?」」
俺と陽葵は顔を見合わせた。
ここは天ヶ瀬家の手配したVIP専用の離れだ。一般客はおろか、旅館のスタッフですら、陽葵の許可なく近づくことは許されていないはずである。
「……夜分遅くに申し訳ございません。ルームサービスをお持ちいたしました」
扉の向こうから、上品な仲居さんの声が聞こえた。
「ルームサービス?私はそんなもの頼んでいませんわよ」
陽葵が怪訝そうな顔で立ち上がり、用心深く扉を少しだけ開けた。
仲居さんは深々と一礼し、銀色のドーム型の蓋が被せられたワゴンをスッと差し出した。
「ご注文の品でございます。……同級生の方から、夜凪様への差し入れとのことです」
「なっ……!?」
陽葵の顔から、スッと血の気が引いた。
俺は嫌な予感がして、急いでワゴンに近づき、銀色の蓋をパカッと開けた。
そこに乗っていたのは、キンキンに冷えた器に盛られた、鮮やかな緑色の『チョコミントアイス』。
そして、添えられた小さなメッセージカードには、流麗な文字でこう書かれていた。
『原稿作業、お疲れ様です。お風呂上がりには、これが一番ですよね。天ヶ瀬さんの窮屈な鎖に疲れたら、いつでも私が甘やかしてあげますからね。
P.S. 扉の鍵、ちゃんと閉めておいてくださいね? ――詠より』
「……ど、泥棒猫ぉぉぉぉぉっ!!!」
陽葵が、深夜の太平洋に木霊するほどの絶叫を上げた。
「なぜですの!?なぜ天ヶ瀬家の厳重な警備網を潜り抜けて、こんな不浄な刺客がVIP室に届きますの!?旅館のスタッフを買収しましたの!?」
「いや、あいつ普通の大学生だぞ!?どうやって手回ししたんだよ……っ!」
詠の、まさかの遠隔攻撃。
完全に外界から遮断したはずの絶対領域に、涼しい顔をして爆弾を投げ込んできたのだ。
「湊くん!今すぐそのアイスを窓から投げ捨てなさい! 毒が入っているに決まっていますわ!!」
「旅館の備品を投げるな!落ち着けって!」
「落ち着いていられますか!いつどこから、あの女の刺客が来るか分かりませんわ! もしかしたら、すでにこの部屋の押し入れや天井裏に潜んでいる可能性も……っ!」
完全にパラノイア状態に陥った陽葵は、血走った目で部屋の隅々を警戒し始めた。
俺は、溶け始めたチョコミントアイスを横目に、深いため息をついた。
詠のしたたかさと行動力は、もはや陽葵の財力や権力という『物理的な防壁』すらも、心理戦で軽々と飛び越えてくるのだ。
それから数時間後。
パニックを起こした陽葵をなんとか宥めすかし、チョコミントアイスを証拠隠滅(俺が美味しくいただいた)した後。
深夜三時。
和室には再び、静かなタイピング音だけが響いていた。
「……ふぁぁ」
俺は大きな欠伸を噛み殺し、重くのしかかる瞼を必死にこすった。
慣れない改稿作業と、温泉旅行の興奮、そして何より、夕方から続くヒロインたちのバチバチの修羅場による圧倒的な精神疲労。
俺の体力は、すでにレッドゾーンを振り切っていた。
カタ、カタ……ターン。
「……よし、これで第五章は終わり……っと」
俺が限界を迎えてキーボードから手を離し、机に突っ伏した、その時。
「……湊くん。無理はいけませんわ」
すぐ隣から、ひどく優しくて、甘い声が降ってきた。
顔を上げると、いつの間にか伊達メガネを外し、プロデューサーの仮面を脱ぎ捨てた陽葵が、俺を慈しむような瞳で見つめていた。
「いや、でもまだ六章の修正が……」
「ダメです。プロデューサー権限で、本日の作業は強制終了とします。……これ以上、湊くんがボロボロになる姿を見るのは、私の心が痛みますから」
陽葵は俺のPCをパタンと閉じると、俺の腕を引き、ふかふかの特級羽毛布団の上へと誘導した。
そして、自分が先に布団の上に正座し、ポンポンと自分の太ももを叩いた。
「ここに頭を乗せなさい」
「えっ……膝枕?いつもは逆だろ」
「今日一日、あの泥棒猫のせいで色々と疲れたでしょう?……今日だけは、私が湊くんの全てを、限界まで甘やかして差し上げますわ」
普段は産業廃棄物と呼んで隔離し、嫉妬で暴走してばかりの彼女だが俺が本当に夢に向かって限界を迎えている時は、誰よりも深く、究極の母性を発動して、俺を全肯定してくれるのだ。
俺は抗うことなく、陽葵の真紅の牡丹が描かれた浴衣の膝の上に、ゆっくりと頭を沈めた。
仄かな温泉の香りと、彼女の柔らかな体温が、疲労しきった脳髄を心地よく麻痺させていく。
「……あったかい」
「ふふっ。湊くんの髪、まだ少し湿っていますわね。風邪を引きますわよ」
陽葵の細くて冷たい指先が、俺の頭皮を優しくマッサージするように撫でる。
それは、詠が部室のストーブ前で見せた『同級生の甘やかし』とは全く違う。もっと深く、逃げ場のない、俺の存在そのものを根こそぎ絡め取っていくような、極上の溺愛だった。
「……まったく。あのチョコミントの小娘が調子に乗ってばかりで」
「いや、お前が自分で『建前』を作ったからだってば……」
俺の眠たげなツッコミに、陽葵は少しだけ困ったように微笑んだ。
「……ええ、分かっていますわ。私が自分の手で、湊くんとの間に『壁』を作ってしまったことくらい」
陽葵の指先が、俺の頬をそっと撫でる。
「ただ、怖かったんですの。あなたが私の傍からいなくなることが」
それは、春香や美月がとっくに気づいていた、陽葵の不器用すぎる本音だった。陽葵が、俺の耳元にそっと顔を寄せる。
「あの泥棒猫は、湊くんに『自由』を与えて、息のしやすい綺麗な世界を見せてあげるというのでしょうね。……でも」
一度そこで、区切った陽葵は困ったような眼をしていた。しかし、その眼にはどんな強敵にも絶対に屈しない、聖女としての凄絶な覚悟が宿っていた。
「そんな『正しいだけの愛』で、湊くんの泥だらけの傷が救えるわけありませんわ。…… 私があの女に負けることなど、天地がひっくり返ってもあり得ませんの」
「……陽葵」
「なぜなら……あの女が愛しているのは、夜凪 湊の『魅力的な光』だけ。でも私は違います。……湊くんが抱える『絶望』も、誰にも言えない『喪失』も、その優しすぎる『呪い』すらも、私の心と命を丸ごと差し出して、永遠に愛し抜く覚悟がありますわ」
陽葵は、俺の首に腕を回し、その熱い額を俺の額に擦り寄せた。
「貴方が泥に沈むというなら、私も一緒にこの純白のドレスを汚して泥に沈みます。世界が貴方に石を投げるというのなら……私がこの手で、世界の方を灰にしてみせますわ。……私以外の誰かに、この狂気が真似できまして?」
「…あぁ。無理だろうな」
俺の意識は、陽葵の温かい膝の上で、泥のように深い眠りへと落ちていった。




