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第75話:辻岡 春香は、どうしたい?

◇◆◇◆◇


 カァァァンッ!!

 という、小気味よくも乾いたピンポン玉の音が、深夜の温泉旅館の娯楽室に響き渡る。


「そぉぉぉぉいっ!!」


 掛け声とともに、辻岡 春香は全身のバネと体重を乗せた、全力のスマッシュを放った。

 オレンジ色の小さな球は、蛍光灯の光を反射して鋭い軌道を描き、卓球台の反対側へと突き刺さる――はずだった。


「……甘い。しらんけど」


 パコンッ、と。

 卓球台の向こう側で、紺地に朝顔が描かれた浴衣をスッと翻した美月が、表情一つ変えずにラケットの角度を微調整した。ただそれだけの、最小限の動き。

 しかし、春香の放った渾身の剛速球は、いともあっさりとその威力を殺され、ふわりとした山なりの軌道を描いて春香のコートの端、絶対に手が届かない絶妙な位置へとポトリと落ちた。


「ああっ!また美月の得点!もうっ、全然勝てないじゃん!」


 春香はガックリと肩を落とし、黄色の小花柄の浴衣の袖で、額に滲んだ汗を乱暴に拭った。

 大浴場での、あの竹垣越しのバチバチとした牽制戦の後。湊と陽葵の姿がロビーから忽然と消えたことで、二人は気を利かせてこの離れの娯楽室へと避難してきていた。


 天ヶ瀬グループの圧倒的な財力によって、超高級旅館『天水閣』は全館貸し切り状態だ。

 当然、このだだっ広い卓球場にも、春香と美月の二人しかいない。遠くの方で微かに波の音が聞こえるだけの、奇妙なほど静かな空間で、二人はすでに一時間近く、言葉少なに全力のラリーを打ち合っていた。


「……春香。さっきから、スマッシュに力が入りすぎ。……精神的な焦りや迷いが、ラケットの面に出てる。しらんけど」

 美月が、足元に転がってきたピンポン玉を拾い上げながら、いつも通りの淡々とした声で指摘する。


「うっ……バレてるかぁ。さすがは美月、観察眼が鋭いね」

 春香は苦笑いを浮かべ、卓球台の縁に両手をついて、少しだけ俯いた。

 キュッ、と、リノリウムの床でスリッパが鳴る。


 息を整えながら、春香の脳裏に浮かぶのは、先ほどのロビーや脱衣所で見せつけられた、あの同級生の姿だった。


「ねえ、美月」

「……ん」

「詠ちゃんって、すごいよね。……本当に、すごいと思う」


 春香の声から、いつもの太陽のような明るいエネルギーがスッと消え、少しだけ自嘲するような、弱々しい響きが混ざった。

 美月はピンポン玉を持ったまま、何も言わずに春香の次の言葉を待つ。


「陽葵ちゃんの、あの絶対的で異常な執着。……普通なら、あんなのを見たら関わり合いになりたくないって逃げるか、怖気づいて諦めるじゃない?なのに詠ちゃんは、一人で堂々と踏み込んでいって、真正面から夜凪くんを引っ張り出そうとしてる」

「…………」

「あの子、本気なんだよね。……本気で、あの人の隣に立つ覚悟を決めて、自分の全部を懸けて戦いに行ってる。……あの子の目、すごく綺麗で、強かった」


 ポツリ、ポツリと、春香の口からこぼれ落ちる言葉。

 いつもなら、一眼レフカメラを構えて「最高の修羅場いただきましたー!」と囃し立てている彼女の、レンズを下ろした、ただの一人の女の子としての素顔だった。


「それに比べてさ。……私って、なんだかすごく、意気地なしでずるいなって、思っちゃって」


 春香はピンポン玉を見つめたまま、ぎゅっと唇を噛み締めた。

 胸の奥にずっと蓋をしていた、春先の、あのセピア色になりかけた記憶の蓋が、ゆっくりと開いていく。


            ***


 ――桜の花びらが舞う、4月のキャンパス。

 私立聖鳳大学に入学したばかりの日、私はベンチに座り、ファインダー越しにその光景を眺めていた。


 レンズの向こうには、二人の男女がいる。

 一人は、少し困ったような、でもどこか安心しきった表情でサンドイッチを頬張る夜凪 湊。もう一人は、その口元を甲斐甲斐しくハンカチで拭いながら、うっとりと彼を見つめる天ヶ瀬 陽葵。


『……あーあ。入り込む隙間、1ミリもないや』


 私はカメラを下ろし、小さく溜息をついた。

 高校時代、あれだけ「負けない!」「夜凪の隣が似合うようになりたい!」と意気込んで、彼をずっと追いかけていた私。けれど、冬が明け、大学生になったこの春、私はある一つの残酷な結論に達していた。


 ――私の「好き」と、天ヶ瀬さんの「愛」は、種類が違う。


 天ヶ瀬さんの愛は、重くて、歪んでいて、世間から見れば少し怖い。でも、夜凪くんの孤独な魂を一番深いところで支えられるのは、あの「檻」のような愛だけなんだ。

 私の持っている真っ当な明るさじゃ、夜凪くんの抱える深い傷を照らしすぎて、逆に彼を苦しめてしまう。


『……よし。終わり!』


 私はパン! と自分の頬を両手で叩いた。こういうのはタイミングだ。未練がないと言えば嘘になる。でも、泣いている暇はない。だって、私には新しい役割が見つかったから。


            ***


「――あの日。私はちゃんと納得して、自分の意志で夜凪くんを諦めたって、思ってた」


 娯楽室の冷たい空気が、春香のむき出しになった心をチクチクと刺す。


「でも、詠ちゃんを見てたら、なんだかすごく苦しくなっちゃって。……詠ちゃんは逃げないで、真っ向からあの陽葵ちゃんとバチバチにやり合って、自分の居場所を力ずくで勝ち取ってる。……それを見たら、春に私が引いたあの境界線って、なんだったんだろうって」


 春香の大きな瞳の端に、じわりと透明な涙が滲む。


「夜凪くんの孤独を癒やせるのは陽葵ちゃんだけだなんて、ただの言い訳で……本当は、傷つくのが怖くて、戦う前から白旗を上げただけだったんじゃないかって。……私の夜凪くんへの思いって、途中で簡単にあきらめちゃう程度の、薄っぺらくて軽いものだったのかなって。……私って、ただの意気地なしなんじゃないかって」


 春香はずっと、陽葵と湊のいびつな関係を面白がり、特等席でカメラを構えている自分の立ち位置を気に入っていたし、誇りに思っていた。

 けれど、詠という「本気のチャレンジャー」の出現によって、かつての自分の『諦め』が、ただの『逃げ』だったのではないかという強烈な自己嫌悪に苛まれていたのだ。


 娯楽室に、重い静寂が落ちる。

 暖房の作動音だけが、ブーンと低く鳴っていた。


 美月は無表情のまま、手の中のピンポン玉をトントンとラケットで数回跳ねさせると――それをキュッと手のひらで握り込み、春香を真っ直ぐに見据えた。


 そして、パタン、と。

 自分のラケットを卓球台の上に置き、自動販売機の方へと歩き出した。


 ガコン、ガコン、と二つの缶ジュースが落ちる音がして、美月が戻ってくる。

 彼女は、冷えた缶のレモンティーを、春香の熱を持った頬にピトッと押し当てた。


「ひゃうっ!?つ、冷たっ!」

「……クールダウン。脳がオーバーヒートしてる」


 春香が慌てて缶を受け取ると、美月は自分の分のメロンソーダのプルタブをプシュッと開け、一口だけ喉に流し込んだ。

 そして、いつものジト目に、ほんの少しだけ熱い光を宿して、口を開いた。


「……ビジネスにおいて、最も高度で、最も勇気のいる決断はなんだと思う?」

「え……?ビ、ビジネス?ええっと……新しい事業を始めること、とか?」


 唐突な話題の転換に、春香が戸惑いながら答える。

 美月はゆっくりと首を横に振った。


「……違う。最も難しく、賞賛されるべき決断は『撤退戦』」

「撤退、戦……?」

「……勝算のない市場に、感情や意地だけでリソースを注ぎ込み続けるのは、ただの愚行。……状況を正確に分析し、被害が拡大する前に潔く身を引き、残された資産を守りながら、別の有益なポジションへと転換する。……それは、ただの『逃げ』じゃない。極めて高度な知性と、俯瞰的な視点を持った者にしかできない、立派な『戦略』」


 美月の淡々とした声が、静かな娯楽室に響く。

 その言葉の意味を理解し始めた春香の瞳が、少しずつ見開かれていく。


「……春香が勝率が低いからって、湊への愛が軽かったから、あの日『くん』付けに変えて身を引いたんじゃない」


 美月は、春香の目を真っ直ぐに射抜いた。


「私たちが身を引いたのは、湊の隣で狂い咲いているあの『異常な愛』が、あの不器用な男にとってのたった一つの『正解』であり、『救い』なのだと……誰よりも早く、正確に理解してしまったから」


 美月の言葉は、いつもより少しだけ熱を帯びて、けれどどこまでも優しかった。


「あの二人には、お互いしかいない。陽葵には湊が必要で、湊のあの深い孤独を埋められるのは、陽葵の重すぎる狂気だけ。……春香は、カメラのレンズ越しに、その残酷で美しい真理に気づいてしまった。だから、自分が介入してその完璧な生態系を壊すことを恐れた」


 美月は一歩だけ春香に近づき、その小柄な肩にポン、と手を置いた。


「……他人の狂気に席を譲って、親友としてアイツらの日常を、一番近い特等席で守り続ける。……そのために、呼び方を変えて境界線を引き、自分の初恋を綺麗に折り畳んで箱にしまった。……それは、決して薄っぺらい感情なんかじゃない。極めて利他的で、深くて重い『愛の形』」


 美月の言葉が、春香の胸の奥でずっとわだかまっていた氷を、ゆっくりと溶かしていく。


「……春香の感情は、絶対に軽くなんかなかった。……誰よりも優しくて、誰よりも二人のことを想っていたからこその、勇気ある撤退戦。……あの日、一番最初に境界線を引いた春香の潔い背中を、私は誇りに思う。だから自分のことをもう責めないであげてほしい。……しらんけど」


「み、美月……っ」


 ポロリ、と。

 春香の大きな瞳から、こらえきれなくなった大粒の涙がこぼれ落ちた。

 ただの『逃げ』だと思っていた自分の過去を、美月は『最も優しくて勇気のある愛の形』だと、理路整然と、そして温かく肯定してくれたのだ。


「う、うぅぅ……っ、美月いぃぃ!!」

「……ちょ、春香、抱きつかない。メロンソーダこぼれる。……重い」


 春香は泣きじゃくりながら、美月の紺色の浴衣にギュッと抱きついた。

 美月はやれやれとため息をつきながらも、空いている方の手で、春香の背中をポンポンと不器用に撫でてくれた。


「……っ、もう!美月、そういうエモくて泣けること言う時は、『しらんけど』ってつけるの禁止だからね!雰囲気が台無しになっちゃうじゃん!」

「……照れ隠しのための標準装備。仕様だから諦めて」

「……!」


 春香は目を丸く見開いたのち、浴衣の袖で目元を乱暴に擦り、鼻をスンスンと鳴らして、それから――ひどくスッキリとした、いつもの太陽のようなふにゃりとした笑顔を作った。


「……そっか。そうだよね。私、間違ってなかったよね」

「……うん。大正解」

「私、あの不器用な二人が大好きなんだ。……だから、これからも一番近くで、あの二人の騒がしい青春をカメラに収め続ける!それが、私が選んだ、最高のポジションだもんね!」


 春香は手元のレモンティーの缶をプシュッと開け、グビグビと勢いよく飲み干した。

 迷いは、もうない。

 詠という強烈なチャレンジャーが現れて、少しだけ心が揺らいだけれど、自分の役割…ヒロインではないけれど、誰よりも大切な親友を、もう一度強く抱きしめることができた。


「よーし!美月、私の完全復活記念に、試合再開だよ!次こそ絶対に勝つ!」

「……無謀な挑戦。でも、受けて立つ。次は春香のサーブから」


 二人の親友は、かつての淡い失恋の痛みをピンポン玉に乗せて、再び全力のラリーを再開した。

 カァァァンッ、コァァンッと、先ほどよりもずっと軽やかで、楽しげな音が娯楽室に響き渡る。


 彼女たちはもう、ヒロインの座は目指さない。

 けれど、誰よりも近い場所で、愛すべき不器用な二人と、そこに乱入してきたミステリアスな同級生の行く末を、最後まで見守り続けるのだ。


 それが、彼女たちなりの、最高に贅沢な青春の楽しみ方なのだから。

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