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第74話:宵野 詠は、困らせたい

 12月下旬。大学が冬休みに突入した直後のこと。


 俺たち一行は、太平洋側にある海を見下ろす超高級温泉旅館『天水閣てんすいかく』の、広大なロビーのソファに腰を下ろしていた。


「やはり冬の原稿執筆には、澄んだ空気と上質な温泉が不可欠ですわ。天ヶ瀬グループの力で全館貸し切りにして正解でしたわね」


 最高級の純白のウールコートを羽織った天ヶ瀬 陽葵が、運ばれてきたウェルカムドリンクの抹茶を優雅に啜りながら、満足げに頷く。


 かつて第一回の編集会議の後から、何度か行われた第二回、第三回の編集会議の後に「私たちの打ち合わせは温泉旅館で行いますわ!」と、しきりに彼女は口走っていた。そのトンデモ発言は、クリスマスの時期に合わせて見事に実行に移されていた。


「すっごーい!ロビーからも海が一望できるよ!さすがは陽葵ちゃん、スケールが違うね!」

「……温泉。……卓球。……カニ食べ放題。……最高。しらんけど」

 同行している春香と美月も、非日常の超絶ラグジュアリー空間にテンションが上がっている。


 ――ここまではいい。ここまでは、今までと同じ『身内』のノリだ。

 問題は、俺のすぐ隣のソファで、同じように出された抹茶と和菓子を美味しそうに楽しんでいる『五人目の人物』だった。


「本当に素晴らしいお宿ですね。……天ヶ瀬さんの『ボランティア精神』には、頭が上がりません」


 ネイビーのダッフルコートを着た宵野 詠が、ショートヘアを揺らしながら、陽葵に向かって涼しい顔で微笑みかけたのだ。


「……キィィィィッ!!なぜですの!!なぜ天ヶ瀬家の金で貸し切った神聖なこのイベントに、貴女が混ざっていますの!?」

 陽葵が、持っていた扇子をへし折らんばかりの勢いで立ち上がり、ギリィッと歯ぎしりをする。


「なぜって……夜凪さんから聞いていませんか?私たち文学研究会も、冬の『合宿』を企画していたんです。でも、予算が足りなくて困っていたところに、ちょうど夜凪さんが『ボランティア付きで打ち合わせに行く』というので、便乗させてもらったんです」

「だ、誰が許可しましたの!」

「あれ?ダメでしたか?公共のゴミである夜凪さんの監視とリサイクル活動なら、人数は多い方が天ヶ瀬さんの負担も減ると思ったんですが……」

「ぐっ……!!」


 詠の完璧な理論武装……すなわち陽葵の建前返しに、陽葵が血の涙を流して崩れ落ちる。

 そう、詠は俺たちの旅行の噂を聞きつけるや否や、「同級生」「同じ部活」という正当なポジションをフル活用し、完全に正規ルートでこの合宿に潜り込んできたのだ。


「(……この数日で、完全に陽葵の扱い方をマスターしてやがる……)」

 俺が戦慄していると、仲居さんが「皆様、お部屋と浴衣の準備が整いました」と声をかけてきた。


◇◆◇◆◇


 数十分後。

 それぞれの部屋に荷物を置き、旅館指定の浴衣に着替えた俺たちは、再び一階のロビーに集合していた。


「お待たせー!夜凪くん、どう?似合う?」

 一番乗りで現れた春香は、明るい黄色の小花柄の浴衣を元気いっぱいに着こなしていた。

「……春香、帯が少し曲がってる。……私はどう」

 続く美月は、シックな紺地に朝顔が描かれた浴衣で、彼女のミステリアスな無表情と相まって、雪ん子のような不思議な魅力を放っている。


「おお、二人ともすごく似合ってるぞ」

 俺が素直に感想を言うと、さらに奥の廊下から、足音が二つ近づいてきた。


「……お待たせしました、夜凪さん」


 現れた詠は、淡いミントグリーンを基調とした浴衣姿だった。

 普段のダッフルコート姿とは打って変わって、少し抜いた衣紋から覗く白いうなじが、ハッとするほど艶かしい。ショートヘアのターコイズブルーが、和装の中で絶妙なアクセントになっていた。


「どうですか?……夜凪さんのために、少し大人っぽい柄を選んでみたんですけど」

 詠は俺の目の前まで歩み寄ると、少し上目遣いになってふわりと微笑んだ。

「あ、ああ……綺麗……なんじゃないか?」

「ふふっ、嬉しいです。……あ、夜凪さん、浴衣の襟元、少し崩れてますよ。直してあげます」


 詠が自然な動作で一歩踏み込み、俺の胸元にスッと冷たい指先を這わせた、その瞬間。


「――汚らわしいっ!!その不浄な産業廃棄物に気安く触れるんじゃありませんわ!!」


 ドゴォォォォン!!と、背後の廊下から、ラスボス登場のような凄まじいオーラと共に陽葵が現れた。


 彼女が纏っていたのは、燃えるような真紅の地に、大輪の牡丹が描かれた浴衣だった。

 ただでさえ人間離れした美貌を持つ聖女が、髪を艶やかにまとめ上げ、豪華絢爛な浴衣を身に纏っているその姿は――息を呑むほどに圧倒的で、美しかった。


「お前、すごいなそれ……」

 俺が思わず見惚れて呟くと、陽葵の般若のような顔が一瞬だけパァッと明るくなり、『ほ、本当ですの!?湊くんのために一番気合いを入れましたのよ!』と《《デレそうに》》なる。


 だが、俺のすぐ傍に立つ詠の姿が視界に入るや否や、再び絶対零度の吹雪モードへと切り替わった。


「そこ!彼から離れなさい!その男は私が厳重に管理している特級呪物です!貴女のような小娘が触れれば、呪いが伝染りますわ!」

「大丈夫ですよ。私、夜凪さんの呪いなら、いくらでも受け止める覚悟がありますから」

「きぃぃぃぃっ!言うに事欠いて……っ!」


 火花を散らす真紅の聖女と、ミントグリーンの同級生。

 春香が「はいポーズ!修羅場合宿の開幕でーす!」と嬉々としてシャッターを切る中、俺の胃痛はすでに限界を迎えつつあった。


◇◆◇◆◇


 その後、豪華な夕食を詠の度重なるあーん攻撃と、それを防ぐ陽葵の鉄壁のディフェンスによる胃痛に耐えながら乗り切った俺は、逃げるように大浴場へと足を運んでいた。


「……はぁぁ、生き返る……」


 天ヶ瀬グループの圧倒的な財力で全館貸し切りとなっているため、何十人も入れるような広大な大浴場と絶景の露天風呂には、俺以外の客は誰もいない。

 湯船に肩まで浸かり、冬の冷たい夜風と潮騒の音を聞きながら、俺は今日一日の尋常ではない精神的疲労をゆっくりとお湯に溶かしていた。


 ――が。そんな平穏な時間が、いつまでも続くはずがなかった。


『わぁーっ!すっごい広い!海丸見えじゃん!』

『……春香。タオル巻いたまま入らない。マナー違反』


 男湯と女湯を隔てる、高い竹垣の向こう側。

 そこから、よく通る女子たちの高い声と、パシャパシャという水音が聞こえてきたのだ。


「(……マジか。この広大な温泉旅館で、よりによって隣の露天風呂に入ってくるのかよ)」

 貸し切りなのだから、他にも風呂はたくさんあるはずなのに。完全にタイミングが被ってしまったらしい。俺は気配を消すように、お湯の中に深く沈み込んだ。


『それにしても、詠ちゃんってスタイルいいねー。なんかこう、華奢なのに出るとこ出てるっていうか』

『えっ、そんなことないですよ。……でも、天ヶ瀬さんのその、お湯に浮いている暴力的なまでの果実には勝てませんね。さすがは夜凪さんを独占しているだけはあります』

『なっ……!?どこを見ていますの!不潔ですわ!』


 竹垣の向こうから聞こえてくる、女子特有の赤裸々なガールズトークという名のバチバチの牽制の掛け合いに、俺は顔から火が出そうになって両手で耳を塞ぎたくなった。


『……詠。……視線がハンター。……陽葵、防御力ゼロ。しらんけど』

『ふふっ。でも、せっかくの貸し切り温泉ですから、少し冒険したくなりませんか?』

『冒険、ですって?』


 詠の涼しげな声が、少しだけトーンを落として悪戯っぽく響く。


『ここ、竹垣の隙間から、隣の男湯が少しだけ見えそうなんですよね。……私、夜凪さんに返事を「保留してもらっている身」として、彼が普段どんなふうに……その、鍛えているのか、少しだけ視察してきてもいいですか?』

『な、ななななっ!?』


 竹垣の向こうで、ものすごい勢いでお湯が跳ねる音がした。


『許しませんわ!!断じて許しませんわ!!あの男の肌は天ヶ瀬家が厳重に管理している産業廃棄物です!貴女のような一般市民が、その不浄な姿を目に入れるなど公衆衛生上……っ!』

『でも、私、これも同級生としての純粋な資料集めの一環として――』

『春香さん!美月さん!今すぐこの泥棒猫を羽交い締めにしなさい!!絶対に竹垣に近づけてはいけませんわ!!』

『えー、面白そうだから詠ちゃんに行かせようよー。ねえ、美月』

『……賛成。……湊の狼狽える顔、見たい』

『裏切り者ぉぉぉっ!!きぃぃぃっ!私が壁になりますわ!!』


 ドタバタ、バシャバシャと、女湯から凄まじい争いの音が響き渡る。

「(……絶対に覗くなよ!ていうか春香たちも止める側だろ!)」


 俺は生きた心地がしないまま、お湯の中で小さく丸まっていた。

 詠の言葉が本気なのか、それともただ陽葵をからかっているだけなのか…いや、まぁ十中八九後者だろうが、そこが読めないところが恐ろしい。


 結局、俺は全くリラックスできないまま、カラスの行水で早々に大浴場を後にすることになったのだった。


◇◆◇◆◇


「……あーあ。せっかくの温泉旅行なのに、全然休まった気がしない……」


 湯冷めしないように浴衣の帯を締め直し、俺は本館から少し離れた場所にある自分の部屋、陽葵が手配した『完全防音・VIP 離れ客室』の重厚な扉を開けた。


 広大な和室の中央には、すでにふかふかの特級羽毛布団が敷かれている。

 俺はドサリと布団の上に倒れ込み、深いため息をついた。


「とりあえず、寝るか……」


 俺が体を起こして部屋の電気を消そうとした、その時だった。


「……湊、くん……っ!」


 ドンッ、と。

 背後から飛びかかってきた柔らかな重みに、俺は思い切り布団の上に押し倒された。


「うおっ!?」


 浴衣がはだけ、仄かに温泉と高級なシャンプーの香りが漂う。

 俺の上に馬乗りになったのは、濡れた黒髪から水滴を滴らせながら、肩で激しく息をしている天ヶ瀬 陽葵だった。


「ひ、陽葵!?お前、いつの間に俺の部屋に……」

「合鍵くらい持っていますわ!」


 絞り出すような、ひどく熱っぽい声だった。

 ロビーで見せていた激怒する聖女の顔は、そこにはもうない。

 あるのはただ、嫉妬と独占欲で完全に頭がショートしてしまった、限界ヤンデレの顔だ。


「さっき……女湯で、あの泥棒猫が竹垣の隙間から、湊くんの裸を覗こうとしましたのよ……っ!」

「いや、結局覗いてないだろ!?お前が止めてた声、全部聞こえてたぞ!」

「未遂でも同じです!湊くんの肌は、天ヶ瀬家の所有物です!誰の目にも触れさせてはいけませんの!!」


 陽葵は俺の胸ぐらを掴み、そのまま俺の首筋に顔を埋めた。


「あんなの卑怯ですわ……!同級生という立場を使って、堂々と湊くんにアピールして……私だって、本当はみんなの前で『湊くんの肌を見ていいのは私だけです!』って叫んで、ずっとくっついていたいですのに……っ!」

「……お前が自分で『ゴミ扱い』の建前を作ったからだろ」

「分かっていますわ!でも、もう限界です……!湊くんの体に、少しでもあの女の視線が残っていると思うと、私がどうにかなってしまいそうですわ……っ!」


 陽葵は顔を上げると、俺の浴衣の襟元を乱暴に引きはだけさせた。


「っ……陽葵、くすぐったいって……!」

「湊くん……好きです、好きですわ……。誰にも渡しません。同級生だろうがなんだろうが、湊くんの特別は、絶対に私だけですわ……っ」


 外の世界では、詠が俺の日常を脅かし、春香と美月がそれを見守っている。

 しかし、何重もの扉と結界で守られたこのVIP特別室の中だけは――絶対に誰も邪魔することのできない、俺と彼女だけの、狂おしくも甘い『絶対隔離空間』だった。


「……あーあ。せっかくの温泉旅行なのに、結局こうなるのかよ」

 俺は小さくため息をつきながらも、俺の上で身をよじって甘えてくる愛おしい猛獣の背中に腕を回し、その艶やかな髪を優しく撫でた。


「何か言いましたの、湊くん!私の愛が不満だとでも……っ」

「言ってない。……お前のその浴衣姿、世界一似合ってて綺麗だよ」


「っ……!!」

 俺の言葉を聞いた瞬間、陽葵の顔がボンッと音を立てて茹でダコのように真っ赤に染まった。

「あ、あぁぁぁっ!湊くんっ!もう無理です、好きすぎて死にそうですわぁぁっ!!」


 どうやら今夜は、原稿の改稿作業どころか、一睡もさせてもらえそうになかった。


◇◆◇◆◇


 その頃。

 静まり返った本館の薄暗い廊下を、淡いミントグリーンの浴衣を着た宵野 詠が、足早に歩いていた。


「……おかしいですね」


 詠は、自分の部屋から少し離れた本館の客室群を探索しながら、小さく舌打ちをした。

 先ほど、大浴場での牽制戦の後。せっかくの温泉旅行の夜なのだから、「保留」の特権をフル活用して湊の部屋に夜這いという名の差し入れを仕掛けようとしたのだが――。


「夜凪さんが、自分の部屋にいない。……天ヶ瀬さんの部屋も、もぬけの殻」


 詠のターコイズブルーの瞳が、スッと細められる。

 胸の奥で、警報機のように『嫌な予感』がジリジリと鳴り響いていた。


「(……あのプライドの高い天ヶ瀬さんが、みんなの前で宣言した『監視』の建前を捨てて、姿を消した?)」


 ふと、詠の脳裏に、ロビーで陽葵が口走っていた言葉が蘇る。

『この宿は天ヶ瀬グループの力で全館貸し切りにして正解でしたわね』


「……まさか」

 詠はハッとして、廊下の窓から広大な日本庭園の奥を見つめた。

 本館からは物理的に切り離された、木々の奥深くにあるVIP専用の離れ。あそこに通じる扉は、厳重にロックされているはずだ。


「私の存在に耐えきれなくなって……ついに建前を放棄して、監禁に踏み切った……?」


 詠は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。

 聖女の、なりふり構わぬ限界突破。それは、詠が想定していた以上の、狂気的で絶対的な防衛策だった。今からあのVIP室に突撃したところで、天ヶ瀬グループのSPか何かに阻まれるのがオチだろう。


「……今夜は、私の負けですね」


 詠はふうっと息を吐き出し、しかし決して諦めたわけではない、ハンターのようなゾクゾクする笑みを浮かべた。


「でも、天ヶ瀬さん。力技で隔離しなければならないほど、夜凪さんの心が私に傾くのを恐れているということですよね。……ふふっ。やっぱり、略奪のしがいがあります」


 詠は踵を返し、ミントグリーンの浴衣を翻して自分の部屋へと戻っていく。

 彼女の甘く危険な猛攻は、まだ始まったばかりだった。

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