第72話:宵野 詠は、いたずらしたい
あの波乱に満ちた週末のデート……という名目の資料集めと、駅裏の公園での陽葵の大号泣から、数日が経った頃。
十二月も下旬に差し掛かり、本格的な冬の寒波が街全体を包み込んでいた。中庭にある噴水池には薄い氷が張り、吹き抜ける北風は刃物のように冷たく、学生たちは皆コートの襟を立てて足早に講義棟を行き交っている。
吐く息も白く凍りつくような日の放課後。俺は、最新の空調設備が整った快適な図書館ではなく、サークル棟の一角にある『文学研究会』の部室へと一人、足を運んでいた。
学園祭での陽葵の「社会的抹殺宣言」以降、俺はキャンパス内で完全に『特級呪物』として忌み嫌われ、周囲から徹底的に隔離されている。
当然、俺が所属しているこの文学研究会の部員たちも例外ではない。強大な権力を持つ天ヶ瀬 陽葵の怒りを恐れる彼らにとって、俺という存在は「うっかり関われば天ヶ瀬グループの力で社会的に消されかねない、歩く時限爆弾」のようなものだ。
正直に言って、部室の居心地は最悪である。普通なら、こんな針のむしろのような、足を踏み入れるだけで胃が痛くなるような空間になんて絶対に行きたくない。温かいカフェか、誰もいない空き教室にでも引きこもっていたい。
だが、俺にはどうしても、この身を切るようなアウェー空間である部室に、定期的に通わなければならない明確な理由があった。
「……よし、今日はこの棚の奥の資料を漁るか」
部室の最奥。そこには、半世紀近い歴史を持つ文学研究会が、代々の先輩たちから脈々と受け継ぎ、蓄積してきた膨大な『蔵書』の山が壁一面にそびえ立っているのだ。
古書店の奥底で埃を被っているような絶版の昭和純文学の初版本、マニアックすぎて一般の書店には到底並ばない海外SFのマイナー翻訳本、さらには数十年前の学生たちが血の滲むような熱量で自主制作したアングラな文芸誌の束まで。
それらは、大学の立派な図書館の検索システムや、便利なネットのデータベースにすらヒットしない、まさに生きた活字の宝庫だった。
最近、ライトノベルという自分の主戦場だけでなく、純文学やミステリーなど、別ジャンルの文体や構成にも表現の幅を広げようと勉強している俺にとって、この埃っぽい部室は、絶対に手放すことのできない知識の鉱脈だったのだ。
ガラガラ、と。
立て付けの悪い引き戸を鳴らして部室に入ると。
「「「…………っ!!」」」
それまで和気藹々と、ストーブを囲んで新作の映画や小説の話題で談笑していた数人の部員たちが、一瞬にして息を呑んだ。
まるで、平和な草食動物の群れの中に、飢えた猛獣が突然檻を破って乱入してきたかのように、部室内の時間が完全にフリーズする。
数秒の硬直の後、彼らは無言のままササッと自分の荷物をまとめ、「お、お疲れ様です……っ」と蚊の鳴くような、ひきつった声で挨拶だけを残し、逃げるように部室を出て行くか、あるいは俺から一番遠い窓際の席まで後ずさって、絶対に目を合わせないようにスマホをいじり始めた。
「(……相変わらず、すごい避けられようだな)」
俺は心の中で乾いた苦笑を漏らしながら、部屋の中央で赤い火を灯している古い石油ストーブの前に、パイプ椅子をギシッと引っ張ってきた。
本棚から、背表紙の文字が掠れた分厚い純文学の小説を数冊抜き出し、椅子に深く腰掛ける。ストーブから放たれる暖かな熱と、微かに漂う灯油の匂いを浴びながら、俺はゆっくりと黄ばんだページをめくった。
周囲からの「早く帰ってくれ」という痛いほどの視線は背中に突き刺さるが、一度本の世界に入り込んでしまえば、俺の意識は外界から完全にシャットアウトされる。俺は鉛筆を片手に、美しい情景描写やハッとさせられる心理描写に線を弾きながら、ただひたすらに活字の海へと潜っていった。
そうして十数分ほど、静かな没入の時間を過ごしていた、その時だった。
「……お疲れ様です、夜凪さん」
ふわりと。
埃っぽい古い紙と灯油の匂いしかしないはずの部室に、甘くて、どこか涼しげな香りが鼻を掠めた。バニラのようで、少し爽やかな別のものも混じっている、不思議と落ち着く香り。
隣から聞こえた静かな、けれどよく通る声に顔を上げると、いつの間にか上着のダッフルコートを脱いだ宵野 詠が、俺のすぐ隣にパイプ椅子を引き寄せて、ちょこんと座っていた。
「……宵野。……お疲れ」
「何を読んでるんですか?ああ、それ。人間の醜いエゴと嫉妬を、これでもかというほど生々しく描いた傑作ですよね」
詠は、周囲の部員たちが「詠ちゃん、あの特級呪物に近づいてる」「聖女様に呪い殺されるんじゃ……」「私たちは何も見てない、何も見てない」とヒソヒソと怯えきっているのなど、全く意に介する様子はない。
同じ一年生でありながら、彼女の持つこの底知れない度胸とマイペースさは、ある意味で陽葵の異常な権力にも引けを取らない強さだった。
詠は俺の手元の本を覗き込むように、スッと身を乗り出してきた。
距離が、近い。
少し動けば肩と肩が触れ合いそうなほどの距離感。彼女のインナーカラーであるターコイズブルーの髪が、俺の肩先に触れそうになっている。俺は思わず、上体を少し反らした。
「……あ、ああ、情景描写の勉強にな。……というか宵野、あんまり俺に近づかない方がいいぞ。周りのやつらがビビり散らしてるし……陽葵の耳に入ったら、お前まで何されるか分からな――」
「ひゃっ!?」
俺の忠告の言葉は、首筋に背後から直接押し当てられた『氷のように冷たいもの』によって、情けない悲鳴と共に遮られた。
ビクンッと肩をすくめて驚き、首を縮める。
詠が、自分の両手を俺の後ろに回し、その冷え切った掌を、俺の首筋の素肌にペタリと直接当てていたのだ。
「ちょっ……!?冷たっ!お前、手、氷みたいに冷え切ってるじゃないか!」
「寒い外を歩いてきたばかりですから。……夜凪さん、すごく温かいです」
詠は悪びれる様子など微塵もなく、まるで日向ぼっこをする猫のように、ふにゃりと目を細めた。
彼女の氷のような指先が、俺の首の動脈から直接、体温を奪っていくのがわかる。ゾクゾクとするような冷たさと、それ以上に女子大生に素肌を触られているという背徳感で、俺の脳がショートしそうになる。いや、普段から触られてるか。
俺が慌てて身をよじってその手から逃れようとすると、彼女はあっさりと俺の首から手を離した。
――が、安心したのも束の間。
今度は、ストーブの前に投げ出されていた俺の太ももの上に、自分の両手をすっと、ごく自然な動作で滑り込ませたのだ。
「おいっ!」
「ストーブの前で手をかざすだけじゃ、芯まで温まらなくて。夜凪さんの体温、もう少しだけ分けてください」
「お前な、普通そういうのはお湯か、カイロで温めるもんだろ!?なんでわざわざ人の……しかも、他人がいる部室で……っ!」
俺が周囲の目を気にして小声で抗議するが、詠は俺の太ももの上で自分の細い手を重ね合わせ、全くどこうとしない。
ジーンズ越しの布地からでも、彼女の指先の冷たさと、そこからじんわりと伝わってくる柔らかな重みが、はっきりと理解できてしまう。
ショートヘアの隙間から覗くターコイズブルーの髪が、石油ストーブの赤い火に照らされて揺れていた。
「他人がいても関係ありませんよ。誰も私たちのことなんて見ていませんし……見ないふりをしてくれていますから」
詠の言う通り、窓際の部員たちは「絶対に俺たちは無関係だ」とばかりに、壁に向かって必死に本を読んでいるフリをしている。
「それに……夜凪さん、私のお願い、無下にはできないじゃないですか」
「っ……」
詠が、太ももに手を置いたまま、ほんの少しだけ上目遣いになって俺を見つめ、小悪魔のように微笑んだ。
「だってこの間の返事、私が『保留』にしたままですから」
「あのなぁ……あれはお前が勝手に俺の言葉を遮って……」
「はい、勝手にしました。でも――」
詠は俺の太ももの上で、わざとらしく自分の指を絡め合わせ、楽しそうにふわりと笑った。
「私が勝手に保留の期間を作ったとはいえ、まだ私がちゃんと『夜凪 湊』という個人にフラれていない以上……私には、夜凪さんをこうして甘やかして、自分の方へ振り向かせる権利が残っているはずです。……違いますか?」
「いや、理屈としてはそうかもしれないけど……限度ってものがだな……」
正論という名の暴論を突きつけられ、俺がしどろもどろになっていると、詠はさらにパイプ椅子を寄せ、俺の耳元に吐息が届くほどの距離まで顔を寄せてきた。
「私、あの日のカフェで言いましたよね。夜凪さんが私の方に帰りたくなるくらい、甘やかして、ダメにしてあげるって」
「……っ」
「天ヶ瀬さんのような、権力と狂気で縛り付ける異常な鎖も、ヒロインの形としては素敵だと思いますけど。……こうやって、夜凪さんが何も考えずにホッとできるような温かさと自由をあげるのが、私なりの戦い方です。保留期間中は、同級生の特権を使ってこうしていっぱいアピールしますから……覚悟しておいてくださいね」
耳元で囁かれる甘い声。
詠の冷たかった指先が、俺の太ももの熱を奪って、少しずつ人間らしい温かさを取り戻していくのがわかる。
それは確かに、陽葵の重くて痛いほどの、息が詰まるような独占欲とは全く違う。ひどく穏やかで、無理がなく、男の自尊心を優しく撫でるような、心地の良い甘やかしだった。
もし俺が、ただの普通の大学生の『夜凪 湊』だったなら、この居心地の良さに完全に絡め取られ、堕落させられていただろう。
「……夜凪さん。顔、すごく赤くなってますよ?」
「ストーブのせいだ。近すぎるからな」
「ふふっ。そういうことにしておいてあげます」
遠巻きに見ている他の部員たちからは、俺と詠が親しげに一つの本を覗き込んでいるようにしか見えないはずだ。
まさかこの誰もが恐れる特級呪物が、文学研究会の大人しい同級生から、自ら強引に作り出した『保留』という猶予期間を絶対の盾にして、こんな高度な心理戦と過激なスキンシップを仕掛けられているとは、誰も夢にも思わないだろう。
ブブッ、ブブッ。
その時、俺のコートのポケットで、まるで警報機のようにスマホがけたたましく振動した。
嫌な予感がして画面を見ると、やはり陽葵からのメッセージ通知だった。
『湊くん。なんだか今、サークル棟の文学研究会の部室の室温が、やけに高い気がしますわ。……間違っても、そこら辺にいるチョコミントみたいな泥棒猫と、発情期のような距離感で暖を取ったりしていませんわね?もしそんな公衆衛生に反する真似をしていたら、今すぐそのストーブごと、部室を天ヶ瀬グループの力で更地に爆破しますわよ』
「(また美月がカメラの映像見せたな……)」
俺が背筋に本物の氷を押し当てられたような悪寒を感じて、スマホの画面を凝視していると。
こてん、と。
詠が、俺の肩にコツンと頭を乗せてきた。
「天ヶ瀬さんからのメッセージですか?」
「……ああ。俺が変なことしてたら、今すぐここを爆破するってさ」
「ふふっ、怖いですね。やっぱりあの人、ヒロインの素質は完璧です。……でも」
詠は、俺の肩に頭を預けたまま、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「爆破されるまで、もう少しだけこうさせてください。これも、まだフラれていない私の、正当な権利ですから」
陽葵の張り巡らせた絶対的な結界の、わずかな死角。
そこにスルリと入り込んできた詠の甘い毒は、確実に俺の日常を侵食し始めている。
これ以上拒絶することもできず、俺は深くため息をつきながら、既読をつけたスマホをそっとポケットにしまった。
そして、爆発のタイムリミットに怯えながら、ただひたすらにストーブの赤い火を見つめ、自分のうるさい心臓の音が静まるのを待つしかなかった。




